第6章「理想と現実」
2月の始まりの日曜日。
待ちに待った休日に、街はどこか浮き足だっている。
公園では子どもたちが元気に駆け回り、
サラリーマンパパは家族サービスに精を出し、
ママたちは今日ばかりは育児をパパに任せておしゃべりに夢中。
若者たちも友人と連れ立って遊びに出かけている。
そんな穏やかな昼下がり。
彩綾はひとり、駅前の喫茶店で読書を楽しんでいた。
テーブルには、読みかけの文庫本と、温かなコーヒー。
遅れて来るであろう親友・ひなたとの待ち合わせを、静かに待つ。
(ひなたが来ればどうせ騒がしくなるし……今のうちに静けさを満喫しておこう)
スマホで時刻を確認し、音を立てないようテーブルに戻す。
彼女の纏うコーヒーの香りと、どこか凛とした佇まい。
“街一番の美少女”として密かに名の知れた彩綾に、周囲の客も思わず見惚れていた。
それを知ってか知らずか、彩綾は髪をかき上げる。さらりと揺れるシルクのような髪。
「うわぁ……いいにおいしそう……」
誰かがぽつりとつぶやいた瞬間、店主や店員までもがコーヒーそっちのけで彼女を見つめていた。
気を取られすぎたせいで、せっかくのコーヒーはカップを外れてトレーに注がれていた。
──そんな静かな日曜の裏で。
この日を世界中の誰よりも楽しみにしていた少女が、ひとり大混乱していた。
ーーー
「やば~~い!!寝すぎたぁぁぁ!!」
部屋中をバタバタと走り回るひなた。
今日は、待ちに待った蓮との面会日。なのに――まさかの寝坊。
「えーっと!服!服は!?シャワーも浴びなきゃ!メイクも!差し入れは!?バナナ!?メロン!?あと千羽鶴は!?ああもうっ!!」
その騒ぎを聞きつけ、階下から母親がやってきた。
「ちょっとひなた!?うるさいわよ!もっと艶っぽい声を出さないと男の子には──って、あら?」
「ママっ!蓮に持っていけそうな物、なんかない!?今すぐ!!」
「えっ、ああ……今日は蓮くんのところに行くんだったわね。そうねぇ……蓮くんが喜びそうな物……あっ、あるわ!」
「ほんと!?助かる!!」
「うん、差し入れはママに任せて、あんたはさっさと準備しちゃいなさい!」
「ありがとう、ママ!!」
ひなたは急いでシャワーを浴び、服を選び、メイクをし、髪を整える。
あの夏、サッカーの試合のあと、蓮に褒められたショートカット。
今日はそこに、小さなリボンを添えて精一杯のおしゃれをした。
鏡の前でクルリと一回転。
「……へんじゃないよね?……うん、大丈夫!私、かわいいっ!」
気合を入れて玄関へ向かう。
「ママー!?まだーっ!?」
すると奥から、何かを手に持って走ってくる母親。
「はぁ、あったあった!なかなか見つからなくてね!はい!」
そう言って差し出されたのは、小さな木箱。
「なにこれ?」
蓋を開ける。
「ひなたのへその緒よ♡」
「持ってけるかぁぁぁぁぁぁ!!」
ひなたは全力で振りかぶり、木箱が母の顔にクリーンヒット。
母、KO。
「いってきまーす!!」
勢いよく家を飛び出し、街を全力で駆け抜けるひなた。
大好きな蓮の笑顔に会いたくて。
ただ、それだけのために。
ーーー
静かな喫茶店の午後。
クラシック音楽が小さく流れる店内で、彩綾はコーヒーを一口。
湯気の向こうに広がる、香ばしく落ち着いた世界。
そんな時間を、ページをめくる指先とともに静かに楽しんでいた。
そこへ、聞き慣れた声が届く。
「さ、彩綾……」
息を切らし、額に汗をにじませた少女が、扉の向こうから現れた。
2月の始まりだというのに、ひなたの姿はまるで夏の終わりを走り抜けてきたよう。
「ご、ごめん……待った?」
「ふふっ、もちろん待ったわよ?」
彩綾はそう言って微笑む。
いたずらを許すお姉さんのような、どこか慈愛に満ちた表情。
「うぅ、ごめん……」
申し訳なさそうに腰を下ろすひなたに、彩綾は軽く手を挙げ、店員を呼んだ。
「すみません。お水をひとつ、お願いします」
その瞬間、厨房から小さなざわめきが生まれた。
