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ブラインド☆ラブ  作者: 秋山リョウ
第1話「奪われた未来」
6/7

第5章「キスとメス」

 物々しい病室。

静寂の中、心電図の規則的な電子音だけが響いていた。


ベッドには、目を閉じたままの蓮。

その傍らには、医師と看護師、蓮の両親、そして――ひなたの姿。


ひなたはベッドの脇にひざまずき、泣きながら蓮の手を両手でしっかりと握っていた。


「お願い……目を覚ましてよ……」


しかし、蓮は何の反応も見せず、ただ静かに眠り続けていた。


「先生! 蓮を目覚めさせる方法はないの!?」


ひなたは声を震わせ、うつむいたままの医師に詰め寄る。


「申し訳ありません……わかりません……」


その答えに、怒りが爆発し、

ひなたは医師の胸ぐらをつかんだ。


「っ! あんたそれでも医者なの!? なんとかしなさいよ!!」


「ひ、ひなたちゃん!」


両親や看護師たちが慌てて彼女を引き離す。

ようやく解放された医師が、静かに口を開いた。


「……ひとつだけ、方法があります」


室内の全員の視線が医師に集まる。


「愛する人からの“口づけ”です」


一瞬、誰もが言葉を失った。


「ただし――お互いに本気で愛し合っていることが絶対条件です。藍沢さんにそういった方がいなければ、効果は……」


そのとき。蓮の両親が、顔を見合わせて微笑んだ。


「だったら、ひなたちゃんしかいないね」

「ええ、そうね」


「え?」


ひなたが呆然とする中、母親が優しく言う。


「蓮は、ひなたちゃんのことを心から愛してるのよ。あなたも、そうなんでしょ?」


「え!? いや、その……わ、私はっ……!」


「お願いだ、ひなたちゃん。蓮を助けてやってくれ!」

「私たちからも、どうか……!」


皆からの懇願に、ひなたはうろたえながらも、決意を込めてうなずいた。


「……わ、わかったわよ! やるわよ!! 蓮のためなら、なんだってするわ!」


そして、そっと蓮の顔を見つめる。


「よ、よし……」


ゆっくりと顔を近づける。

鼓動が早くなり、体が熱くなっていく。

目を閉じて――


ひなたは、そっと唇を蓮に重ねた。

柔らかくて、あたたかくて、懐かしい匂い。


そのとき――


「はっ!?」


ひなたは飛び起きた。

そこは自室のベッド。耳にはイヤホン。手にはスマホ。


「……夢? なんか、変な夢だったな……」


けれど夢の中でのキスを思い出すたびに、頬が熱くなり、思わず首をブンブンと振る。


「って――8時!?」


スマホの画面を見て、慌てて支度を始める。


「もー! ママ! なんで起こしてくれなかったのー!」


階段を駆け下り、リビングに飛び込む。


「起こしに行ったわよ? でもあんた、“ちゅっちゅっ”って寝言言ってたから、そっとしといたの。はい、パン」


「ひぃっ!? そ、そんな音してたの!?」


「なんかもぞもぞ動きながら変な声出してたから、ああ、ひなたも大人になったのねぇって、ママも嬉しかったわ。そうだ、今日お赤飯にしようかしら?」


「っ!? バカぁ!!」


顔を真っ赤にして、パンを雑に受け取ると、ひなたは家を飛び出す。


「スカート直しなさいよー! パンツ見えてるわよー!」


「うっさい! バカー!!」


パンをくわえて走る姿は、まるで少女漫画のヒロインのようだった。


通学路を全力で駆け抜ける。

道ゆく人々が振り返るほどの勢い。


――と、その途中、ふと足を止めた。


目に入ったのは、蓮の入院している大学病院のポスター。

広報の掲示だった。


「蓮……今日、手術だもんね」


ひなたはポスターに向かって深く一礼する。


「どうか無事に終わりますように」


そして再び走り出す。


「よし、急がなきゃ!」


風を切って、今日もひなたは前を向いて走る。

大切な人の未来へと、まっすぐに。


ひなたの慌ただしい朝とは裏腹に、蓮の朝は静かだった。


朝6時半。

中学生には少し早すぎる時間に、病棟の照明が一斉に灯る。

