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ブラインド☆ラブ  作者: 秋山リョウ
第1話「奪われた未来」
4/7

第3章「絶望と支え」

 夕暮れの病院は静まり返っていた。

患者の数はまばらで、看護師や職員たちは一日の終わりの準備を始めている。


その静寂の中、診察室の空気が凍りついた。


「――大変申し上げにくいのですが、失明寸前です」


医師の声は静かだったが、その一言は雷鳴のように蓮の胸を打ち抜いた。


「……え」


声にならない声が、唇から漏れる。

頭の中が真っ白になった。現実なのか、夢なのかもわからない。

――いや、夢であってほしいと、心から思った。


「せ、先生……どういうことですか? 蓮が……失明寸前だなんて……」


隣にいた母が、青ざめた声で医師に問いかけた。


「“緑内障”という病気をご存知でしょうか? 蓮くんは、それを発症しています」


「え……? でも……緑内障って、大人の病気じゃ……?」


「はい、一般的には40代以降の発症が多く、40代の20人に1人と言われています。

ですが、ごくまれに、10代やそれ以下で発症する“若年性緑内障”というケースもあります」


「……原因は?」


「まだはっきりとはわかっていません。遺伝が要因とされることもありますが、完全に解明されているわけではないんです」


母の顔色が、さらに青くなる。


「じゃあ……これから、この子は、どうしたら……」


医師は、眼球の模型を手に取りながら説明を始めた。


「緑内障は、目の中を循環する“房水”という液体の流れが悪くなり、

その結果“眼圧”が上昇します。

眼圧が高い状態が続くと、視神経が徐々にダメージを受け、最終的に視力を失います」


「正常な眼圧は10〜20ですが……蓮くんの眼圧は、50です」


「ご、50……!?」


母が悲鳴のような声をあげた。

だが、蓮は反応しなかった。

彼は、失明寸前の宣告からずっとうつむいたままだった。


そんな蓮に、医師がやさしい口調で声をかける。


「蓮くん……最近、人の顔がぼやけたり、文字が見えづらくなったりしてなかった?」


蓮は、わずかに頷いた。


「……緑内障は“気づいたときには末期”の病気です。

蓮くんのように視野の欠損が進んでからでないと、自覚症状が出にくい。

それに50も眼圧があれば、頭痛や吐き気を伴うことも多いですが……

若い人は症状を感じにくいこともあります」


「……治るんですか……?」


母の声が、今にも泣きそうだった。


「――残念ながら、現在の医療では“完治”はできません。

治療の目的は、進行を止めるか、遅らせること。

本来なら目薬でのコントロールが第一選択ですが、蓮くんの場合、すでにかなり進行しています。

外科的手術が、必要でしょう」


「しゅ、手術……ですか……」


「はい。ただ……この病院では対応できません。

明日にでも、設備と専門医の整った大学病院で精密検査と手術の相談をしてください。

時間がありません。――急いだ方がいいです」


「……わかりました……」


母の声は、疲れ果てていた。

けれど、その目はしっかりと前を見据えていた。


「紹介状を用意します。それと、少しでも眼圧を下げるために点眼薬と内服薬を出しておきます。

内服薬は強いので、半錠ずつ服用してくださいね」



診察室を出て、2人は無言のまま待合室に並んで座った。

カウンターから呼ばれるまでの時間が、異様に長く感じられた。


蓮は、うつむいたまま一言も発さない。


「失明」

その言葉が、頭から離れなかった。


これまで見えていたもの。

教室の風景。

グラウンドで跳ねるボール。

クラスメイトの笑顔――

そして、ひなたの笑顔。


すべてが、遠ざかっていくようだった。


まるで、世界から切り離されていくような感覚だった。



会計を終え、蓮は母の運転する車で帰路についていた。

街灯がポツポツと灯り始めた夜の道を、車はゆっくりと走っていく。


蓮は後部座席の運転席の真後ろに座っていた。

今の自分の顔を母に見せたくなかった。


車内には、長い沈黙が流れる。


やがて、母がぽつりと口を開いた。


「……大変なことになっちゃったね。でも、なんか……お腹、空いたね。何か買って帰ろっか」


その声は、わずかに震えていた。

母は、泣きたいのを必死にこらえ、明るくふるまおうとしていた。


その優しさに、蓮の心の中で張りつめていたものが、ふいに切れた。


「……っ、う、うぁ……あああっ……!」


抑えていた感情があふれ、声をあげて泣き出す。

病院では泣けなかった。診察室でも、待合室でも。