──誰が彩綾のテーブルに水を運ぶのか。男性店員たちの静かな戦争が、今始まった。
「気にしなくていいわよ。あなたが遅れるの、見越して早めに時間を設定してるもの」
「うぅ、ぐすっ……ありがとうぅ……」
ようやく現れたのは、妙にキリッとした顔の店員。
どうやら勝者らしい。
「お、お待たせしました!」
「ありがとうございます」
「い、いえっ!な、何なりとお申し付けくださいっ!」
彩綾の丁寧な礼に、店員はどこか神聖なものでも見たような顔で、そそくさと後ずさる。
が──その横から、ひなたの元気な声が炸裂する。
「おかわりくださーい!」
水のグラスを一気に飲み干し、元気いっぱいに手を挙げるひなた。
店員は、ギロリとひなたを睨みつけた。
「ひっ!?」
「し、少々お待ちください……」
やや険しい表情で厨房へ戻る店員。
再びざわつく厨房内。
「どんな匂いだった!?」
「ってか、あのガキなんだよ……」
「な、なんなの、感じ悪っ……」
「ふふっ。本当、ひなたといると飽きないわ」
コーヒーと水を片手に、ふたりは自然と談笑モードに入る。
「ねえ彩綾、差し入れって持ってきた?」
「いいえ?必要かしら?」
「え!? いらないの!? 私、メロンとかバナナとか千羽鶴とか色々考えたんだけど!!」
「それ、全部ドラマとかのテンプレじゃない。メロンなんて誰が切るのよ。バナナは病院食で出そうだし、千羽鶴は……まあ、場所とるわよね」
「えっ……じゃあ、なにも持っていかないの……?」
「小さなお菓子や飲み物くらいがちょうどいいと思うわ。ひなた、藍沢くんに何か渡したいんでしょ?」
「えっ!ばれてた!?」
「顔に書いてあるもの」
そのままふたりは喫茶店を出て、駅前のコンビニへ立ち寄る。
店内で楽しそうにお菓子を選び、ジュースもいくつか手に取った。
そして、電車の到着を待ちながら駅構内のベンチに座る。
「ひなた、お手洗い大丈夫?」
「うん!大丈夫!」
「じゃあ、ちょっと行ってくるね。これ持ってて」
彩綾は買ったお菓子の袋をひなたに手渡し、席を立つ。
そして、ひなたはひとりになった。
手元の袋を見ながら、ふと笑みがこぼれる。
「蓮、どんな顔するだろうな……」
どこか照れくさく、それでも嬉しそうに微笑むひなたの横顔に、柔らかな光が差し込んでいた。
そのとき──
カツ、カツ、と硬質な音がホームの床を叩いた。
ひなたが顔を上げると、白杖を手にした男性の姿が視界に入った。
先端で器用に点字ブロックを探りながら、静かに歩いている。
「……あっ。あれ……白い杖……」
ひなたの頭に、ふと蓮の姿がよぎる。
(蓮……)
それだけで、いてもたってもいられなくなった。
「あ、あのっ!!」
「……え? 僕ですか?」
男性が立ち止まり、白杖を軽く床に添える。
「は、はい! あの、なにかお手伝いできることはありませんか!?」
ひなたは前のめりでそう言い、期待と焦りの混じった表情を見せた。
「いえ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
そう言って再び歩き出そうとする男性。
けれど──
「え、遠慮しないでください! 私、こう見えてけっこう力あるんです! 荷物、持ちましょうか!? ほら、見てください! この筋肉!」
勢いのまま、ひなたは腕をまくり、白く細い二の腕をぐっと曲げて見せる。
……当然、筋肉らしきものは見えない。
「ふふ、僕、目が見えないんでね。どうもその筋肉が拝めなくて残念です」
「あっ……そ、そうですよね! すみません!」
赤面してしどろもどろになるひなた。
そのとき──背後から涼やかな声が降ってきた。
「なにしてるの、ひなた」
「えっ、彩綾!?」
振り返ると、彩綾が戻ってきていた。
「お邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
彩綾は丁寧に頭を下げた。
「いえいえ。声をかけてくださるのはありがたいことですよ。ありがとうございました。それでは」
