第4章「そばにある日常」
ひなたは、大学病院へと向かう蓮の乗った車を見送ったあと、学校へ向かった。
胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちを抱えながら、それでも「いつも通り」に振る舞おうとしていた。
1月の終わり。
蓮が突然、日常から切り離されるように入院してからも、ひなたたちの学校生活は、何事もなかったかのように進み続ける。
朝のホームルームでは、担任が淡々と告げた。
「藍沢くんは今日もお休みです」
それだけ。
彼が緑内障の治療のために入院していることは語られなかった。
蓮の家族の意向で、クラスのみんなに余計な不安を与えたくないという理由だった。
そのせいで、教室には憶測ばかりが飛び交っていた。
「インフルエンザじゃね?」
「いや、2日くらいじゃな。うつとかだったらやばいよね。あいつ、最近おかしかったし。」
「精神的に来たとか……?」
ひなたと彩綾は、事情を知っているがゆえに、聞こえてくる噂に胸がざわつく。
⸻
ホームルームが終わると
数人の男子がひなたのもとにやってきた。
「なぁ、藤島」
「なに?」
「お前、愛沢の隣に住んでるんだろ?なんか、聞いてないのか?」
「えっ……! い、いや、ううん。なにも知らない、です!」
思わず敬語になってしまう。
「なんで敬語なんだよ」
「あ、あれ? あはは……」
ごまかすように笑うひなたに、男子たちは首をかしげる。
その様子を見かねた彩綾が声をかけた。
「ひなた、一緒にお手洗い行きましょ」
「え、あ、うん!」
「ごめんなさい。ここからは女子だけの時間なの」
男子をやんわりとかき分けて、ひなたの手を引いて教室を出る彩綾。
「お、おい……美上って、やっぱいい匂いするよな……」
「き、きもちわるっ!」
⸻
彩綾に手を引かれた先は人気のない階段の踊り場だった。
「ひなたって、ほんとに素直ね」
「な、なにが……?」
「ごまかすの、下手すぎ」
「う、ご、ごめん……」
「私に謝っても意味ないでしょ」
「でもさ、本当に黙ってていいのかな……蓮のこと」
「藍沢くんとご家族の意向なんだから、私たちはそれを尊重するべきよ」
「でも……戻ってきたときに、誰にもわかってもらえなかったら辛くない? 何も知らないまま、みんな冷たくしたら……」
ひなたの言葉に、彩綾が少し表情を曇らせる。
「……多分だけど、藍沢くんは学校には戻ってこないと思う」
「えっ……なんで?」
「お母さんが言ってたでしょ? 手術をしても視力が戻るわけじゃない。日常生活すら難しいかもって」
ひなたは黙り込む。
「私、弟の暁斗がいるから……目が見えない人が普通の生活を取り戻すまでの苦労、少しは知ってるつもり。だからこそ、学校に戻ってこない。戻れないっていうのが現実だと思う」
「そんな……」
「実際、退院したって歩行訓練や補助具の練習、通院もある。学校に来る余裕なんて、たぶん、ないわ」
「うぅ……ぐすっ……」
ひなたはぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「また泣いてる」
「だって……だってぇ……修学旅行、一緒に行きたかったんだもん……!」
彩綾は、少し驚いたような顔で見つめる。
「そこ?」
「なによ、“そこ”って! 当たり前でしょ! 3年間で1回しかないんだからぁ!」
嗚咽混じりに訴えるひなたに、彩綾はふっと笑って言った。
「もし藍沢くんも楽しみにしてたなら、私たちが旅行に連れ出してもいいかもね」
「……え?」
「すぐには無理かもしれない。でも、彼が外に出られるようになったら、考えてみてもいいかもね。」
「……うん。それ、いいかも!」
ひなたの涙が少し和らいで、頬に微笑みが戻る。
「だからこそ、私たちが支えてあげないとね。お母さんにも頼まれたんだから。」
「うん!」
ふたりはそう心に誓いながら、また教室へと戻っていった。
自分たちが、彼の居場所になれるように――。
2人がそんな決意を胸に学校生活を送る中、蓮は日常から切り離され、大学病院の眼科病棟にやってきていた。
鼻をつく消毒液の匂い。
行き交う看護師たち。
病衣を着た患者たちは、そのほとんどが高齢者のようだ。
――こんなところで、本当に1、2週間も過ごすのか。
本当に、入院なんてするのか。
……退院なんて、できるのか?