蓮も、その光で目を覚ました。


――寝たのか? ……寝た気がしないな。


手にはスマホ、耳にはイヤホンがつけられたままだった。

看護師たちの声が病室に響く。


「ああ、そうか。入院してたんだったな……」


見慣れない天井、白いカーテン。

現実が否応なく押し寄せてくる。


「藍沢くーん! おっはよー!」


元気な声と共にカーテンが開き、夜勤担当の金森さんが入ってくる。


「寝れた?」


「いや……」


「だよねー。なかなか寝れないよね。あと、手術着持ってきたよ。手術に行くときはこれに着替えてね」


――そっか、今日は手術か。


逃げたくても逃げられない現実が、そこにあった。


手術を控えた蓮の横で、病院の日常は淡々と進む。

同室の患者たちが朝食を取り始め、食器がカチャカチャと音を立て、温かい味噌汁のような匂いが漂ってくる。


しかし、蓮の手術は全身麻酔のため絶食・絶水中。

その匂いすら、苦しさを煽るだけだった。


(あんなに美味しくない病院食、いまはちょっと恋しいな……)


手術はうまくいくのか。

この入院生活に終わりは来るのか。

想像もつかない未来に、不安がじわじわと胸を満たしていく。


――ダメになりそうなときは、ひなたがくれたお守りを握って、あの声を、あの笑顔を思い出す。


何度もそれを繰り返しながら、刻一刻と近づく手術の時を待った。



午前9時。手術が始まる時間が近づいてくる。


「藍沢さん、おはようございます」


カーテンが開き、看護師の犬塚さんが入ってきた。


「犬塚です。今日、手術の前後を担当しますね。よろしくお願いします」


昨日も担当してくれた犬塚さん。偶然にも、今日も日勤らしい。


「じゃあ、そろそろ手術着に着替えましょうか。難しいのでお手伝いしますね。下着1枚になっていただけますか?」


(え……脱ぐの? こんな美人の前で?)


一瞬たじろぎつつも、言われるままパンツ一枚になる。

犬塚さんは、バスローブのような手術着の袖を通させ、前についた4本の紐を、慣れた手つきで器用に結んでいく。


その間、蓮はどうしたらいいかわからず、ただ天井を見つめていた。


――と、その時。

聞き慣れた足音が近づいてきた。


両親だった。


「おはよう、蓮……あら」


(……やめてくれ、今はやめてくれ!)


美人に服を着せられている姿を見られるなんて――

恥ずかしさで、顔がさらに真っ赤になった。



手術着への着替えが終わると、蓮は別の階にある手術室へ、自らの足で向かうことになる。


(イメージと違うな……)


ストレッチャーに乗って、両親に「がんばって」と声をかけられながら、両開きのドアに吸い込まれていく。そして手術中という赤いランプがともる――

そんなドラマのような場面を想像していた。


現実はもっと地味で現実的だ。


「ご家族の方はこちらでお待ちください。手術が終わるまで、病棟から出ないようお願いします」


これもまた、想像と違っていた。


(手術室の前のベンチで待ってて、医者が出てきて“成功しました”って報告してくれるんじゃないのか……)


「わかりました。蓮、がんばってね」


「……うん」


これ以上、家族の声を聞いていたら、怖くなってしまうから。

声を振り切るようにして、蓮は犬塚さんに付き添われ、静かに病室を出た。


ベッドの枕元には、ひなたがくれたお守りが、そっと置かれていた。


病室を出ると、ナースステーションの前に私服姿の金森さんが立っていた。

どうやら夜勤を終えて、ちょうど帰るところらしい。


「おっ、藍沢くん! そっか、いよいよなんだね!」


「金森さん。患者様に“くん”付けは失礼ですよ」


横から犬塚さんの冷静な声が飛ぶ。


(……このふたり、タイプが全然違う。あまり仲良くないのかな)


「えー、いいじゃん。藍沢くん、中学生なんだし」


「よくありません。患者様と看護師は、適切な距離を保つべきです」


「もぉ〜、相変わらずくそ真面目なんだから、わんちゃんは」


「ちょ、ちょっと!職場でその呼び方やめてって言ったでしょ!?」


犬塚さんが、顔を赤らめて慌てる。


(わんちゃん?)