男性は深く頭を下げ、再び白杖をついて歩き始めた。
──その背中がホームの向こうへと消えていく。
「い、いいの? 一人にしちゃって……」
ひなたは不安そうに聞くが、彩綾はため息まじりに言った。
「はぁ……あのね、ひなた。今のあなたの行動は“迷惑”だったのよ」
「な、なんでよ!? 困ってる人を助けようとしただけじゃん!」
「どこが“困ってた”の?」
「え……?」
「杖を持ってただけで、助けが必要だって決めつけたの?」
「……困っては、なかった……かも」
ひなたの声がしぼむ。
「視覚に障害のある人たちはね、頭の中に地図を描いてるの。白杖を通して得る感覚に集中して歩いてるのよ。そんなとき、突然声をかけられたらびっくりするし、下手したら危険なこともあるの」
「うぅ……ごめん。ただ、力になりたくて……」
ひなたがうつむくと、彩綾はそっと微笑みながら言った。
「その気持ちは、すごく大事。でもね、その“優しさ”が逆に負担になることもあるの。断るほうだってわざわざ声をかけてくれたのにって、気を使うでしょ?」
「……うぅ、たしかに。じゃあもう、白杖持ってる人には声かけない……」
「それは極端すぎるわね。」
「ええぇっ!?」
驚くひなたの目の前で、彩綾は自分のバッグから、折りたたみ式の白杖を取り出した。
「えっ……なんで彩綾が持ってるの!?」
「暁斗から借りたのよ。今日、藍沢くんに持ってもらおうと思って」
彩綾は白杖をしっかりと両手で握ると、頭の上まで高く掲げた。
「こうして白杖を上げてる人がいたら、それは“助けて”のサインなの。声をかけるべきタイミングは、そこよ」
「地面にささってた剣を抜いた瞬間!みたいな感じだね!」
「ふふっ、面白い表現ね。とにかく、立ち止まって白杖を高く掲げていたらそれが助けてのサインよ。」
「全然知らなかった、」
「私も暁斗が教えてくれるまで、まったく知らなかったわ。でも──藍沢くんがこうなった今、ひなたも知っておいたほうがいいわね。」
ひなたはしっかりと頷いた。
「うん……! 覚えておく!!」
ちょうどその時、駅構内に電車の接近メロディが鳴り響く。
白杖をたたみ、彩綾が声をかける。
「来たわよ。行きましょ」
「うん!」
2人はゆっくりと電車に乗り込み、並んで空席に座る。
──ただ幼馴染に会いに行くだけ。
けれど、ひなたの胸は今、静かに高鳴っていた。
ガタン、と車輪の音が響き、景色が横に流れ出す。
車窓の向こうは、何事もなかったかのように、今日も平和に日常を流していた。
ーーー
ひなたと彩綾が乗った電車は、ゆるやかに減速しながら、蓮が入院している大学病院の最寄駅に到着した。
人の流れに乗ってホームを抜け、改札を出る。
2人は歩きながら、スマホを見つめる彩綾の後をひなたがついていく。
「大丈夫、道合ってる?」
「ええ。あと、もう少しよ」
休日の昼下がり。病院へ向かうには少し不釣り合いな、爽やかな風が吹いていた。
やがて、目の前にそびえる白い大きな建物──大学病院が現れた。
「わあ……おっきい……」
ひなたは思わず足を止めた。
見上げたその視線の先には、威圧感すら感じる立派な外観。
「大学病院って、初めて来たかも……」
「普通は来る場所じゃないし。できれば一生来たくない場所よね」
彩綾はそう言って、小さくため息をついた。
「……こんなところに、蓮は一人でいるんだね。さみしくないのかな……」
ひなたの声が、かすかに震える。
心配、寂しさ、焦り……いろんな感情がにじんでいた。
彩綾はそんな彼女の横顔を見つめ、優しく微笑んだ。
「前にも言ったけど、案外──看護師さんと楽しくやってるかもしれないわよ?」
その言葉に、ひなたの眉がピクリと跳ねた。
「っ……はやく行こっ!」
真っ赤になった顔をそむけ、ひなたはパタパタと先を歩き出す。
その背中からは、なにかを振り払うような勢いが感じられた。
(他の女の人と仲良くしてるなんて──ゆるさないっ!)