胸の中に押し寄せる不安の波に呑まれかけていたとき、ナースステーションからひとりの看護師が近づいてきた。
「入院患者さんですか?」
「あ、はい、そうです」
父が渡した資料を確認する看護師。その後ろから、もうひとりの看護師が現れた。20代くらいだろうか。メガネがよく似合う、落ち着いた雰囲気の美人だった。
「藍沢蓮さんですね。担当の犬塚と申します。患者様確認のため、リストバンドをつけますね」
細く冷たいプラスチックのバンドが、蓮の手首に巻かれる。名前と患者番号が記されていた。
これをつけた瞬間、日常が遠ざかっていく気がした。
現実が、ひとつずつ自分の手からすり抜けていく。
まるで――
手錠みたいだ。
蓮はそう思った。
その後、身長と体重を測定し、看護師に案内されて病室へ向かう。
用意されたのは3人部屋の窓際。真ん中のベッドじゃなかったことに、心からほっとした。両側を囲まれるのは、今の蓮にはきつすぎる。
「今日から同室の藍沢さんです」
犬塚さんが、軽くカーテン越しに声をかけるが、中からの反応はない。
カーテンが閉じられたベッドがある。きっと、そこに誰かいるのだろう。
ドラマなんかだと、隣のベッドの人との交流なんてありがちだけど、実際は他人に興味がないのが現実なのかもしれない。
「こちらになりますね」
案内されたのは、無機質な白いベッド。
柵のついたベッド、小さな棚、テレビと冷蔵庫、そして1人用のテーブル。
「病院」という言葉をそのまま形にしたような空間だった。
「では、荷物の整理をしておいてください。私は血圧計と病衣を取ってきますね」
そう言い残して、犬塚さんは部屋を出ていった。
これもドラマなんかで見る看護師の話だが、白衣の天使とよばれ、いつもニコニコしていて優しいイメージだった。
でも、現実の看護師はもっと淡々としていて、冷たくさえ感じる。
――毎日、命に関わる現場にいるんだから、無理もないか。
蓮が黙って立ち尽くす中、荷物を整理していた母がふとつぶやいた。
「……あの看護師さん、彩綾ちゃんにちょっと似てたわね」
「はは。たしかに、そうだったな」
蓮は少し笑った。
似ていたかもしれない。でも、違う気もした。
美上は、一見クールだけど根は優しい。
男子たちは、彼女がふと見せる笑顔にやられるらしい――そんな話もあったっけ。
今の自分のそばに美上がいたら、どんなことを言ってくれただろう。
ふと、彼女のことを思い出し、蓮は微笑んだ。
まだ、日常を忘れたくないな――
藍沢さん。よろしいですか?」
犬塚さんの声が、カーテン越しにやさしく響く。
蓮が「どうぞ」と返すと、血圧計と病衣を手に彼女が入ってきた。
紺色の半袖のトップスに、ピンクのパンツスタイル。清潔感がかんじられる。
「まずは血圧を測りますね」
手際よく蓮の腕にカフを巻いていく犬塚さん。
その動きは慣れていてスムーズだったが、蓮の方は正直落ち着かなかった。
ひなたや美上とは違う、大人の女性。
しかもこんな近距離で――思春期男子には刺激が強すぎる。
半袖から伸びる白い腕。鼻先をかすめるような甘い香水の香り。
蓮は思わず目を逸らした。
ひなたや美上ならこんな気持ちにならないのに。
心臓がドクドクとうるさい。
まるで、自分の鼓動を測られている気分だった。
「少し高いですね」
犬塚さんが言うと、横から母がにこやかに口を挟んだ。
「緊張しちゃってるみたいですよ。看護師さんが美人だから」
(母さん、余計なこと言わないでよ…)
蓮が内心赤面していると、
「ふふっ、嬉しいですね。ありがとうございます」
犬塚さんはさらりと返し、微笑んだ。
その笑顔にどこか美上の面影があった。
少しクールに見えて、でもふいに見せるやわらかい表情。
そのギャップに、蓮の鼓動はさらに早まる。
血圧測定が終わると、犬塚さんは立ち上がり淡々と告げた。