「ていうかさぁ、看護学校からの同期なのに、なんで敬語なの?」


「そ、それは……プライベートと仕事は、オンオフを切り替えないと……」


「じゃあ夜勤のときに、彼氏とうまくいってないって相談してこないでよ〜?」


「そ、それは言わない約束だったでしょ!?」


(……あれ?)


ふたりのやり取りを見ていた蓮は、ふと既視感を覚えた。


(このふたり、仲悪いのかと思ったけど、全然そんなことないな。

 ……やっぱり、ひなたと美上に似てる。タイプは違うけど、仲良しで、

 いつもひなたが美上に遊ばれてたっけ。

 でもこっちは逆か。犬塚さん、美上っぽいのにいじられ役だ……)


自然と、蓮の口元がほころぶ。


「ちょ、藍沢さん!? いま笑いました!?」


「あ、す、すみません。」


「あははっ、面白いよね!藍沢くんも“わんちゃん”って呼んであげて!」


「……エ、エレベーター来ました! 行きましょう、藍沢さん!」


顔を真っ赤にしながら、犬塚さんがそそくさと蓮をエレベーターに誘導する。

金森さんは「がんばってね!」と笑顔で手を振り、それに蓮は一礼して応えた。



エレベーターに乗り込むと、静寂が戻ってくる。


「……こほん。申し訳ありません、少し取り乱してしまいました」


振り返った犬塚さんは、さっきとは打って変わって真面目な表情をしていた。

その切り替えの早さに、蓮は感心する。


「いえ。おかげで、少し緊張がほぐれました」


犬塚さんは、ふいに視線を逸らして、少しだけ耳を赤く染める。



沈黙のエレベーターは手術室のあるフロアに到着する。

エレベーターの扉が開くと、病棟とはまるで違う空気が広がっていた。

静けさと、どこか冷たい無機質な雰囲気。


エレベーターを降りた瞬間、鼻にツンと刺激臭が走る。

麻酔の匂いだろうか。今までに嗅いだことのない、独特な匂いだった。


「こちらでお待ちください」


犬塚さんに案内されたのは、手術室の前室。

彼女は迷いなく備え付けの電話を手に取る。


「眼科病棟の犬塚です。9時からオペの藍沢蓮さんをお連れしました」


さっきまで「わんちゃん」と呼ばれていた姿とはまるで別人。

その手際よさに、思わず見入ってしまう。


まもなく、自動ドアの向こうから声がかかる。


「お待たせしました。藍沢蓮さんですね」


手術室専任の看護師が現れ、犬塚さんがすばやく引き継ぎをする。

ここから先は、専門のチームに任されるようだ。


「私はここまでです。終わったらお迎えに来ますね」


そう言い残して、犬塚さんとはここで別れた。



「それでは藍沢さん、行きましょうか」


手術室の看護師に付き添われて中に進む。

重厚な機械音、麻酔や消毒の匂い。

緊張が、喉元にじわりとせり上がってくる。


いくつか並んだ手術室の一つに案内され、中に入ると、

中央に白いベッド。大きなモニター、見慣れない器具の数々。


蓮は自分の足でベッドに向かい、静かに横たわった。


(なんて、残酷なんだ。自分で手術台にのるなんて。)


真上にはまぶしいほどの手術用ライト。

周囲では看護師や医師たちが慌ただしく準備を進めている。


腕には血圧計、胸には心電図、足の指先には酸素センサー。

点滴も取られる。注射の比ではない痛みに、思わず肩がすくむ。


何度も名前と生年月日を確認され、腕のリストバンドを照合される。

万が一のミスも許されない。

そんな緊張感が、空気に漂っていた。


「藍沢さん。今日手術するのはどちらの目ですか?」


「……えっと、右です」


「そうですね」


眼の手術は、片目ずつ。

術後は眼帯をするため、両目をふさぐわけにはいかない。

つまり――蓮は、この経験をもう一度繰り返さなければならない。


右目の下にシールが貼られた。確認と識別のためだろう。



麻酔科医がやってくる。


「じゃあ、点滴の管から麻酔のお薬入れていくね~。あなたはだんだん眠くなるよ~」


(……催眠術かよ)