拳をぎゅっと握りしめるひなた。
その様子を見ながら、彩綾はくすりと笑って、すぐにそのあとを追いかけた。
もうすぐ、蓮に会える。
⸻
手術を終えた蓮は、退屈で長い日々を送っていた。
毎朝の診察と検査が唯一の「用事」と言えるくらいで、あとはただ食事をとり、横になり、過ぎていく時間をじっと待つだけだった。
右目にはガーゼでできた眼帯がかぶせられている。
とても独眼竜には見えない。外しても、視界はぼんやりとしか見えない。
出血が治まれば、もう少し見えるようになるらしい。眼圧もようやく落ち着いてきた。
左目の手術は、来週の予定だった。
それまでの時間は、思ったよりも長く、重く感じられた。
同じ眼科病棟には、ほとんどが高齢の患者ばかりだった。
彼らの多くは白内障の手術で、入院も一泊二日程度で済む。
だから入れ替わりが激しく、蓮のような同世代の患者などどこにもいなかった。
そして、聞こえてくる。
「よく見えるようになったよ~」
術後の高齢者たちが、気軽に交わす明るい言葉。
その言葉が、蓮にはつらくてたまらなかった。
自分は手術をしても、見えるようにはならないのだから。
「なんで……なんでおれだけ……」
世界に置き去りにされたような孤独感に押しつぶされそうになり、蓮はカーテンの内側で、ひっそりと涙を流すこともあった。
ドラマのように隣のベッドに気の合う仲間が入ってくることもなく、
カーテン越しの友情も、気晴らしも、どこにもなかった。
そんな退屈で寂しい日々の中で、唯一の楽しみは看護師さんとの会話だった。
中学生で長期入院している蓮は、病棟の中でもひときわ目立つ存在。
自然と看護師たちが気にかけ、話しかけてくれることが多かった。
相変わらずご飯はまずくて、やることもなくて暇な入院生活。
だけど、看護師さんたちと話していると、少しだけ悪くない気分になれた。
⸻
「藍沢くーん!」
日勤の金森さんの声が、病室の外から響く。
あの明るくてちょっと馴れ馴れしい感じの呼び方にも、だいぶ慣れてしまった。
「はーい」
カーテンがシャッと開いて、顔を覗かせる金森さん。
「面会だよ〜!かわいい女の子が2人も来てるよ!モテモテじゃんかー?」
「ち、違います。ただの友達です」
最初は緊張して、看護師ともろくに話せなかったのに。今では普通にやりとりできるようになっていた。
──ひなたと、美上。来てくれたんだ。
「素直じゃないんだから〜。じゃ、談話室いこっか」
蓮は金森さんに連れられ、病棟の一角にある談話室へ向かった。
談話室にはテーブルと椅子が並び、お茶やコーヒーのサーバーが置かれていた。
今日は日曜日。ほかの患者の家族も面会に訪れていて、部屋の中はどこか温かい空気に包まれていた。
そこに、蓮が現れた。金森さんに付き添われて。
病衣姿に、ボサボサの髪。右目には白いガーゼの眼帯。
サッカーで鍛えたはずの身体も、今は少し頼りなく見えた。
「れ……蓮……」
ひなたは、久々に見るその姿に言葉を失った。
「おまたせ〜、はい、ここ座ってね〜」
金森さんが蓮を椅子に座らせる。
「ありがとうございます」
「いいな〜、私も混ざりたいくらいだわ〜?」
冗談めかして笑う金森さんに、蓮が軽く笑って返す。
「あはは、お忙しいでしょうから、お仕事に戻っていただいて大丈夫ですよ」
──え!?
なにそれ!?なにその言い方……なんか、蓮がちょっと……大人っぽいんですけど!?
ひなたは内心で驚いていた。
「そっか、残念〜。じゃあ、ごゆっくり〜」
金森さんが去っていき、テーブルには久々に顔を合わせる三人だけが残された。
でも──
なぜか、誰もすぐには口を開かなかった。
妙に、空気がぎこちない。
(あれ……なにこの感じ……?)
まるで初対面みたいに、ひなたと蓮の間に空気の壁があった。
その沈黙を破ったのは、やはり彩綾だった。
「久しぶりね、藍沢くん」
「う、うん。久しぶり、だな……」
どこか気まずそうに答える蓮。
「入院生活はどう?」
「どうって……なんだよ」
「楽しい?」
「楽しいわけ、ないだろ……」
彩綾の冗談に、蓮がむっとする。
「ふふっ。元気そうで、なにより」
「ふ、2人はどうなんだよ。学校とかさ……」
「どうって、なにが?」
またも彩綾がとぼけて返す。
「ぶっとばすぞ?」
「攻められるの、嫌いじゃないわよ?」
「……あのなぁ」
「学校はね──そうね、あなたがしばらく来てないのを、クラスのみんな気にしてるわよ。
となりに住んでるからって、ひなたが問い詰められてごまかすの大変なの」
「……そっか、悪いな。俺のせいで……」
蓮が俯いたとき、ひなたが慌てて手を振った。
「う、ううん!全然平気だから!気にしないで!」
「ひなたも相変わらずだな。」
ひなたの声をきいて蓮は微笑む
蓮、あのさ。ごめんね? 毎日電話できなくて……」
「別にいいって。俺、しゃべれないからチャットで返すしかないしな。ひなたも、つまんないだろ」
あれ? 蓮って、こんな感じだったっけ?