「血圧はまた測りに来ますね。次はドクターから手術の説明を受けていただきます。終わり次第、ご家族はお帰りいただいて大丈夫です」
「はい。わかりました」
母がさみしげにうなずいた。
蓮は胸の奥が痛くなった。
“家族は帰っていい”――
それはつまり、自分だけがここに「残る」ということだった。
⸻
午前中の検査を終えて
医師からの手術説明。各種検査。麻酔科医との面談。
慣れない医療用語に戸惑いながらも、蓮はすべてを終えた。
手術は全身麻酔になるという。
局所麻酔だと目が動いてしまうリスクがあるため、未成年の蓮には全身麻酔が最適だと。
(正直、目にメスが入るとことか怖いから…そのほうが少し安心かもな。)
病室に戻れたのは昼過ぎだった。
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「お疲れさまでした。今、お食事をお持ちしますね」
ここまで案内として付き添ってくれた犬塚さんが声をかけ、部屋を出ていく。
蓮はぼんやりとベッドに腰を下ろした。
「お待たせしました。今日のご飯は——」
彼女が戻ってきて、トレイを丁寧に運び込む。
そして、蓮の手を取り、ひとつずつ食器の配置と献立を教えてくれた。
「こちらがお箸とスプーン。手前がご飯、お味噌汁。右手にお魚とお野菜になります」
犬塚さんの手はやわらかくて、あたたかかった。
鼓動がまた跳ね上がり、蓮の顔は真っ赤になる。
「終わりましたらナースコールでお呼びくださいね。失礼します」
彼女が部屋を出ると、病室はふたたび静けさに包まれた。
蓮は箸を手に取り、食べ始める。
……けれど、
(あれ……)
味が、しない。
見た目はふつう。けれど、どこか無機質で、空虚な味。
母の手料理、学校の給食、ひなたたちと食べたレストランの味。
そんな記憶がふいに胸にあふれてきて、気づけば——
ぽろ、ぽろ、ぽろ。
涙が、こぼれていた。
「おいしくないわよね」
母がそっと隣に腰かけ、蓮の背中をやさしくさする。
無駄に声はかけない。ただ、さするだけ。
「早く退院して、みんなでおいしいもの食べましょ?ね、お父さん」
「ああ、そうだな」
両親の声も、ほんの少し震えていた。
蓮は声を出せなかった。
同室の人に、泣いているのを知られたくなかった。
だから、口を閉じたまま、気合いで完食した。
食事を終え、病衣に着替える。
袖を通すたびに、「入院患者になったんだ」と実感がじわじわと押し寄せてきた。
ふと、私服のズボンのポケットに何かがあることに気づく。
取り出してみると、それはひなたがくれた小さなお守りだった。
蓮にはよく見えていないが「ガンバレ」と丁寧に刺繍された文字。
あの夜、徹夜して作ったんだと、恥ずかしそうに笑っていたひなた。
——ひなたが病気のことを知って、泣いていたときの顔。
——そんな彼女を冷たく突き放してしまった自分。
——それでもなお、お守りを差し出してくれた、あのときの照れた顔。
(ひなたには、嫌な思いばかりさせてるな……)
なんで、こんなおれなんかに、あんなにまっすぐなんだよ。
世の中には、もっといい男なんていくらでもいるのに。
でも、不思議と、ひなたの泣き顔も、怒った顔も、笑顔も、頭から離れない。
蓮はお守りをそっと胸ポケットにしまい、目を閉じた。
⸻
着替えも終わり、いよいよ両親が帰る時間になった。
「じゃあな、蓮。また明日、手術の前に来るからな」
父がいつもと変わらない口調で言うけれど、
それが逆に、どこか遠く感じた。
「寒くないようにね。何かあったら、すぐ看護師さんを呼ぶのよ?」
母が心配そうに言う。
蓮は「うん」と小さくうなずくだけだった。
「また明日ね」と言って、ふたりは病室をあとにする。
こんなふうに、「また明日」と言って家族が別れることなんて、
普通の生活をしていれば、ありえなかった。
聞き慣れた足音が遠ざかる。
それだけで、胸の奥がぽっかり空いたような気がした。