蓮は思わず心の中でつっこみながらも、そっと目を閉じる。

浮かんでくるのは、大切な人たちの笑顔。


両親。

学校のみんな。

彩綾。

そして――ひなた。


でも、やっぱり、目にメスが入るのは怖い。


不安をごまかすように、もう一度目を開けた――そのとき。



あれ?


頭がぼんやりして、天井がゆがんで見える。


(なんだ……これ……?)


次の瞬間、誰かの声が遠くで響いた。


「藍沢さーん! 起きてくださーい! 終わりましたよー!」


(……え?)


視界がぼやけている。右目は真っ暗だ。

考える余裕もないまま、身体が横にずらされていく感覚だけがある。

天井が動いている。

何かに乗せられて、移動しているのだと気づいた。


自動ドアが開き、聞き慣れた声が耳に届く。


「藍沢さん。お疲れ様でした。聞こえますか? 犬塚です」


ようやく思考が戻ってくる。


――手術、終わったんだ。



「お待たせしました」


犬塚さんの巧みなベッド操作で、病室に戻る。

スムーズに位置を整えると、器具の取り付けが始まった。



酸素マスク。

指先の酸素モニター。

心電図。

すばやく、無駄のない動き。


「体温を測りますね」


犬塚さんの手が、そっと脇の下に滑り込む。


(……なんか、ドキドキする)


「血圧計を取ってきますね。一旦失礼します」


「ありがとうございました」


声を出せない蓮に代わって、両親が深く頭を下げる。


「おつかれさま。2時間も大変だったわね。さっき先生が来てね、手術、うまくいったって」


その言葉を聞いた瞬間、ようやく心がほどける。

両親の声が、胸の奥までしみ込んできた。


(2時間もねむってたんだ。麻酔ってすごいな。でも、よかった。)



枕元に置いていたお守りを手に取り、ぎゅっと握りしめる。


――終わったよ。


蓮はそのまま、そっと目を閉じた。


ーーー



朝の夢を振り切るように学校へ走るひなた。猛ダッシュで教室に滑り込んだ。


「ギ、ギリギリ、間に合った……!」


「おはよう、ひなた。寝坊?」


隣で本を読んでいた彩綾が、視線を上げずに声をかけてくる。


「ま、まぁね。色々あって……」


息を切らしながら、ひなたは自分の席に倒れ込んだ。


朝のホームルームでは、今日も蓮の欠席が伝えられた。

理由は明かされず、クラス中に静かなざわめきが広がる。

ひなたはといえば、昨日は蓮のいない寂しさに気が抜け、階段から転げ落ちるなど、さんざんな目にあっていたが、今日は――夢のせいで朝から頬を赤らめ、ひとり悶々としていた。