ひなたは戸惑った。会話の距離感がわからない。
目の前の蓮が、よく知らない誰かみたいに思えて──言葉に詰まった。
その様子を見かねた彩綾が、ふっと立ち上がる。
「そうだ。藍沢くんにプレゼントがあるの」
そう言って、彩綾は袋を手に蓮の前へ歩み寄る。
中に入っていたお菓子とジュースを、蓮の手にそっと触れさせた。
「これは……?」
「お菓子とジュース。病院の味に飽きてるんじゃないかと思って。食べすぎ注意だけどね」
「……ありがとう」
蓮はちょっと照れくさそうに微笑んだ。
「それと、もうひとつ。これはプレゼントってわけじゃないけど」
そう言って、彩綾は白杖を差し出した。
「これ……杖か?」
「そう。白杖。どう? 使えそう?」
「使えそうって……初めて触ったんだから、わかんないよ。」
「じゃあ、使いたいとは思う?」
「……まぁ、俺はこんなの必要ないと思ってるけどな。病院の中じゃ使ってないし。退院しても使う機会はなさそうかな。」
「……そう。わかった」
彩綾はどこか思うところがありそうな顔で、杖をまた自分の手元に引き寄せ、席へ戻った。
「ひなたは? 話したいこと、あるんじゃない?」
会話に加わろうとしないひなたに、彩綾がさりげなくパスを出す。
「えっ!? いや、その……」
(なんで、なんでこんなに言葉が出てこないの!? 蓮なのに……! いつも通りでいいのに……!)
ひなたは蓮の顔をちらりと見た。
そして、思い切って口を開いた。
「ねぇ、蓮」
「なに?」
「私、今日すごいおしゃれしたの」
「……そっか。ごめんな、見えなくて」
「う、ううん、いいの……」
寂しそうな顔をするひなた。
──これ前にも言ったじゃん……何また自爆してんの、私!?
「ごめんね、藍沢くん。面会に行きたいって言い出したのはひなたなんだけど、どうもぎこちなくて」
彩綾がひなたをフォローする。
「いや、いいよ。なんか、俺もそんな感じするし。すごい久しぶりっていうか、変な感じだよな」
「だ、だね……」
ひなたが小さくうなずく。
「ひなたはずっとぎこちないわよ。この前なんか、階段から転げ落ちたりして」
「い、言わないでよぉ!!」
「ふふ。2人とも楽しそうだな。……学校、楽しいか?」
楽しげな2人の会話を聞きながら、蓮がポツリとつぶやく。
「うん! 楽しいよ! はやく蓮にも戻ってきてほしいよ!」
「ひなた──」
“それはダメ”
彩綾が、目でそう伝えてくる。
蓮は小さく笑った。けれど、その目にはどこか影が落ちていた。
「……俺、学校に戻れるのかな」
その一言に、ひなたは息をのんだ。
蓮は知らない。
医師が両親に「普通の学校に戻るのは難しいかもしれない」と伝えていたことを。
そして両親が、盲学校への進学を真剣に考えていることを──
ひなたは、膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
「親からは盲学校ってとこを勧められててさ。でも……それって“障害者”が行くところだろ? 俺、そこまでじゃないと思ってるんだよね。普通に行きたくないし。」
認めたくない。
そんな気持ちが、蓮の中にあった。
「それに、知らないやつばっかだし。……なんか、やだよな」
蓮は笑ってごまかした。けれど、その笑顔はどこか空っぽで。
「でも、やっぱり難しいのかな。教科書も見えないし、ノートも取れないし……学校、行けるのかなって」
揺れていた。理想と現実のはざまで。
そんな蓮に、彩綾がまっすぐに口を開こうとする。
「あのね、藍沢くん。もう学校には──」
「戻れるよ!!」
ひなたが遮るように叫んで立ち上がった。
もう黙っていられなかった。あんな悲しい顔、見ていられなかった。
「ひなた……?」
蓮が驚いたように顔を上げる。
「大丈夫だよ、私がいる! 教科書も読んであげるし、ノートも書いてあげる! 登下校も一緒に行く!
