第52話
天井が、割れた。
光の結晶を砕きながら、黒い裂け目が音もなく広がっていく。
そこから溢れ出したのは――十年前に嫌というほど見た、あの“匂い”。
外側の世界の、匂い。
「っ……来たかよ、こいつ」
思わず立ち上がる。
会議場にいた各国の代表、英雄、聖職者、影の連中までもが、一斉に空を睨みつけた。
黒い雨のようなものが、ひと雫、またひと雫と落ちてくる。
床に触れた瞬間、石が溶けるようにぐずりと歪む。
セレナが杖を構え、叫んだ。
「全員、頭上に注意!! 瘴気じゃない、もっと悪い!!」
エリシアが即座に術式を展開しながら、歯切れ悪く言う。
「……解析不能。
でも、“十年前の怪物の欠片”に近い。
直撃したら、たぶん人間のままじゃいられない」
「人間のままじゃ、って気軽に言わないでよ!」
セレナが怒鳴る。
それでも彼女の魔法は、一瞬も止まらない。
炎の幕が頭上に張られ、黒い雫を焼き払っていく。
リズ・フィオーレが、聖印を掲げた。
純白の光が会議場全体を包み込む。
「《聖域展開・セラフィムシェル》」
外側の黒い雨と、聖女候補の光がぶつかり合い、空間が悲鳴を上げた。
けれど――
「リズ、一人じゃ保たない!」
そう叫ぶより早く、ルクレツィアが剣を抜いて前に出た。
「帝国第一皇女、ルクレツィア・ヴァレリア!!
この場を守る責任、共有させてもらうわ!!」
剣から迸る光が、聖域の縁に重なる。
他国の代表も、次々に力を重ねた。
剣国ヴァレントの英雄が剣を掲げ、
教国の聖騎士が祈りを重ね、
学術都市の賢者が補助術式を張る。
各国の色の違う光が絡み合い、
巨大な半球状のバリアが会議場を覆った。
それでも――
黒い裂け目から溢れ出す“何か”は、止まらない。
◆◆◆
「マリーヌ、後衛のフォロー!」
「了解です!!」
マリーヌは、すでに“メイド”ではなく完全に“斥候”の顔になっていた。
獣人の耳をピンと立て、匂いと気配を頼りに、
落ちてくる黒い雫の密度が高い場所を素早く叫んでいく。
「右上! 三列目上空、大量!!
後方通路にも漏れ始めました!!」
「ティノ、風壁で流れを変えて!」
どこからともなく現れた風の魔法師ティノが、
「任せろ!」と叫びながら通路を風の竜巻で塞いだ。
混乱しかけた会場が、少しだけ持ち直す。
ギルド長が、僕のほうへ顔を向けながら叫ぶ。
「アルス!! 天井の裂け目をどうにかできるか!?」
「……あれは“迷宮本体”側から繋がってる。
ここから殴りかかるだけじゃ足りない」
《フェイトリード》を使えば、
一時的に裂け目を“塞ぐ未来”を引き寄せることはできるかもしれない。
だが、それはたぶん――
代償が大きすぎる。
「場当たり的に未来を捻じ曲げ続けたら、
いつか“戻れなくなる”」
十年前の戦いで、僕は少し学んだ。
運命を導く力は、
乱暴に振るえば“別の誰かの未来”を食い潰す。
だから今は――
「ここで全部解決しようとするのは、違う」
エリシアがちらりと僕を見る。
「そうね。
ここは“入口”であって“本体”じゃない」
リズも頷いた。
「最深部が開きかけてる。
この裂け目は、その“漏れ”」
彼女はまっすぐ僕を見る。
「行くしかないわ、アルス。
――迷宮の奥へ」
セレナが小さく息を呑む。
ルクレツィアも、マリーヌも、エリシアも、
誰も反対しない。
「ここを守る部隊と、
迷宮へ潜る部隊を分ける必要がある」
ルクレツィアが言う。
「帝国代表として言わせて。
――『世界最強の迷宮攻略者』は、当然後者」
視線が、また僕に集中した。
ギルド長も頷く。
「世界は、お前に頼りすぎている。
だが迷宮の深部へ行ける人間が何人いる?」
リズが一歩前へ出た。
「私も行くわ。
《聖女候補》としての力は、
あの“外側”相手にこそ使うべきものだから」
セレナがすかさず口を挟む。
「もちろん、私も。
あんたを他の女に任せたまま、上で留守番なんてできるわけないでしょ」
