第65話
巨大な門が、きしむような音を立てて開いていく。
そこから吹き込んでくる風は――
不思議なくらい、何の匂いもしなかった。
血の匂いも、金属の匂いも、土の匂いもない。
ただ、無。
マリーヌが小さく鼻を鳴らす。
「……何も、匂わないです」
エリシアが眉をひそめた。
「完全に“情報を削られた空間”ね。
五感の一部を封じて、判断を鈍らせるつもり」
セレナが肩をすくめる。
「まーた性格の悪い階層ね。
でも、ここまで来たらもう慣れてきた気がするのが腹立つわ」
ルクレツィアが剣の柄を軽く叩く。
「行きましょう。
今さら怖じ気づいても、戻り道なんてないんだから」
リズは扉の向こうを見つめながら静かに言った。
「何も聞こえない“沈黙の街”……
そんな感じがするわ」
僕らはうなずき合い、
門の向こうへ足を踏み入れた。
◆◆◆
そこに広がっていたのは、本当に“街”だった。
石畳の道。
整然と並ぶ家々。
噴水。
露店のような屋台。
広場には、ベンチまである。
景色だけなら、
帝都の一角をそのまま切り取ってきたような光景。
ただ――
人が、一人もいない。
セレナが首をかしげる。
「……なんか、妙に生活感あるのにね」
マリーヌはベンチの端をつつきながら言う。
「座った跡みたいなへこみもあります……
なのに、誰もいない」
エリシアは建物の壁に触れ、魔力の流れを読む。
「これは……
“記憶を型にした街”ね。
誰かが生きた時間を、
迷宮が“再現”している」
ルクレツィアが少しだけ顔を曇らせる。
「ノアの時代……なのかしら」
リズは周囲の家々を眺めながら呟いた。
「違う。
もっと新しい。
それに、ノアの頃の街並みとも微妙に違うわ」
僕は、石畳を踏みしめた。
(足に残る感覚が……“懐かしい”)
ただの石のはずなのに。
何度もここを歩いた気がする。
――小さな子供を抱いて
――誰かと肩を並べて
――一人で帰ることになった夜も
頭の奥で、ノイズのようにイメージが走る。
セレナが僕の顔を覗き込んだ。
「……また“知ってる気がする”顔してる」
「ちょっとだけ、見覚えがあるだけだよ」
「なら、ちゃんと後で聞かせなさい。
一人で抱え込んだら、その場で問い詰めるから」
脅し文句のくせに、声は柔らかかった。
◆◆◆
とりあえず街を一周してみることにした。
人の気配はない。
魔物の気配もない。
代わりに――
“視線”だけがある。
見ている誰か。
何かを待っている誰か。
空っぽの窓、誰もいない屋台の影、
噴水の水面。
その全てに、
誰かの記憶の残り香のようなものが、
薄く張りついていた。
マリーヌがそわそわと尻尾を揺らす。
「なんだか、みんなに見られている気がします……」
リズが頷いた。
「姿は見えないけれど――
ここには“たくさんいた”のよ。
笑っていた人たち、泣いていた人たち、
戦わないで生きていた人たち」
エリシアが言葉を継ぐ。
「迷宮は“戦い”だけじゃなくて、
“失われた日常”も記録してるのね。
この街は、誰かの大切だった場所」
ルクレツィアが少し肩を落とす。
「そういうこと聞くと、
あんまり粗末にできないわね」
セレナが腕を組みながら、
噴水に映る自分の姿を見下ろした。
「でもさ。
ここまでリアルだと、逆にしんどいわね。
……あたしたち、
戦ってばっかりじゃなくて、
普通に街歩きとかデートとかしとくべきなんじゃない?」
そのひと言に、空気がぴたりと止まる。
ルクレツィアが咳払いする。
「いきなり何の話?」
マリーヌは真っ赤になってわたわたしだす。
「デ、デートって、その、アルス様と……?」
エリシアが冷静ぶりながらも耳が赤い。
「統計的に見ても、“平時の時間”を共有しているほうが
恋愛感情は安定しやすいってデータはあるけど……」
リズは微笑んだ。
「私は歓迎よ。
戦場以外で隣にいられるなら、それはとても貴重な時間だもの」
僕は皆の視線が集まってくるのを感じて、