ずっとそばにいて、なんでもしてあげる! だから……」
そう言って笑ったひなたの目には、涙がいっぱいにたまっていた。
「だからさ、戻ってきてよ……!」
(そんな顔、しないでよ……)
ひなたは心の中で叫んだ。
「ひなた……」
蓮の胸に、ふっと小さな光が灯る。
「……そう、だな。ひなたに迷惑かけるかもしれないけど、手伝ってもらえたら……学校、戻れるよな」
「うん! 戻れるよ! 迷惑なんて思わないで。彩綾だっているし!」
ひなたは彩綾を見る。
彩綾は呆れたような目をして、少しだけため息をついた。
「ね? 彩綾!」
「……そうね」
「ありがとう、ひなた、美上。学校、早く戻れるように頑張るよ」
蓮が、ようやく笑顔を取り戻した。
「うん! 待ってる!」
笑顔で向き合う蓮とひなた。
──その様子を、彩綾だけがどこか冷めた目で、静かに見つめていた。
⸻
久しぶりの幼なじみ3人。
その後は学校の話や蓮の入院生活の話に花が咲き、気づけばあっという間に夕方になっていた。
「今日はありがとうな」
蓮は付き添いの金森さんと一緒に、ふたりをエレベーターまで見送っていた。
「ううん、こっちこそ。元気そうでよかった」
ひなたは名残惜しそうに笑う。
「来週もまだ入院してたら、また来るわ」
彩綾がそう言うと、蓮は小さく微笑んだ。
「たぶん、してると思う」
蓮はうつむいた。
「じゃあ……暇つぶしになるもの、あげるわ」
「ん?なんだよ?」
彩綾はスマホを取り出し、数回タップして言った。
「あなたのスマホに、休んでた間の授業ノートをデータで送ったわ。暇なときにでも見て」
「私も作るの、手伝ったんだよ!」
「二人とも……」
蓮は思わず顔を上げたが、ふたりの顔ははっきりとは見えなかった。
「……ありがとうな。」
エレベーターの扉が閉まるまで、ひなたは手を振り続けていた。
「じゃあ、また来週」
「じゃあね、蓮」
金森さんが「ばいばーい!」と大きく手を振る
扉が閉まるその瞬間まで、ひなたはずっと蓮の顔を見つめていた。
⸻
病院の外に出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
ひなたは立ち止まり、見上げる。蓮がいるであろう病室の窓の方を。
そのとき、彩綾がぽつりとつぶやいた。
「……ずいぶん、残酷なことをするのね」
「……」
「藍沢くんが学校に戻るのは無理よ。わかってて言ったの?」
ひなたは黙り込んだ。拳が震えていた。
「彼には、現実を伝えるべきだった。あなたの言葉で、希望を持ってしまったら──」
「彩綾のほうが残酷だよ!!」
ひなたが叫んだ。彩綾は驚いたように目を見開いた。
「彩綾も、蓮のお父さんお母さんも、何もわかってない!!
蓮はね、“戻りたい”って言ってるんだよ! 私たちの学校に!」
今度は彩綾が黙り込んだ。
「蓮は盲学校に行きたくないって言ってた!!
それを無理やり盲学校に行かせようとしてる!
蓮の気持ちも考えてよ!!」
「……はぁ。できればそうさせてあげたい。
だけど、それが“できない”って言ってるの」
「やりもしないで、できないなんて言わないでよ!!
私が手伝うから大丈夫! 彩綾も手伝いなさいよ!」
「嫌よ。……っていうか、無理よ」
「はあ!?なんで!? 『できることはする』って言ったじゃん!!」
「“できないこと”だからしないの。わかりなさいよ、バカ」
「バカって言った!? ちょっと、どういうつもりよ!?」
「教科書を読む、ノートを書く、登下校の付き添い──それは可能よ。
でも、私たちの時間は? 将来は?
私は藍沢くんのために、自分を犠牲にできるほどお人好しじゃない」
「なっ……!」
「それだけで解決するの? 私たちが休んだらどうするの? 体育は? トイレは?
……女子の私たちには、どうすることもできないこともあるのよ」
「それは……」
「全部、なにもかも、私たちがやるの?
私は藍沢くんのメイドじゃないの」
「……あんたは蓮のために何もしてあげないの!? 理屈ばっかりでさ!」
ひなたはまた涙をこぼし始めた。
「藍沢くんのために言ってるのよ……。
今はまだ治療の段階。
その先には、“自立”に向かって歩かなきゃいけないの。
病院は患者として守ってくれるけど、学校に戻ったら、社会に出たらそうはいかない」
「蓮は……目がよく見えないんだよ!?