「今日はずいぶん幸せそうね」


休み時間にとなりで読書をしていた彩綾が、ふと声をかける。


「えっ!? そ、そうかなっ?」


「何かいいことでもあったの?」


「えへへ、実はね……」


ひなたは、朝に見た夢の話を打ち明けた。


「ふふっ、面白い夢ね。藍沢くんにキスしないと目覚めない、なんて」


「なんかさ、感触とかも妙にリアルで……思い出すと恥ずかしいんだよね……」


ひなたは両頬を赤く染める。


「リアルって。ひなた、キスしたことないじゃない」


「な、ないけどさ! な、なんか……イメージ的な! 妄想ってやつ?」


「ふーん」


「そ、そういう彩綾だって、ないでしょ!」


「あるわよ?」


「……は?」


時が止まった。


「ど、どうせ弟くんとかでしょ!? あれでしょ!? お遊びキス的なやつでしょ!?」


動揺を隠しきれないひなた。

「暁斗ともしてたわね。毎日してた。でも最近は顔を近づけるだけで嫌がられて、ちょっと寂しいわ」


「ちょ、ちょっと待って!? “とも”ってなに!? 他にもいるの!? それって誰よ!」


「どうかしら?」


「いいなさいよ!!」


「怒られそうだから言いたくないわね」


「言いなさいって言ってんの!」


「……藍沢くん」


「はっ……はぁぁぁあああ!?!?」


ひなたの叫びが、教室の空気を切り裂いた。

全員の視線が、一斉に彼女へ向く。


「い、いつよ!?」


ひなたは震える声で問い詰める。


「たしか、小学校4年生くらいだったかしら」


「どこで!?」


「図書室。ふたりきりだったわね」


「ちょ、ちょっと待って、その話くわし――」


チャイムが鳴った。

授業が始まり、ひなたは席につくも、その目は彩綾を

にらみつづけていた。



放課後――


人気のない階段の踊り場に、ふたりの姿があった。

壁際に追い込まれた彩綾。

その前に立ちはだかるひなた。

これがいわゆる、壁ドン。


「あの話の続き……聞かせなさいよ」


「ふふっ。もしひなたが男子だったら、このシチュエーション……たまらないわね」


「ふざけてないで! 気をつけて発言しなさい、この泥棒猫!」


「泥棒猫って……。藍沢くんはひなたのものじゃないでしょ。それに、昔の話よ」


「いいから! 一字一句もらさず話しなさいっての!!」


「そうね……あれは幸せなひとときだったわ」


彩綾は、長い黒髪に指を絡ませ、わざとらしく頬を赤らめる。


「ど、どんな話になるのよぉお~~!!」




蓮と彩綾、小学4年生の頃


「へぇ。キスって人によって感触が違うんだ」


彩綾は学校に恋愛小説を持ち込んでは、夢中になって読んでいた。


「暁斗とは毎日してるけど……人によって違うのか、ちょっと気になるわね」


その視線は、教室で友人と談笑している蓮に向けられる。そして、まっすぐに歩み寄った。


「ねぇ、藍沢くん」


「どうした? 彩綾」


「ちょっと来て」


「あっ、お、おい!」


蓮の手を引いて、教室から連れ出す。

クラスメイトたちがざわめく。


「え、告白!?」「マジで!?」


2人が向かったのは、誰もいない図書室。


「な、なんだよ……こんなとこ、連れてきて」


「藍沢くん、目、つぶって」


「え?」


「いいから」


蓮は戸惑いながらも、目を閉じた。


「いい? 今から私がすることは、ただの好奇心。すぐに忘れてね」


「な、なにを……」


次の瞬間、手をぐいっと引かれ――

唇に、柔らかい感触。ふわっと甘い香り。


目を開けると、至近距離に彩綾の顔があった。


「!?」


目を白黒させる蓮。その顔を、彩綾はまっすぐに見つめていた。彼女の吐息が、頬にかかる。


――もう、どうしたらいいかわからなかった。


(ふぅん。こんなもんなのね)