心配させたくなくて、ずっと平気なフリをしていた。
でも、ひとりになった途端、その孤独は容赦なく押し寄せてくる。
母の背中をさする手も、父のあたたかい視線も、もうない。
蓮は静かに、しかしとめどなく涙を流した。
⸻
両親の車の中
そのころ両親もまた、病院を出た車の中で沈黙していた。
「なんで……なんであの子を置いてこなきゃいけないのかしら」
母がぽつりとつぶやく。
「僕だって、できれば連れて帰りたいよ。でも……今治療しなきゃ、蓮がもっと辛くなる」
涙ぐみながら、母は後部座席を振り返る。
そこには、たしかにさっきまで蓮が座っていた。
⸻
泣き疲れた蓮はベッドに横になる。
天井には点滴器具のフックがぶらさがり、無機質な灯りだけが静かに照らしていた。
知らない誰かの生活音。聞いたことのない咳払い。
そして、ただただ流れる退屈な時間。
(これがしばらく続くのか……)
気が遠くなるような感覚。
外を見ても、そこにはきれいな夕焼けなんてない。見えるのは、病院の別棟の壁だけ。
(まるで、牢獄だな)
⸻
「こんばんはー!」
突然、陽気な声が病室の外から聞こえてくる。
看護師が他の部屋を回っているらしい。その声が、蓮の病室にもやってきた。
「こんばんはー! 藍沢くん!」
“くん”付け? と、少し驚きながらも蓮は返事をする。
「は、はい!」
「夜勤の金森でーす!よろしくね!」
現れたのは、明るい茶髪のショートカットがよく似合うお姉さん。
年齢は犬塚さんと同じくらいだろうか。
犬塚さんが“落ち着いた美人”なら、この人は“アイドル系の快活美人”。
そのギャップに、思わずたじろいだ。
「えーっと、明日は手術だからご飯はなしね。飲み物は朝までOKっと……」
カルテをめくりながら確認し、こちらをちらっと見る。
「緊張する?」
「え、あ、はい……」
「だよね〜! あたしも藍沢くんくらいの頃、入院したことあるからさ〜、気持ちわかる!」
軽やかな言葉が、なんとなく安心をくれる。
「あんまり休めないかもだけど、なるべくゆっくり休んでね!
なんかあったらナースコール押して〜!」
「は、はい……」
「んじゃ、またねー!」
彼女は嵐のように現れ、嵐のように去っていった。
看護師さんも、本当にいろんな人がいるんだな。
落ち着いた犬塚さんは美上に似ていて、
明るい金森さんはひなたみたい。
蓮はふっと笑った。
さっきまで遠くに感じていた“日常”が、ほんの少し近づいたような気がした。
(ひなた、美上、学校、どうなってるんだろうな。)
蓮は窓の外をぼんやりながめていた。
「蓮……寂しくないかな……」
日中、蓮のいない学校でも、ひなたがぼんやり窓の外を眺めていた。
「藤島!おい、藤島!」
「はっ、はいっ!」
「聞いてたか?ここ、読め」
「え、えーと……」
「聞いてないじゃないか。もういい、座れ」
教室中に笑いが広がる。
授業中にも関わらずひなたはぼーっとしていた。
いや、授業中だけではない、ひなたは一日中ぼーっとしていた。
⸻
「あはは、それウケる〜——ふぎゃっ!?」
「ひ、ひなた!?大丈夫!?」
歩きながら柱に激突。
⸻
「えーっと、次の授業は……」
「あの、すみません。隣のクラスの藤島さん、ですよね?」
「えっ?」
違う教室に入ってしまっていた。
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「はぁ……今日はダメダメだ……」
「やばいやばい!もれる〜っ!……って、女!?」
トイレで手を洗っていたら、そこは男子トイレだった。
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「ひなた!パス!」
「へ? ぶはっ!」
「ひ、ひなた!?先生ー!ひなたがー!」
体育の時間は得意なサッカー。運動神経抜群なはずのひなたが、ボールに当たりまくる。