社会は優しくないかもしれないから、私たちが守ってあげなきゃ……!」
「守る? ひなた、あなたは“障害のある人は守られて生きている”って思ってるの?」
「え……?」
「誰もが優しいわけじゃない。冷たい言葉をぶつけられることもある。
福祉サービスだって完璧じゃない。
それでも、多くの人は、自分で考え、自分の足で、自立して生きてるのよ。
助けを借りながらでも──ね」
「私だって、藍沢くんに戻ってきてほしい。
ひなたの気持ちも痛いほどわかる。
でも、現実を見なさい。学校だってバリアフリーじゃない。
先生も生徒も理解してくれるかどうか、わからない。
きっと藍沢くんが辛い思いをする」
彩綾の目にも涙がこぼれた。
「うっ……くすっ、ひっぐ……」
「守るんじゃない……社会は優しくないからこそ、障害があるからこそ、私たちは“支える”の。
少しでも健常者と変わらない生活ができるように、“支え”にならなきゃいけないのよ」
「ぐすっ……えぐっ……」
「今、あなたがしようとしたのは“支え”じゃなくて、“甘やかし”よ」
「う、うわぁぁぁああん!!」
言い返せなくなったひなたはその場に崩れ落ち、大声で泣き出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
通りかかった人が声をかける。
「ごめんなさい。大丈夫です」
彩綾は涙を軽く拭い、ひなたの手を握った。
「ほら、もう行くわよ」
「うぅ……ぐすっ、えぐっ……」
ひなたは彩綾に引きずられるように、その場を後にした。
彩綾の手は、決して冷たくはなかった。
ひなたの手を引く彩綾は、近くの小さな公園へと逃げ込んだ。
二月の空気はまだ冷たく、木々の枝はどこか寂しげに揺れている。
ベンチにぽつんと座ったひなたは、まだ泣きじゃくっていた。
「……ぐすっ、えぐ……」
「はい、ミルクティー」
自販機で買ったあたたかいペットボトルを、彩綾がそっと差し出す。
「ぐすっ……ありがとう……」
ひなたは両手で受け取り、ぬくもりを胸に抱くようにぎゅっと握った。
彩綾は隣に腰を下ろし、自分のコーヒーを一口すすった。そして、小さくため息をこぼす。
「……偉そうなこと、言っちゃったけど。ひなたの気持ち、すごくよく分かるよ」
「え……?」
「私もね、暁斗を支えなきゃって思ってるのに……つい、甘やかしちゃうのよ。
この前、オムライス作ってくれようとしたときなんて、心配でずっとそばに張りついてた。
手を出したり、口出したら……逆に怒られちゃった」
「……ぐす。彩綾らしいね……」
「ふふっ、でしょ?」
ふたりはふっと笑い合った。
「すっごく嬉しかったし、すっごく美味しかった。でもね、ちょっと寂しかったの。
『あれ?もう私がいなくてもできるんだ』って思ったら、自分の居場所がなくなったみたいで……」
彩綾の横顔には、ほんの少し切なさがにじんでいた。
「暁斗がこれから困らないように、いろんなことを一人でできるようになってほしい。
でも……心配だから手を出しちゃう。
できたら嬉しいのに、できたら寂しい。……なんかジレンマよね」
「それって……彩綾が、弟くんのこと大好きだからだよね」
ひなたが鼻声でつぶやいた。
「うん、たぶんそう。でも、だからこそ難しいの。“支える”と“甘やかす”の境界って、本当にあいまいなのよ」
「……私が蓮にしようとしたことも、甘やかしだったのかな……」
彩綾はひと呼吸置いてから、やさしく言葉を選ぶ。
「ひなたが藍沢くんの意見を尊重して、学校に戻らせてあげたいって気持ちは、すごく大事だと思う。でもね……“意見を尊重する”のと、“わがままを許す”のは違うのよ。」
「“なんでもしてあげる”って、聞こえはいいけど……それって、無責任なのかも」
「うん。ひなた、藍沢くんの“すべて”を背負える?」
ひなたは、しゅんと肩を落とした。
「……そばにいるって言っても、ずっと一緒にいられる保証なんてない」
「そう。だから、“全部やる”って言い切っちゃうのは違うと思う」
「……私、蓮を支えられないかも……」
「じゃあ、見捨てる?」
「……!」
ひなたは、びくりとして、首をぶんぶん横に振った。
「……それなら、支えるのよ。前にそう言ってたじゃない」
「でも……何が支えなのか、何が正解なのかわからなくて……」
「“正解”なんてないのよ。最初から」
「……え?」
「障害があってもなくても、“自立”って、すごく大事なこと。……私が言うのもなんだけど、もしひなたの言う通りに学校に戻ったら、藍沢くんとひなたは“依存関係”になっちゃう。
ひなたがいなくなったら、藍沢くんは歩けなくなる。そんなの、支えじゃないよ」
「……依存……」
「だからって、何もしないってことじゃない。
藍沢くんが“どうしてもできないこと”――たとえば文字の読み書きや移動のサポート。
そういうところを私たちが“手を貸す”。
……それでいいの。助けを求めるのは、藍沢くんの役目」
「……頼るのが、蓮の役目……?」
「そう。障害があるからって、“なんでも助けてもらって当然”って思うのは違う。
できることは自分でやる。それが“生きる”ってこと。