「アルス様の隣で戦うって決めてます!!」
マリーヌも胸を張る。
「迷宮に関しては、私の知識が必要」
エリシアが静かに告げる。
「帝国の代表として、そして“女”としても。
私は行く」
ルクレツィアが宣言した。
……結局のところ、僕の選択肢は最初から決まっていた。
「行こう」
短くそう言うと、
四人+一人が、それぞれ頷いた。
議長がすぐに段取りを決める。
「では、特別潜行隊を編成する。
リーダー、アルス・アドマイヤ」
「了解」
「同行者――
セレナ・グレイス、マリーヌ・ルクラン、
エリシア・フェルノート、ルクレツィア・ヴァレリア、
リズ・フィオーレ。
ほか各国より精鋭を数名ずつ選抜する」
背後で、英雄候補たちがざわついた。
「アルスと一緒に潜れるのか!?」
「いや、逆に足を引っ張る可能性が……」
選抜が始まる。
その横で、僕は一瞬だけ天井の裂け目を見上げた。
黒い穴の奥――
かすかに、懐かしい気配がある気がした。
(カイ……アッシュ……)
十年前、迷宮のどこかで眠りについた二人。
あの場所と、“外側”はどこかで繋がっている。
今回の異変は、
彼らとも無関係ではないはずだ。
胸の奥で、静かに決意が固まる。
◆◆◆
会議場の緊急区画にある転送陣。
そこは、迷宮アトラの中層部――第六十階層付近へ、
一気に送り込むための特別転移装置だった。
「ほんとはこんなの、年に一回動かすかどうかの代物なんだがな……」
ギルド長が苦笑いしながら、転移陣の縁に立つ。
「アルス。
この転移先は“安全な足場”だとは限らん。
出た瞬間から戦闘になる覚悟で行け」
「いつも通りですね」
そう答えると、ギルド長はふっと笑った。
「お前が『いつも通り』って言う時が、一番怖い」
セレナたちも、それぞれ装備を確認する。
「……よし」
セレナは杖を握り、
「絶対死なない」と小さく呟いた。
マリーヌは腰の短剣を何度もカチカチ鳴らし、
尻尾をぴんと立てる。
エリシアは携帯術式の書かれたスクロールを並べ直し、
額にかかる髪を耳にかけた。
ルクレツィアは剣を一度抜いて光を確かめ、
ゆっくりと鞘に戻す。
リズは胸元の聖印に口づけをし、
瞳を閉じて祈りを捧げていた。
僕も剣の柄に手を置く。
《フェイトリード》――運命を導く力が、
微かに胸の奥で脈打つ。
(十年前は、
守るためにがむしゃらに振り回した。
十年後の今は――
“選んで”使う)
守りたいものも、
守らなきゃいけない約束も、増えたから。
転移陣が光り始める。
「アルス、気をつけて」
背後から声が飛ぶ。
振り返ると、ヴァイスやザンたち、
十年前からの仲間たちが立っていた。
「今回は留守番だ。
だが、お前らが帰る場所は全力で守っておく」
「安心して突っ込んでこい」
ティノが風を操りながら笑う。
「みんながちゃんと帰ってこないと、
俺たち、酒の肴がなくて退屈だしな」
「全員で帰ってくる」
短くそう言うと、
仲間たちはそれだけで納得してくれた。
転移陣の光が、足元から身体を包み込む。
セレナが僕の隣で笑う。
「十年前と違って、一人じゃないわよ」
マリーヌも続ける。
「みんなで帰ってきて、
また一緒にご飯食べるんですから!」
エリシアがそっと囁く。
「解析してあげる。
あなたの迷宮も、世界の迷宮も、ぜんぶ」
ルクレツィアは少しだけ頬を染めて。
「帰ってきたら……聞いてほしいこと、たくさんあるの」
リズは真っすぐ僕を見上げて言った。
「あなたがどんな未来を選んでも、
私はその隣に立つつもりよ」
眩しい光が視界を埋める。
僕は、笑いながら剣を握った。
「じゃあ――行こうか」
十年前とは違う。
逃げないと決めた少年が、
十五歳の青年になって迷宮へ踏み込む。
世界の底へ。
十年前の約束の、その続きへ。
光が弾け、視界が暗転した。
次に目を開けた時――
そこは、迷宮の中だった。