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「ううっ、お腹痛いし、顔も痛いし……って、うわわっ!?」
「お、おい!?誰か上から落ちてきたぞ!?」
階段から転げ落ちるひなた。
「いっ、、いったぁ、、」
ひなたはまるでボロ雑巾のようだった。
どれもこれも、ぜんぶ——蓮がいないから。
⸻
「はい、これでOKよ。打撲だけで済んでよかったわね」
保健室で、湿布を貼られたひなた。
顔には絆創膏。見た目はまるで不良少女だ。
「あはは……私、頑丈だけが取り柄だからさ。」
「せっかくかわいい顔してるんだから、大事にしなさいね?」
かわいい顔——。
「ねぇ先生」
「なに?」
「もし先生が、目が見えなかったら……私のこと、かわいいって思う?」
「え?どういうこと?」
「……なんでもない。ありがとうございました」
ひなたは、保健室を後にした。
⸻
放課後。
部活を休んだのは、体が痛むから——というより、心が空っぽだったから。
「ひどい顔ね」
帰り支度をしながら、彩綾がぼそっとつぶやいた。
「藍沢くんが見たら笑うかも。」
「もう、蓮に私の顔見えないもん……」
机に突っ伏すひなた。
「重症ね、心も体も」
「蓮……寂しくないかな……」
「どうかしら?看護師さんに囲まれて、大人のお姉さんたちと楽しくやってるかもよ?」
「なにそれ!そんなの許せない!」
勢いよく頭を上げるひなた。
「あなたの感情、ジェットコースターね」
彩綾は立ち上がる。
「ひなた、部活ないんでしょ?ちょっと来て」
「え? うん……」
⸻
2人がやってきたのは、パソコン室。
彩綾が鍵を開ける。
「一応、“課題やる”ってことで許可取ってあるから、静かにしてね」
「え、でも……何しにここに?」
彩綾はノートを広げ、パソコンを立ち上げる。
「今日の授業のノートをデータにして、藍沢くんに送ってあげるの。手書きじゃ彼、読めないでしょ」
「でも……蓮、勉強なんてしてる余裕ないんじゃ?」
「そうね。でも、聞き流すだけでも暇つぶしにはなるかも」
「彩綾……」
「感動してるヒマあるなら、はい。これ。ノート読んで。バカなひなたでも、音読くらいはできるでしょ?」
「またバカって言った〜!」
2人の作業は、夕方まで続いた。
⸻
パソコン室を出て、校門前で彩綾をまつひなた。
「お待たせ。帰りましょう」
「うん……」
並んで歩く2人。
「すごいね、彩綾は」
「なに?いきなり」
「蓮のこと、なんでもわかってあげられて」
「わかってないわよ。これだって自己満足。迷惑かも」
ひなたは突然立ち止まる。
「ひなた?」
「彩綾は……蓮のこと、好きじゃないの?」
「またそれ? いつも言ってるでしょ。好きじゃないって」
「私ね、思うの。蓮は彩綾といるほうが幸せなんじゃないかなって。彩綾は、蓮のことわかってあげられるし、私なんて、なんにもできないし」
「……」
「だからね。もし私に気を遣って身を引こうとしてるなら、やめて。身を引くのは、私のほうだから」
「はぁ……めんどくさい」
「な、なんでよ!? こっちは真剣なのに!!」
「好きよ?」
「……えっ!?」
「自分で聞いて、なんでびっくりしてるの?」
「いや、それは……」
「私は藍沢くんのこと好き。ひなたのことも好き。お互い好きなのに空回ってる2人が、大好きなの」
彩綾は空を見上げた。
その顔に、曇りはひとつもなかった。
「彩綾……」
「大好きな友達のためなら喜んで手を貸すわ。私にとって2人の笑顔がみられなくなることが1番辛いもの。」
ひなたは後悔した。
自暴自棄になって、大切な親友を傷つけかけたことを。
「彩綾、ぐすっ、」
「ひなたは、藍沢くんのこと好きなんでしょ?たとえ目が見えなくなっても。あなたが藍沢くんの目になるんでしょ?」
「ぐすっ……ごめん、彩綾……ごめんね……」
「泣いてるヒマあるなら、藍沢くんにできること考えなさい」
