第56話
落下が終わったのは、一瞬だった。
だが、感覚としては永遠にも思えた。
ルクレツィアが目を開けた時、
そこは先ほどまでの闘技場とはまるで違う空間だった。
天井は低く、狭い回廊。
壁も床も天井も、やはり灰色。
けれど、かすかに青白い光で照らされている。
「……ここは」
すぐに周囲を確認する。
近くの壁にもたれるようにして座り込んでいる少女がいた。
銀髪、蒼い瞳。
リズ・フィオーレ。
自らを“アルスの婚約者”と名乗った聖女候補。
ルクレツィアは素早く立ち上がり、彼女の元へ駆け寄る。
「リズ、無事?」
リズはゆっくりと目を開け、わずかに苦笑した。
「ええ。即死ではなかったみたい」
「“即死じゃない”って言い方やめなさい。縁起でもない」
そう言いながらも、ルクレツィアは胸の奥で少し安堵していた。
敵意はある。
警戒もしている。
恋敵なのは、間違いない。
それでも――
アルスが大切にしている過去の一部だとしたら、
簡単に失いたくはない。
そんな矛盾を抱えたまま、
ルクレツィアはリズの手を取って引き起こした。
「ありがとう」
リズは素直に礼を言った。
そこに嘘は感じられない。
◆◆◆
二人はしばらく無言で歩いた。
曲がりくねった灰色の回廊。
罠の気配は――ある。
だがアルスがいた階層とは違い、
ここは“殺すため”というより“試すため”の罠の配置だった。
リズが指先で壁に触れ、祈るように目を閉じる。
「……迷宮の“意図”が、伝わってくるわ」
ルクレツィアが眉をひそめた。
「意図?」
「ええ。この階層は――
“残された側”をどう扱うか、試してる」
「残された側……」
ルクレツィアは無意識に唇を噛んだ。
アルスと分断されたこと。
置いていかれた立場であること。
それを、迷宮自体が“条件”にしている。
腹の底から怒りが湧いてくる。
「気に入らないわね」
リズが横目でルクレツィアを見る。
「何が?」
「“残された”って概念。
私は置いていかれた覚えなんてない。
ただ、隣に立ち続けるために別の道を歩いているだけ」
それは、王女としての誇りと、
少女としての意地の混ざった言葉だった。
リズは少しだけ目を細め、くすっと笑う。
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
「褒められてる気がしない」
「褒めてるつもりよ。
だって――“アルスの隣に立つ女の条件”だもの」
ルクレツィアの足が止まった。
リズも立ち止まり、正面から向き合う。
銀の瞳と、金の瞳。
空気がぴんと張り詰める。
「……あなたは、“婚約者”だと言ったわね」
「ええ。ノアだった頃の、ね」
「“アルスの”婚約者じゃないと自分で言うの?」
リズは少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「ズルい質問ね、それ」
静かに、しかしはっきり言葉を続ける。
「私は、ノアの婚約者だった。
でも今、ここにいるのはアルス。
だから、本当は――“元婚約者”」
ルクレツィアは驚いたように目を見開く。
「じゃあ、どうしてそんなはっきり“婚約者”なんて……」
リズは胸に手を当てた。
「簡単よ。
私は、まだ“諦めてない”から」
その瞳は、
十年前に帝都会議で見せたものと同じだった。
まっすぐで、まるで祈りのようで、
少し壊れそうなほどの真剣さ。
「アルスが、アルスのままで“私を選ぶ”未来があるなら。
私はそこに賭ける。
たとえ、ノアの記憶を全部取り戻してもよ」
ルクレツィアは胸がざわつくのを感じた。
その感情が何なのか、
自分でもすぐには判別できなかった。
羨望かもしれない。
嫉妬かもしれない。
あるいは――共感かもしれない。
「……私も」
思わず声が出た。
「私も、諦めない。
アルスが誰だったとしても、どんな過去があったとしても。
“今のアルス”を好きになったのはわたし。
それは、誰にも否定させない」
リズは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、
すぐに柔らかく笑った。
「やっぱり――嫌いじゃないわ、本当に」
その言い合いは、
喧嘩のようでいて、
どこか“戦友の確認”にも似ていた。
◆◆◆
その時だった。
床が、鈍く震えた。
「……来るわね」
リズが前へ出て、聖印を構える。
ルクレツィアも剣を抜いた。
回廊の奥――暗闇の中から、
ゆっくりと影が現れる。
人の形。
だが、輪郭が揺れている。
髪も目も口も、灰色のモザイクのよう。
「……あなたは」
リズの声が低くなる。
「“記憶複製体”。
迷宮が、私たちにぶつけてくる過去の模造品」
影がいくつも現れ、並び立つ。
そのうちの一体が、
ルクレツィアのほうへ一歩踏み出した。
モザイクのようだった顔が、
ゆっくりと形を持っていく。
金の髪。
赤い瞳。
――幼い頃の、ルクレツィア。
心臓が跳ねる。
『あなたは王女様なんだから、
泣いてはいけませんよ』
幼い自分が、幼い自分を諭すように微笑んでいる。
(……やめて)
喉まで出かかった言葉を、
ルクレツィアは飲み込んだ。
同時に、別の方向でリズの気配が変わった。
そちらをちらりと見ると、
そこには――
白い神殿の衣。
優しげな笑顔の女性。
リズと同じ銀髪。
「……お母様」
影は柔らかく微笑み、
昔のように、祈りの手を組む仕草をした。
『世界のために、ノア様のために、生きなさい。
あなたの命は、そのためにあるの』
リズの目が揺れる。
(違う。
私は、世界のために生きてるんじゃない)
胸の奥から反論が生まれるのに、
喉から声が出ない。
ルクレツィアも同じだった。
『王女様は強くないと、みんな困りますよ?