少しだけ困ったように笑った。
「順番待ちがひどいことになりそうだから、
まずは迷宮を出てからにしようか」
セレナがすぐさまツッコむ。
「逃げたわね?」
「逃げてない。
後回しにしただけ」
「ほぼ同義よ!」
笑いが漏れた。
さっきまで胸を締めつけていた重さが、
少しだけ軽くなる。
――こういうやり取りが、
迷宮の中でさえ“日常”になっているのは、
多分いいことなんだろう。
◆◆◆
それでも、この階層が試練であることは
すぐにわかった。
街をしばらく歩き回ったあと。
中央広場に戻ると、
さっきまでなかった“石碑”が置かれていた。
そこには、
簡潔な文字が刻まれている。
《この街の名前を思い出せ》
セレナが顔をしかめる。
「……知らないんだけど?」
エリシアが推測する。
「もともとアルス、もしくはノアが知っていたはずの名前。
迷宮はそれを前提にしている」
ルクレツィアが僕を見る。
「アルス。
何か、引っかからない?」
僕は、街をぐるりと見回した。
広場に面したパン屋。
角の花屋。
少し先の、冒険者向けの装備屋。
どこも“特別ではない”景色。
でも、胸の奥のどこかが、くすぐったい。
(ここを、誰かと歩いた。
何度も、何度も)
記憶が、
扉の前まで来ている感覚。
でも、その扉には鍵がかかっている。
リズがそっと近づいた。
「焦らなくていい。
思い出すべき時なら、勝手に開くわ。
ただ――
ここが“誰かの大事な場所だった”ってことだけは、
忘れないで」
セレナが石碑を指で弾いた。
「で?
名前、思い出せそう?」
僕は、頭の奥を必死に探る。
ノアとして歩いた街の名。
アルスとして辿り着いた迷宮の階層。
どこかで、たしかに聞いたことがある。
――優しい声で
――少し照れながら
『ここ、私……好きなんです』
『いつか、家族と一緒に住めたらいいなって』
誰かの声が蘇りかけた、その時――
街全体が、低く軋んだ。
エリシアが顔を上げる。
「……揺れた?」
マリーヌは耳をぴんと立てる。
「大きな、何かが……動こうとしてます……」
ルクレツィアが剣を抜いた。
「名前を思い出さないと“次の段階”に進むタイプね」
セレナが笑みを浮かべる。
「つまり、時間切れイベント入りってわけだ」
リズが静かに言う。
「名を呼んでほしいのよ、この街は。
忘れられたくない、って」
石碑の文字が、
ゆっくりと形を変えていく。
《名前を思い出せないのなら――
“今、ここで付けなおせ”》
「……え?」
エリシアが読み上げて、
目を丸くする。
「迷宮にしては、随分柔軟なこと言うのね」
リズが微笑んだ。
「過去の名前に縛られなくてもいい。
今、この瞬間にいる七人が、
“新しい名前”を与えればいい。
それもまた、ひとつの救い方」
セレナが腕を組んで考え込む。
「ふーん……
じゃああたし、“七人の街”とかどう?」
「そのまんま過ぎるでしょ」
エリシアが即ツッコミを入れる。
マリーヌが手を挙げる。
「あ、あの、“みんなの帰る場所”みたいな意味を込めたいです……」
ルクレツィアもそっと提案する。
「帝都のどの区画にも属さない、
“自由な場所”って意味を込められたらいいわね」
リズは静かに呟く。
「失われた日常を、
ここで少しだけ取り戻せるように」
全員の言葉を聞きながら、
僕の頭の中でひとつの言葉が浮かんだ。
昔、
誰かと約束したような響きの言葉。
「……“レムリア”」
ぼそりと漏れたそれに、
全員が顔を向けた。
セレナが首を傾げる。
「レムリア?」
自分でも驚いた。
口が先に動いた。
でも、意味ははっきりしていた。
「昔、聞いた話だけど――
“いつか帰るはずだった場所”って意味の古い言葉だ。
失われた街、沈んだ街、
本当は続くはずだった日常。
そういうものに付けられてきた名前」
リズが静かに目を閉じる。
「……似合うわね、この街に」
マリーヌが笑う。
「いいと思います!!