彩綾はすっと離れた。


「な、なにすんだよっ!?」


蓮の顔は真っ赤だった。


「ありがとね、藍沢くん。もう忘れて。それじゃ」


彩綾は何事もなかったように部屋を出ていった。


蓮は一人、放心したまま取り残された――

このあと蓮がしばらく爛爛としてしまったのは、言うまでもない。



回想終わり


「ぐっ、はぁ……っ!」


ひなたがその場に崩れ落ちる。


「はぁ……あの感触、忘れられないわ」


彩綾がわざとらしく艶っぽく言う。


「ちょっと待ちなさいよ……小学校からずっと私たち同じクラスだったのに……なんで私が出てこないのよ……!」


ひなたは、ダウン寸前のボクサーのようにふらふらと立ち上がった。


「たしかひなたは……そう、あのときおもらししちゃって、保健室で着替えてたんじゃなかったかしら?」


「はっ!?」


「だから、ひなたは――おもらしして――」


彩綾がわざと大きな声を出す。


「え? おもらし?」


男子の声が飛んできた。


「バ、バカバカバカぁぁぁぁ!!」


ひなたは顔を真っ赤にして、勢いよく逃げ出した。


「さてと。昨日の続きをしないとね。」


ひなたの厳しい取り調べを終えた彩綾はパソコン室へむかった。






彩綾はパソコンをたちあげ、今日も入院中の蓮に、授業ノートをテキスト化して送るための作業をはじめる。


ゆっくりとドアが開く。


「ぐすっ、えぐっ……失礼しましゅ……」


泣き声混じりに入ってきたのは、ひなただった。

ひなたはほとんど毎日泣いているため彩綾からしたらこれは日常。泣きながら彩綾の隣に座り、うなだれた。


「なに泣いてるのよ」


「ぐすっ……あんたのせいでしょ……」


「部活は?」


「休んだ……」


「また?メンタルの不調で休みすぎね」


「うるさいなぁ、彩綾だって幽霊部員じゃん……」


「で? なにしにきたの?」


「手伝いに来たんだよ……」


「ふぅん、優しいのね」


「あんたのためじゃないもん。蓮のためだもん」


2人は並んで作業を始める。ひなたがノートを読み上げ、彩綾がタイピングしていく。


「ああああっ!!」


突然、ひなたが机に頭をぶつけた。


「どうしたの?」


「わかんない! なんか、もやもやするの!!」


「まだキスのこと怒ってるの?」


「怒ってないけど、もやもやするの!」


「なんでよ」


「彩綾が私に隠しごとをしてたのが、むかつくの!!」


「怒ってるじゃん」


「うるさいなあっ!」


ひなたは机をばんっとたたく


「隠してたわけじゃないわよ。言う必要がなかっただけ」


「言う必要なくないでしょ!? 蓮の初めては私のものだったのに!!」


「知らないわよ、そんなの」


ひなたは勢いよく立ち上がり、舞台役者のように大きくジェスチャーをする。


「いい!?よくききなさいよ!?16歳になったらね、私と蓮は映画館に行くの。もちろん見るのは、主役とヒロインが結ばれる恋愛映画。

 誰もいない映画館で、ポップコーンは1つ、ジュースも1つ。同じストローで飲むの!

 手をこっそりつないで、距離を縮めて、映画のラストに合わせて蓮が私にキスをするの。

 そしてこう言うの!」


「初めてのキスがひなたでよかった。俺たちもあの2人みたいに、幸せになろうな――」


「きゃあああぁっっ!! 」


ひなたが幸せそうにパソコン室を転げ回る中、彩綾は構わず打ち込みをつづける


「この計画をあんたが台無しにしたのよ!!この泥棒猫!!」


すっと立ち上がり、彩綾をにらみつける


「……だれもいないのね、その映画館。随分人気のない映画なんでしょうね。センスを疑っちゃうわ」


「い、いいでしょ! あくまで計画なんだから!!」


「それに、視覚に障害がある藍沢くんに映画を見せるのって、酷じゃない?