「私に……できること……」
「そうね。あ、ひなた。今日は電話できないわ、ごめんね?」
「そ、そうなんだ。うん、わかった」
「でも、今の電話って便利よね。相手が声出せなくても、チャットで返事できるし。声だけでも届けたい人がいるなら、ぴったりの機能よね?」
——それは、彩綾からの優しいヒントだった。
「チャット、声だけ、入院中、話せない……あっ!」
ひなたははっとして、
「ぐすっ……彩綾ぁ……!」
抱きつこうとするひなたを、スルリとかわす。
「鼻水つくから、やだ」
「なんでよ〜っ!」
ひなたの叫びは、夕暮れの空に響いた。
⸻
帰宅したひなたの前に、蓮の両親が帰ってきた。
「あら、ひなたちゃん? こんばんは……って、その怪我、どうしたの?」
「こ、こんばんは! い、いえ、お気になさらず!」
「そうなの? 気をつけてね?」
「その……蓮くん、どうでしたか……?」
少し迷って、でも我慢できずに聞いてしまう。
「ありがとう。気にかけてくれて。励ましてあげてね? 蓮も、きっと、ひなたちゃんにそうしてもらいたいと思うから」
「は、はい!」
⸻
家に戻ったひなたは、スマホを開く。
朝に送ったメッセージは、まだ既読がついていない。
「もー、早く見なさいよっ! 心配なんだから!」
夕飯も、お風呂も、何も手につかない。
スマホだけを握りしめて、
ひなたは、ずっと——
大好きな人からの返信を、
待ち続けていた。
⸻
病院の夜は意外とさわがしい。
外は救急車のサイレンがなりやまない。
(こんな時間に運ばれてくる人もいるんだ。)
蓮はベッドの頭上にぶらさがっているナースコールのボタンを見上げた。
(押すことはないだろうな……)
何かあったらおせといわれているものの、
(看護師さんたちに迷惑はかけたくない。)
蓮は布団をかぶり、眠る準備をする。
消灯の時間が近づくと、病棟は一気に静まり返った。
聞こえるのは、同室の誰かが布団を直す音や、かすかな寝息。
そんな静けさの中、廊下から軽い足音が近づいてきた。
カーテンのすき間から、ひょこっと金森さんが顔をのぞかせる。
「やっほー。寝れそう?」
「わかんないです……」
蓮は小さく首を振った。
「あはは、だよね。目を閉じてるだけでも、ちょっと楽になるからね。」
「……ありがとうございます。」
「うん。じゃあ、ゆっくり休んでね。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
他人に「おやすみ」と言われるのが、なんだか不思議だった。
見知らぬ他人が、こうして気にかけてくれることが、少し嬉しい。
でも——
消灯後、目を閉じてみても、眠れるはずもなかった。
知らないベッド、知らない枕、隣から聞こえる知らない寝息。
そして明日に控えた手術への不安。
寝返りを何度もうち、目をつむっても心は落ち着かない。
(トイレにでも行こうかな。少し歩けば、気がまぎれるかも)
蓮はそっとベッドを抜け出し、暗い病室を出る。
廊下にはナースステーションの明かりと非常灯だけがぽつんと灯っていた。
(ゆっくり歩けば平気だよな。)
壁に手を添えながら、静かな廊下をゆっくり歩いていく。
(よし、この角を曲がれば——)
「うわっ……!」
つまずいて、蓮は思わず床に手をついた。
その音に気づいたのか、ナースステーションから人影が飛び出してくる。
「あ、藍沢くん!?」
金森さんだった。慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
「は、はい……ちょっとつまずいちゃって……」
「よかった。念のため、血圧測らせてもらっていい?立ちくらみとかあると怖いからさ。転倒は要チェック項目なのよ〜」
「……す、すみません」
蓮は金森さんに支えられ、近くの椅子に座る。
本当に迷惑をかけてしまった——と、胸の奥がチクリと痛んだ。