“女としてのわがまま”は、しまっておきましょうね』
昔、くり返し言われてきた言葉。
それを、そのままの声で“幼い自分”が言ってくる。
剣を握る手が震えた。
迷宮は、“記憶”を抉ってくる。
アルスにだけじゃない。
彼の隣に立とうとする者たちにも。
「……気に入らない」
ルクレツィアは、剣の切っ先を幼い自分へ向けた。
リズも、聖印を強く握る。
「この程度で、私たちが折れると思わないで」
二人の心の奥にあるものは違う。
けれど、“今、アルスの隣に行きたい”という一点は同じだった。
◆◆◆
記憶の幻影との戦いは、
通常の戦闘よりもよほど厄介だった。
攻撃は通る。
霧のように崩れる。
だが、すぐに形を取り戻す。
これは肉体の戦いではなく、
“心の形”を変える戦い。
リズの前の“母の影”が、優しく微笑む。
『どうしてそんなに、彼に執着するの?
ノア様のために死ねるなら、それでいいでしょう』
「いやよ」
リズの声が震えた。
「私は――“アルス”と生きたい」
影が首を傾げる。
『ノア様ではなく?』
リズははっきりと頷いた。
「ノアを愛していたのも本当。
でも、それは“あの時の私”の話。
今の私は――
アルスとして笑う彼が、好きなの」
聖印が強く光る。
白い光が母の影を貫き、
その形が大きく崩れた。
『あなたは、変わってしまったのね』
「ええ。
私は私のために、彼のために変わるわ」
影が霧散する。
同じように、
ルクレツィアも幼い自分を前に一歩踏み出していた。
『王女様は、強く、正しく、立派でなくては』
「そうね」
ルクレツィアは頷き――
「だからこそ、“わがまま”も通すわ」
幼い自分が目を見張る。
「王女だから、国のために生きる。
それは当然の義務よ。
でも私は、女として――
“アルスが好き”って感情も、
絶対に捨てない」
剣に光が宿る。
「国か恋かなんて、選ばない。
両方取ってみせる。
それが、私の“わがまま”よ」
一閃。
光の軌跡が走り、幼い自分の影を両断した。
『そんなもの、許されるの……?』
「許させてみせるの」
影が霧のように消える。
闇と灰の廊下に、
ルクレツィアとリズだけが残った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
静寂の中で、
自分の心のざわめきが、ようやく落ち着いていく。
やがてリズが口を開いた。
「……ねえ、ルクレツィア」
「なに?」
「アルスのこと、本気で好き?」
即答だった。
「当たり前でしょ」
リズは小さく笑った。
「よかった。
中途半端だったら、敵にもならないから」
「あなたこそ?」
「もちろん。本気よ」
少しの沈黙のあと、
二人は同時に前を向いた。
「じゃあ、急ぎましょう。
私たちが先に“鍵”を取って、
アルスのところへ行くために」
「同じこと考えてた」
歩き出す足音が重なる。
迷宮は、残された二人の“覚悟”を試した。
彼女たちはそれに、
はっきりと答えを突きつけた。
――アルスの隣に立つために。
それぞれ、自分自身の過去を、
自分の意思で斬り捨てて。
灰色の回廊の奥で、
淡い光が揺れた。
そこには、小さな台座。
そして、灰色の結晶がひとつ。
リズが囁く。
「……“鍵”ね」
ルクレツィアが剣を納め、
結晶へと歩み寄る。
「取るわよ――アルスのところへ戻るために」
二人の手が、
同時に結晶へ触れた。
眩い光が走り、
迷宮が、次の試練の準備を始める。
アルスたちのいる階層へ続く道が、
少しだけ、近づいた。