ここ、アルス様たちみんなの、
“帰る場所”になれそうな気がします!」
ルクレツィアも頷く。
「帝都の地図には載らない、
私たちだけの街、って感じ」
エリシアも微笑んだ。
「歴史的意味合いも悪くないわ。
採用ね」
セレナがにっと笑う。
「じゃ、決まりでしょ。
“ようこそ、レムリアへ”ってね」
僕は石碑の前に立ち、
右手をそっと乗せる。
「この街の名前は――
“レムリア”だ」
その瞬間、街全体に光が走った。
◆◆◆
同時刻。
迷宮のはるか外側、地上。
ヴァレリア帝国――帝都の中心塔、
上層部専用の観測室で、魔力計が激しく震えた。
「……まただ」
老魔導士が、
揺れる針を見つめながら小さく呟く。
「迷宮の“深層閾値”が動いた。
それも、今までと違う揺れ方だ」
隣に立つ帝国宰相が眉をひそめる。
「原因は?」
「断定はできませんが――
“迷宮が新たな名前を得た”時に似ています」
「名を与える……
そんなことができるのは――」
宰相の脳裏に、
ある少年の顔が浮かんだ。
金の瞳を持つ、
どこか底の見えない少年。
(アルス・アドマイヤ)
同じ頃、
別の場所――教会本部。
巨大な聖紋が刻まれた床の上で、
祈りを捧げていた大聖女が顔を上げる。
「……レムリア」
側近の神官が驚いたように言う。
「聖女様?」
大聖女は静かに目を閉じた。
「失われた街が、“名を取り戻した”」
神官が息を飲む。
「誰が……?」
「さあね」
大聖女は微笑んだ。
「でも――
私たちが長いこと叶えられなかったことを、
誰かがやってしまった。
なら、確かめに行くしかないわね」
迷宮の深層で起きた小さな変化は、
確実に“地上”を揺らし始めていた。
◆◆◆
再び、レムリアの広場。
石碑が崩れ、
代わりに小さな石板が七枚現れた。
それぞれに、
七人の名前が刻まれている。
アルス
セレナ
マリーヌ
エリシア
ルクレツィア
リズ
そして――空白の一枚。
セレナが首を傾げる。
「一枚、多くない?」
エリシアが解析する。
「“まだ見ぬ誰か”のための席……
かもしれないわね」
ルクレツィアが剣を納めながら言う。
「今は考えても仕方ないわ。
でも――
七人の名前が、確かに刻まれた」
リズは静かに石板に触れる。
「ここは、私たちの街。
戦いの合間に、きっと何度か戻って来るわ」
マリーヌは尻尾を揺らして微笑んだ。
「今度来たら、
みんなでパン屋さんで買って、
噴水のところで食べたいです……!」
セレナが笑う。
「その時は、ちゃんとデートもしないとね」
ルクレツィアが少しだけ耳を赤くする。
「……誰と誰が、とかは今は置いておきなさい」
僕は石板を胸にしまうように、
ひとつひとつ見つめた。
(ここは――
俺たち七人の、最初の“帰る場所”だ)
迷宮の中にある、
迷宮らしからぬ温かさ。
きっとこの先、
もっと過酷な戦いが待っている。
ノアの記憶も、
世界の真実も、
仮面の人物の本当の顔も。
それでも――
ここに戻って来られるなら、
まだ戦える。
セレナがふと僕を見る。
「ねえ、アルス。
いつかさ……
この街みたいな場所で、
何にも追われないで、
のんびり過ごす日が来ると思う?」
少し考えて、僕は答えた。
「思うよ。
そのために、
今は迷宮の底まで行くんだ」
ルクレツィアがにやりと笑う。
「じゃ、そのときは――
最初の“街歩きデート”、予約しておくわ」
「早い者勝ちですか!?
じゃあ私も……!」
「統計的に公平な抽選方式を検討すべきだと思う」
「私はどの枠でも構わないわ。隣にいられれば」
わいわいと、
街の真ん中で話が弾む。
迷宮の中だということを忘れそうになるくらいに。
でも、忘れてはいけない。
これは、“嵐の前の静けさ”。
レムリアの空が、
ほんのわずかに暗く色を変えた。
その変化に気づいたのは――
僕ひとりだけだった。
(来るな)
近いうちに、何かが来る。
迷宮の底からか、
地上からか、
あるいは――ノアの過去からか。
それでも、
背中に感じる七つの気配は、
確かにそこにあった。
七人で進む。
七人で生きる。
七人で笑う。
そのための街の名前を、
僕らは確かに刻んだ。
「行こうか」
次の階層への道が、
レムリアの外れに、静かに開き始めていた。
七人で歩き出す。
沈黙の街で与えた名前が、
これから先の戦いに、
どんな意味を持つのか。
まだ誰も知らない。
けれど――
それが“青年期の転換点”であることだけは、
全員が、胸のどこかで理解していた。