しばらくして、金森さんが血圧計を持って戻ってきた。
手慣れた様子で蓮の腕にカフを巻きながら、彼女はやさしく笑った。
「謝んないの。言ったでしょ?あたしも藍沢くんくらいの頃、入院してたって。気持ち、すっごくわかるよ」
「……え?」
「自分のことでてをわずらわせたくない。とか思ってるでしょ?」
図星だった。蓮は視線を落とす。
「わかるな〜その気持ち。でもね、患者さんが転んじゃうと、私たち看護師が“事故報告書”ってのを書かなきゃでさ。そっちのほうが面倒くさいから、むしろ転ばないで〜って思ってる」
「ご、ごめんなさい!」
「もう、冗談だってば!はい、血圧正常。バッチリだね」
そう言いながら金森さんは笑ってカフを外した。
「とにかくさ、看護師は頼られるのが仕事なんだから。遠慮しないで、ナースコールでも何でも使って。あたしたちは、困ってる人を助けるためにいるんだから」
「……はい。ありがとうございます」
「トイレ行くんだった?つれてくね」
蓮は、金森さんに付き添われてトイレに行き、そのまま病室に戻ることができた。
「なんかあったら、ほんとすぐ呼んでね?じゃあね」
ベッドに腰を下ろす蓮に小声でそう言って、金森さんはカーテンの向こうへ去っていった。
金森さんの優しい言葉が耳に残っていた。
⸻
ふと、枕元のスマホを手に取る。
今日は入院してから一度も見ていなかった。
通知がいくつも来ていて、その中には両親からの心配そうなメッセージがあった。
「大丈夫だよ」と返すと、その次の通知が目に留まった。
——ひなたから。
朝に送られてきていたらしい。
「病院ついた? 辛かったらいつでもメッセージ送ってね?」
未読のままだった。胸がちくっと痛む。
「ありがとう」と打ち込むと、すぐに既読がついた。
(はやっ...
「今、電話しない?」
「無理だよ」と返すと、すぐに返事が来る。
「あんたはチャットでいいから!かけるね!」
(……ほんと、強引なんだから)
イヤホンから着信音が鳴る。蓮はため息をつきながらも応答した。
「もしもし? 蓮? 聞こえる?」
——「聞こえる」とメッセージで返す。
「よかった〜!なんか配信者さんみたいだね!」
蓮は、くすっと笑った。
「あんたが1人で寂しくて泣いてるんじゃないかと思ってさ!」
図星だったので、ちょっとだけムッとした。
「そっちはどう?寝れそう?こっちはねー……」
ひなたは学校であったことを話してくれた。
クラスメイトが蓮の欠席に違和感を感じ出していること。
なにやらひなたと美上でたくらんでいること。
なぜかひなたが大怪我をしたということ。
その全てが、ひなたの声が、心のすきまをうめてくれた。
「早く帰ってきてね。蓮」
「うん」と返す。
しばらく沈黙が続いた。スマホの向こうのひなたが、何かを堪えているような気配がする。
「……ごめん、私からかけたくせにさ……ごめん」
声が、震えていた。
「やっぱ、あんたがいないと楽しくない……何してても、あんたの顔ばっか思い出しちゃう……」
蓮の胸の奥に、熱いものが込み上げる。
ひなたが、こんなにも自分を想ってくれている。
「会いたい……会いたいよ、蓮……」
蓮は涙をぬぐいながら、スマホにこう打ち込んだ。
——「バカだな」
「ぐすっ……なによ。バカって言わないでよ……」
——「ありがとう。手術、頑張るよ。元気出た」
「......!!?」
「え、えへへ、よかった。大丈夫だよ。あんたは1人じゃないから」
ひなたが照れているのが電話越しでもわかる。
その言葉に、蓮の心にそっと陽が射した。
孤独に震えていた胸の奥が、あたたかく満たされていく。
2人はそのまま、真夜中まで静かに会話を続けた——
つながっていることが、ただ嬉しくて。
日常から切り離されたと思い込んでいた蓮
しかし、日常はすぐ近くに存在していた。
明日は手術。
それでも、頑張れそうな気がしていた。