 視覚よりも、音や香り、体験を共有するほうがいいと思うけど」


「う、ぐすっ……うえぇぇぇん!!」


幼少期からあたためてきたキスのシチュエーションを真っ向から否定されたひなたは何も言い返せず、毎度のことながら泣きだす。


「はぁ、また始まった」


パソコン室には、ひなたの泣き声と彩綾のタイピング音だけが響く。



少しして――


ひなたは椅子の上で体育座りして、ふてくされていた。


「……ぐすっ、ひぐっ……」


「いつまで泣くのよ」


「な、泣いてないもん」


「そう? ならいいけど」


目をゴシゴシとこすりながら、鼻声でひなたは続ける


「……キスのことはもういいよ。過ぎたことだし、蓮からもちゃんと話を聞かなきゃ真相はわかんないし。

 でも、ひとつだけ聞かせて」


「なに?」


「なんで蓮にしたの?」


彩綾は椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げ一呼吸おいて答えた。


「……特に考えてなかった。いちばん身近だったし。知らない人より、知ってる藍沢くんのほうがよかったから。かな?」


その答えにむっとして、ひなたはジト目で彩綾に言葉をぶつける


「……尻軽」


「心外ね」


少しの沈黙のあと、ひなたはうなだれながら言葉を紡ぐ


「いいなぁ。彩綾は美人だから、そういう大胆なこともできるんでしょ。私には無理だもん」


「ひなたも十分かわいいわよ。美人とか関係ある?」


「あるよ。彩綾にキスされて嫌な男子なんていないよ」


「どうかしらね。あれ以来、藍沢くんは私のこと“美上”って呼ぶようになっちゃったし。

 多少は嫌だったんじゃない? お互い、あのことはなかったことにしてるけどね。


彩綾の瞳はどこか遠くをみているようだった。


「彩綾……」


「彼には本当に申し訳ないことをしたと思ってるわ。反省しないとね」


寂しげな表情を浮かべる彩綾に、ひなたはハッとした。


「あ……彩綾も、悪いって思ってるんだ……」


「まあね。あのときは好奇心が抑えられなかったの。今じゃ、とてもじゃないけどあんなことできないわよ。それに。」


「……それに?」


「今なら、もっとすごいことしちゃうかも?」


小悪魔のような笑みを浮かべながら、彩綾はスカートを少しめくって大胆に太ももを露出させる。


「ひ、ひいっ!? な、なに言ってんのよ!? 全然反省してないじゃない!!

 れ、蓮には手を出させないからね!!」

 

