第46話
夜が落ちた。
太陽は空のどこかにあるはずなのに、
帝都の上空を覆うのは、ただ濃い闇だけだった。
空そのものが“裏返った”みたいだ。
城壁の外側――
闇の向こうから、それは歩いてきた。
一歩、また一歩。
踏みしめるたびに、大地が軋む。
さっき退けた個体とは、比べものにならない。
巨大で、形が定まらない。
鎧のような殻をまとった竜にも、
無数の手足を持つ蜘蛛にも、
巨大な獣にも見える。
見ているだけで、脳が拒絶する。
エリシアが、唇を噛み千切りそうな声で言った。
「……これが、“本体”……。
規模が桁違い。さっきまでのは、ただの欠片……」
セレナの手が震える。
「……でも、やるしかない」
マリーヌも剣を握り締めて、一歩前に出た。
「アルス様のいる場所を……怪物になんて、絶対に汚させません……!」
ルクレツィアは震えを力に変えるように、まっすぐ剣を構えた。
「王女としてじゃない。
――“あなたの好きな帝都”を守るために戦う」
僕は一度、深呼吸した。
(怖い。正直、怖くて仕方ない。
でも――ここで退いたら、全部失う)
家族も。
仲間も。
街も。
この先、笑って過ごすはずだった日々も。
全部、飲み込まれる。
だから――立つ。
「アルス」
隣でカイが言った。
赤い瞳はいつも通り冷たげなのに、その奥に揺らぎがあった。
「さっき言った通り、今のお前じゃ“あれ”に勝てない。
下手をすれば、触れただけで魂ごと砕かれる」
「……わかってる」
「だったら――」
「それでも行く」
即答だった。
カイは一拍置いてから、小さく笑った。
「……チッ。やっぱりな。
“ノア”のくせに、アルスが過ぎる」
白フード――アッシュも、闇の端から姿を現す。
「選んだか。
なら僕は、“観測者”として最後まで見届ける」
「観測者で済むならいいけどな」
カイが忌々しげに言い、続けた。
「いいかアルス。
俺とアッシュは“同じ実験体”だった。
外側の世界に触れて、戻ってこれたのは、この二人だけだ」
アッシュは特に否定せず、淡々と続ける。
「代償として、魂に“穴”が空いた。
空いた部分に、ああいう“外側の欠片”を一時的に収めておける」
カイは自分の胸を拳で叩く。
「だから俺は、あの化け物の一部を“引き受ける”ことができる。
お前の負担を半分に減らしてやる」
「半分、ね」
「それでも、お前一人じゃ足りない。
――だから、“第三の力”が必要になる」
アッシュが僕の胸元を見る。
「君の中の“光”は、まだ未完成だ。
滅びと愛と願いが混ざっているだけの、不安定なエネルギー。
でも――“誰かを守るために狂える覚悟”が加われば、形になる」
胸の奥で、嫌な予感がした。
(誰かを守るために……狂う……?)
その時。
怪物が、頭をもたげた。
頭に相当する“なにか”が、こちらを見る。
目なんてないはずなのに、はっきりわかった。
僕たちを“見ている”。
次の瞬間、空気が悲鳴を上げる。
黒い光。
世界を裂くような咆哮。
「来る!!!」
僕の声が合図になるように、
全軍が一斉に動いた。
◆◆◆
「全魔導師、前へ!! 長射程魔法、準備!!」
王家軍の号令と同時に、
灰色フードの指揮官も叫ぶ。
「瘴気耐性のない者は二列目!!
第一列は“捨て身”を覚悟しろ!!!」
セレナが杖を掲げる。
「防御なしの最大出力で行くわよ!!
私の後ろで構えないで!! 焼かれる!!」
エリシアは両手を広げ、無数の魔法陣を展開した。
「瘴気の流れを制御する……!
全部は無理でも、“通り道”を限定する!!」
マリーヌは城壁の上を駆けながら、ずっと叫び続ける。
「前方三十メートル、危険!! 左に下がってください!!
瓦礫注意!! 瘴気が濃くなります!!
怪物の眼(みたいな場所)、狙えそうです!!」
ティノは風の渦を起こし、
負傷兵と市民を後方へ運び続ける。
ヴァイスは血を滲ませながら手を合わせる。
「《グランド・ウォール》……!
お願いだから、持ってくれ……!」
ザンは拳を鳴らし、叫ぶ。
「俺の前で倒れたやつは、絶対死なせねぇぞ!!」
カイルは半泣きになりながらも、必死に詠唱を重ねる。
「全員強化!! 精神安定!! 体力回復!!
俺の魔力はもうゼロだ!!! でもやる!!!」
ルクレツィアは隊を率いて前線に立ち、
王家軍の盾となって突き進む。
「帝都は渡さない!!