でも、“できないこと”を頼るのは、恥じゃない。……私たちだって、そうでしょ?」
「たしかに……私も、自分じゃできないこと、頼っちゃうもん」
「でしょ? それに、頼られるって、なんか……うれしいじゃない?」
「……うん、うれしい……」
ふたりの間に、少しだけあたたかな笑顔が戻る。
「たぶんね、障害のある人の“自立”って、そういうことなんだと思う。
できることを自分の力でやる。できないことは、誰かにちゃんと頼る。
それで、自分らしく生きていく。無理せず、我慢せずに」
「じゃあ、私たちは……それを理解して、ちゃんと“支える”ってこと?」
「そう。……でも、正解なんてないから。ひなたはひなたなりの“正解”を探せばいいんじゃない?」
「……正解はない、か。難しいね」
「うん。だって、人生だもん。人によって答えが違うし、価値観も違う。……ほんと、難しいわよね。」
ひなたは手元のミルクティーを見つめる。
「今、藍沢くんはすごく揺れてると思う。“障害者じゃない”っていう理想と、“障害者である”って現実のあいだで……。
でも、思春期に突然そうなったんだもん。揺れるのは、しかたないわよね」
思い浮かべるのは――蓮の笑顔
ひなたは決意するように、手に持っていたミルクティーを一気に飲み干した。
「……それでも、ううん、だからこそ。私は蓮を支える。絶対に、見捨てたりなんてしない!」
「ふふ……学校に連れて戻す?」
「できれば、そうしたい。でも……もしそれが蓮の将来のためにならないって思ったら、盲学校に行くように説得する」
彩綾は満足そうに目を細めた。
「……ひなたが言えば、きっと伝わる。そのときは、私も手伝うから」
「ありがとう、彩綾」
「どういたしまして。──さ、帰ろっか。寒いし」
「……あ、待って」
「ん?どうしたの?」
「えへへ……お腹すいちゃった」
「ふふっ。じゃあ、どこかでごはん食べてから帰ろっか」
二人は新たな決意を胸に、静かに歩き出した。
夕暮れの冷たい空気の中、ふたりの背中は、どこかあたたかく寄り添っていた。
夕食を終えたあと、蓮はベッドの上で、またいつものように退屈な時間を過ごしていた。
ぽつりと残るのは、今日の面会で聞いたひなたと彩綾の声。
「……学校に戻れる、か」
ふと、口にしてみる。
その言葉に、少しだけ実感がわいた。
正直、もう無理だと思っていた。
でも、ひなたは言ってくれた。まっすぐに、迷いもなく。
──ずっとそばにいる!なんでもしてあげる!
迷惑かもしれない。
けど、それでもそう言ってくれたことが、ただ……嬉しかった。
「……やっぱ、盲学校なんて行きたくないもんな」
ぽつりと漏れた独り言。
“盲学校”。
正確には、“特別支援学校”。
そこに行くということは、自分が“障害者”であることを、認めること。
──誰かの助けがなければ、生きていけない。
その現実を、受け入れることになる。
……それが、嫌だった。
入院生活だって、慣れてしまえば大したことはない。
検査も診察も日課みたいなものになったし、看護師さんとも雑談できるくらいには馴染んでいる。
だから、普通の学校にだって、戻れるはずだ。
盲学校なんて、まだ自分には早すぎる。
――そんな場所に行くほど、自分は見えなくなっていない。
そう言い聞かせながら、蓮はスマホを手に取った。
彩綾が送ってくれた授業ノートのテキストデータ。
それを開き、音声読み上げ機能で再生してみる。
──……わからない。
「……は?」
画面の文字を目で追おうとしても、もうほとんど読めない。
耳から入ってくる音声も、ただの雑音のようにしか聞こえなかった。
たった一週間、学校を休んだだけ。
それなのに、こんなにも“置いていかれた”感覚に、蓮は目を見開いた。
「……来週には、また手術か」
もう片方の目の手術が待っている。
その間にも、クラスは、授業は、先へ進んでいく。
──どこまで、置いていかれるんだろう。
胸の奥に、冷たい不安が広がる。
だけど、それを直視するのが怖くて、思わず苦笑いが漏れた。
「……まぁ、美上が教えてくれるだろ」
現実から目を背けるように、スマホを枕元にぽんと置いた。
──明日も、きっと退屈な時間が続くだけ。
それでも、どこかで焦りだけが積み重なっていく。
「……早く、帰らないとな」
そうつぶやいた。
けれど、その“帰る”がどこを意味するのか――
蓮自身にも、はっきりとは分からなかった。
⸻
同じころ――
電車の揺れに身を任せながら、ひなたは彩綾の肩にもたれて眠っていた。
目を閉じたまま、すうすうと静かな寝息を立てている。
彩綾はといえば、文庫本を片手に無言のまま。
だけど、その肩の重みに、迷惑そうなそぶりはまったく見せなかった。
──2人は、決めたのだ。
蓮の将来のために、盲学校への進学を、家族と一緒に説得することを。
“本人のため”とはいえ、反発されるのは分かっている。
それでも、あえて厳しい道を選ぶ覚悟を、ふたりは胸に宿していた。
ただひとり――蓮だけが、まだ揺れていた。
⸻
「学校に戻る」という淡い理想。
「支援学校」という現実の壁。
その狭間で揺れる、蓮の心。
次に彼が選ぶのは、希望か。
それとも、現実か。
──運命の分岐点は、もうすぐそこに迫っていた。