ナイア・ヴェルムの顕現
それは、夜の海が息を止めた瞬間だった。
月光が水面に落ちると、波はまるで記憶のように静まり、空と海の境界が曖昧になった。
そのとき、深海の底から、螺旋を描くように黒い霧が立ち昇った。
霧の中心に、ナイア・ヴェルムが姿を現した――それは、形を持たぬ形、声を持たぬ問い。
その姿は、見る者によって異なる。
グラナータには、亡き弟が抱いていた小さな木製の船が、怪獣の胸に浮かんで見えた。
その船は、波に揺れながら、彼の心の奥に沈んでいた後悔を呼び起こす。
兎子には、怪獣の背に星々が瞬いて見えた。
それは、彼女がまだ知らない未来の航路――無数の可能性が、獣の鱗に刻まれていた。
彼女はその星々に手を伸ばしたが、指先は届かず、風だけが彼女の耳を撫でた。
シルバーフォックスは、怪獣の尾に絡まる古代文字を見た。
それは、彼がかつて読んだことのない言語――時間の裂け目に刻まれた知識の残響。
彼はその文字を目で追いながら、過去と現在の狭間に立っていた。
ナイア・ヴェルムは語らない。
だが、その沈黙は問いかける。
「お前は、何を忘れた?」
「その記憶は、誰のものか?」
「お前の存在は、どこから始まり、どこへ向かう?」
海は答えない。
ただ、波が静かに揺れ、船団の灯が一つ、また一つと消えていく。
それは、記憶が試される夜。
それは、魂が揺れる夜。
そして、グラナータは一歩、船首から前へ踏み出した。
彼の声は震えていたが、確かだった。
「我々は、忘れない。
この海が何を奪おうとも、我々は、記憶を灯す者だ。」
その言葉に、兎子は星の歌を口ずさみ、
シルバーフォックスは古代の言葉で風を呼んだ。
ナイア・ヴェルムは、静かに海へと沈んでいった。
その姿は、波に溶け、記憶の底へと還っていく。
だが、誰もが知っていた。
それは終わりではなく、始まりだった。