ここは、私たちの“帰る場所”よ!!!」
みんなが、それぞれの場所で限界を超えていた。
そして僕とカイは――
怪物の真正面に立つ。
「アルス。怖いか?」
「怖いよ」
「だろうな」
カイは笑って、刃を構えた。
「“兄貴分”として、少しは格好つけたいんでな。
先に行って、道をこじ開けてやる」
アッシュの声が飛ぶ。
「その時、アルス。
誰かを“本気で守ろうとした瞬間”、君の第三の力は完成する。
それが引き金だ」
(誰かを、本気で――)
考えるまでもなかった。
城壁の上で戦うセレナ。
走り続けるマリーヌ。
術式を維持するエリシア。
剣を振るうルクレツィア。
その姿が、一つに重なる。
全員――守りたい。
失いたくない。
そのためなら、
自分がどうなってもいいくらいには、もう覚悟してしまっている。
「行くぞ、“ノア”」
「違う。“アルス”だ」
「……そうだったな」
カイが笑い、怪物へ向かって飛び出した。
◆◆◆
戦場は、すぐに崩れ始めた。
怪物の一撃が、あまりにも重すぎる。
瘴気を込めた腕が、城壁を薙ぎ払う。
石と人が、まとめて吹き飛ぶ。
セレナの炎が腕を焼き、
エリシアの術式が瘴気の一部を逸らす。
マリーヌが叫び続け、
ティノとヴァイスが必死にフォローする。
だが――限界は容赦なくやってきた。
「……ッ!」
セレナの膝が崩れた。
炎の柱が一瞬弱まり、
その隙を、怪物の瘴気の触手が突いた。
「セレナ!!!」
叫ぶより早く、
マリーヌが飛び込んだ。
「セレナ様、危ない――!!」
ドン、と嫌な音がした。
マリーヌの体が、瘴気の触手に叩きつけられた。
城壁の縁から、宙へ放り出される。
時間が、ゆっくりになった。
(――嘘だ)
耳鳴り。
何も聞こえない。
身を乗り出したセレナの叫びだけが、やけに鮮明だった。
「マリーヌーーーーッ!!!!」
マリーヌの体が、夜の闇に落ちていく。
一瞬だけ、目が合った。
泣きそうで、でも笑顔だった。
――アルス様、と唇が動いた気がした。
その瞬間、
胸の奥で“何か”が音を立てて切れた。
◆◆◆
(守れないなら、意味がない)
守りたいと願って。
強くなりたいと願って。
誰かに必要とされて。
ここまで来たのに。
目の前で、守れないなんて――
「……嫌だ」
声が、勝手に漏れた。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だァァァァ!!!!!!」
世界が、白と黒に反転した。
滅びの炎――ノアの力。
今の魔力――アルスの力。
千年前の絶望。
今ここにある愛情。
その全部が、ごちゃ混ぜになって、
胸の中心に――“第三の核”を形作る。
アッシュの声が聞こえた気がした。
(なぁ見えるか、カイ。
あれが――“彼自身が選んだ形”だ)
カイが、怪物に向かって叫ぶ。
「来たぞ、“気に入らねぇけど最高の瞬間”が!!!」
空間がねじれる。
剣を握った僕の腕から、
光が迸る。
炎でも雷でもない。
瘴気でも浄化でもない。
“願い”そのものの色をした光。
僕は――飛び出していた。
考えるより早く。
堕ちていくマリーヌに向かって。
「届けえええええええええええッ!!!!!!」
世界がスローモーションになる。
伸ばした手が、
マリーヌの手を掴んだ。
ガシッ、と確かな感触。
落下の衝撃も、瘴気の痛みも、何もかも効かない。
ただ――
「離さない」
それだけを、決めていた。
第三の力が暴れ回り、
怪物の瘴気を押し返す。
マリーヌの体を引き寄せ、抱きしめる。
彼女が涙でぐちゃぐちゃの顔で笑った。
「……アルス様……っ、来てくれるって、信じてました……」
「遅くなってごめん」
本心だった。
その瞬間、城壁からセレナの叫びが響く。
「アルス!!! それ今じゃない!!!」
見上げると――
怪物の巨大な腕が、
僕たちごと叩き潰そうとしていた。
(まずい――!)
避ける時間はない。
その時、二つの影が飛び込んできた。
「《護壁結界・極》!!!」
「《聖刃の障壁》!!!」
エリシアの魔法と、ルクレツィアの光の壁が重なり、
怪物の腕を弾いた。
衝撃で全員が吹き飛ぶけれど――
誰も、死んでいない。
カイが怪物の横腹を斬り裂きながら叫ぶ。
「いいぞアルス!!! それがお前の“第三の力”だ!!
――“守りたいと願って、狂う力”!!」
アッシュの声も響いた。
「完成したね。
“英雄でも滅びでもない、第3の器”――
名前は君が決めるといい」
僕は荒い息を吐きながら、
まだ震えているマリーヌを抱きしめたまま立ち上がる。
セレナが涙を流しながら笑う。
「……最低。格好良すぎて文句言えないじゃない……!」
エリシアは顔を赤くして視線を逸らしながら言う。
「無茶苦茶。
でも――それがあなたよね」
ルクレツィアは涙を拭いもせず、剣を構え直した。
「やっぱり、惚れるしかないじゃない……そんな人に……」
怪物はまだ生きている。
だが――
もう、恐怖だけの存在じゃなかった。
“届く相手”だ。
僕は剣を構え直し、
第三の力をゆっくりと剣に宿らせる。
「行こう。
帝都編の――決着をつける」
全員が頷いた。
「「「おう!!!」」」
夜はまだ明けない。
でも、夜明け前の一番深い闇までは来た。