ひなたは顔を真っ赤にして、椅子からたちあがり、なにかを守るかのように両手を横に広げる



「ふふっ、冗談よ。さ、早く藍沢くんのためにノート作っちゃいましょ。」


「あ、あんたがいうことは全然冗談に聞こえないのよ……」


そういうとひなたはノートをてにとり、2人は協力して、ノートの内容をパソコンに打ち込み、無事に完成させた。


「ふぅ、ひとまず昨日の分と今日の分はまとめられたわね。あとはこれをスマホに移して……」


パソコンとスマホを器用に操作する彩綾をひなたがのぞきこむ


「すごいね。これを蓮に送ったら、どうなるの?」


「藍沢くんのスマホには音声読み上げ機能が入ってるの。だから、画面のテキストは全部読み上げてくれるわ。これもちゃんと届くはずよ。」


「へぇ……蓮、喜んでくれるといいな……」


ひなたはれんの顔を思い出し目を細める


「そういえば、手術はどうなったのかしら。無事に終わってるといいけど。」


帰り支度をしながら、彩綾がつぶやく


「あっ、そうだ!メッセージ来てるかも!」


ひなたは慌ててカバンからスマホを取り出す。


「……うぅ、来てない……」


「まあ、手術で疲れちゃってるのかもね。きっと緊張して眠れなかっただろうし、もう眠っちゃってるのかもしれないわ。」


「……だといいけど。」


「心配?」


「もう、3日も会えてないんだよ……」


「でも、私たちには今できること、少ないしね。」


少しの沈黙のあと。


「ねぇ、彩綾。面会って行ってもいいのかな?」


「ご家族の了承があればいいんじゃないかしら……まさか、行く気なの?」


彩綾はひなたの表情を見て、すぐに察した。


「あ、この子、本気だわ……」


「そう。気をつけてね。」


「彩綾も行くんだよ?」


「えっ?」


「道中長いし、道に迷ったら困るし。それに、せっかく蓮に会うなら、楽しい方がいいでしょ?」


「はぁ……あなたは本当にまっすぐね。」


面倒。そうおもいつつも、彩綾の顔には微笑みがうかんでいた。


2人は学校を後にし、夕暮れの街を歩いて藍沢家へと向かった。


家の電気はついていた。どうやら付き添いのご両親はもう帰宅しているようだ。インターホンを押し、2人は中へ招かれる。


通されたのはリビング。そこで蓮の両親が2人をあたたかく迎えてくれた。


「ごめんね、散らかってて……掃除する気力もなくて……」


「いえ。こちらこそ、お忙しい中、押しかけてしまって申し訳ありません。」


「もう、彩綾ちゃんったら。そんなにかしこまらなくてもいいのに。」


「お気遣い感謝します。」


彩綾は会釈をし、母が続ける。


「学校はどう?蓮のこと、みんな気にしてる?」


「あ、はい!みんな心配してます!蓮は人気者でしたし、何があったのか気になっている子も多くて……」


「そう……ごめんなさいね。でも、まだ詳しいことは言えなくて。蓮も、それを望んでないみたいだから……」


「母さん?2人は蓮の容体が気になってるんじゃないかな?」


父親がそう言って話を戻す。


「あ、そうね。ごめんなさい。蓮の手術は無事に成功したわ。全身麻酔の影響で少しだるそうだけど、明日には元気になってると思うわ。」


「……よかった……」


ひなたが胸をなでおろした。


「ただ……やっぱり、視力は戻らないみたい。目にメスを入れたから、少し悪くなる可能性もあるって。でも、今後は感染症にも注意しなきゃいけないらしくて……」


「え、じゃあ……面会は……?」


悲しそうな顔をするひなたに母が問い返す。


「面会?」


「ひなたが面会に行きたいと言い出したんです。私も気になっていたので、ご両親にご挨拶をと思いまして……」


「いいの?」


「えっ?」


「蓮、きっと喜ぶわ。2人がいいなら、ぜひ行ってあげて?ねぇ、お父さん?」


「そうだね。僕たちもここしばらく仕事を休みっぱなしだったけど、手術も終わってひと段落したから、明日からは職場に戻らないと。2人が代わりに行ってくれるなら助かるよ。」


「はい!行きます!行かせてください!!」


ひなたが元気よく立ち上がるとなりで、彩綾が丁寧に会釈をする。


「ありがとうね、ひなたちゃん、彩綾ちゃん。」


「いえ。では、日曜日に面会に行かせていただきますね。」


「楽しみだなぁ!じゃあ、帰ろう……って、彩綾?」


ひなたが帰ろうとすると、彩綾はまだ席を立たなかった。


「あの……蓮くんの進路について、何かお考えはありますか?」


一瞬、両親の表情が曇る。


「蓮はね、みんなと同じ学校に戻るつもりでいるの。でも、先生からは、視力のことを考えると難しいだろうって言われてるのよ。」


「じゃあ、盲学校ですか?」


「できればそうしたいわ。盲学校なら、自立に向けたサポートや専門教育も受けられるって聞いたから。」


彩綾はカバンから名刺を取り出し、テーブルに置いた。


「もしよかったら、これを……」


「株式会社アイズ。代表、越谷 暸さん……?」


「視覚障害者の支援をしている会社の代表です。暁斗のことでもお世話になっていて。蓮くんが退院して落ち着いたら、一度お話を聞いてみてもいいかもしれません。」


「ありがとう、彩綾ちゃん。そうね……私たちだけで悩んでても、限界があるものね。相談してみるわ。」


彩綾は深く一礼して、蓮の家をあとにした。


外に出ると、ひなたが少し寂しそうな顔をしていた。


「やっぱり……蓮、学校には戻ってこないんだね……」


「学校がすべてじゃないわ。あなたたちは隣同士でしょ?」


「そうだね……」


「まずは日曜日、面会を楽しみにしましょ?色々気にするのは、そのあとでいいわ。」


「うん……」


「それじゃ、また明日。」


彩綾はそのまま、夜の街に消えていった。


ひなたは空を見上げた。


「面会か……こんなに近くに家があるのに。蓮に会うには遠くの病院に行かないといけないなんて。幼なじみなのに、会える時間が限られてるなんて……」


ふぅーっと、吐いた白い息は、夜の空へと消えていく。


「待っててね、蓮……今は寂しいかもしれない。でも、すぐに会いに行くから。」


手術を終え安堵する蓮。

そしてひなたは、会えない寂しさに耐えかねて、ついに蓮との面会を決意した。

直接話したいことは、たくさんある。

その想いを胸に秘めて、彼女は日曜日を静かに待ち続けるのだった。





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