でも今は、母しかいない。安心と絶望が重なり、涙が止まらなかった。


後部座席で肩を震わせながら泣く息子の姿に、母もまた堪えきれず、静かに泣き始めた。


「ごめん……ごめんね、蓮……私がもっと早く気づいてあげればよかった……」


蓮は肩を振るわせ泣くことしかできなかった。


「優しくて、真面目で、一生懸命な蓮が……どうして、こんな目に……」


母と息子の涙が混じりあいながら、車はゆっくりと夜の道を進んでいった。



一方そのころ――

蓮が悲しい宣告を受けていたそのとき、ひなたはバスケ部の練習を終えて、体育館の片づけをしていた。


「……蓮……」


モップを持つ手が止まる。

今日一日、ずっと蓮のことが気にかかっていた。

特に、6時間目の国語。あの朗読の時の違和感が、胸の奥で引っかかっていた。


「ひなた?」


モップを持ったまま立ち尽くすひなたに、チームメイトが声をかける。


「はっ!? な、なに!?」


「どうしたの? なんか変だったよ。今日、ミス多かったし。大丈夫?顔面にボールぶつかってたし……」


「え、あはは!だ、だいじょーぶ!全然平気!」


ひなたは笑ってごまかしたが、その笑顔はどこかぎこちない。

いつもなら部室でガールズトークを楽しむ時間、彼女は誰よりも早く体育館を飛び出していた。


――走らなきゃ。


ひなたは制服のまま、全力で自転車置き場をすり抜け、街を駆けた。

胸がざわついて仕方なかった。

何かが、間違いなく起きている。そんな予感がしてならなかった。


「はぁっ……はぁっ……!」


蓮の家が見える角を曲がる。

夕暮れの空はすっかり群青に染まり、星が瞬き始めていた。


でも、蓮の家には――


「……電気、ついてない……」


暗いままの窓。静まり返った玄関。


いつもは必ず灯っている明かりが、今日はどこにもなかった。


「蓮……! そうだ、彩綾!」


あわてて家に駆け戻ると、階段を一気にかけ上がり、自室のスマホを手に取る。

すぐに連絡帳を開き、彩綾に電話をかけた。


数コールののち、落ち着いた声が返ってくる。


「どうしたの?」


「彩綾! 私が部活行ったあと、蓮がどうしたか知ってる!?」


「知ってるわよ。ひなたが心配してたから、ずっと彼のあとをつけてたの。ちゃんと家まで帰れてたわ」


彩綾は、蓮を介助して帰宅させたことも、病院に行くよう勧めたことも、ひなたには告げなかった。


「で、でも、誰もいないの……! 家、真っ暗で……!」


「……家族で外食でも行ってるんじゃない? とにかく、藍沢くんは無事だったから。心配しすぎないで」


「……そう、なのかな……。わかった。また連絡するね」


通話を切ったひなたは、再び蓮の家の窓を見つめた。


窓は暗いままだ。

でも、胸のざわめきは、まったく消えなかった。


(蓮……なにが起きてるの……?)

スマホを手に取り、ひなたはメッセージを打とうとする。

何度も何度も、言葉を打っては消し、打っては消し。


やっとの思いで送ったのは、たった一文。


「何か辛いことがあったら言ってね。」


それしか、思いつかなかった。



蓮の家の夜


蓮の家に灯りが点いたのは、午後8時すぎ。

仕事を終えた父が帰宅し、蓮と母とちょうど玄関先で鉢合わせた。


けれど、家の中はなぜか冷たく、静まり返っていた。

リビングのソファに腰を沈める蓮の姿を見て、父は母に目を向ける。


「……病院は、どうだったんだ?」


母は深く息を吐き、少し間を置いてから答えた。


「……緑内障の末期。もう、失明寸前なんですって……」


「なっ…なんだって?」


父の顔から血の気が引く。


「明日、大学病院に行かなきゃ。紹介状ももらってあるわ。……仕事、休めるか聞いてみる」


母の言葉に、父はすぐに首を振る。


「母さん、無理はしなくていい。僕がつれていくよ」


「でも、あなた仕事があるでしょ。私は大丈夫。慣れてるし……」


「いや、僕も休む。蓮のことが第一だ」


両親のやりとりを、蓮は目を伏せながら聞いていた。

自分のせいで迷惑をかけている。苦しませている。そう思うと、いたたまれなかった。


――ごめん……全部、俺のせいだ……


そんな声は、口に出せなかった。


「……じゃあ、私も休むわ。あなたと一緒に行く」


「ああ、そうしよう。」


父が蓮のそばに歩み寄り、そっとその肩を抱いた。


「辛かったな。……よく頑張った。大丈夫、父さんがついてる」


蓮の目から再び涙があふれる。


「……お父さんだけじゃないわよ」


母も優しく蓮を抱きしめる。


その温もりの中で、蓮はぽろぽろと涙をこぼしながら、ただ身を預けた。

生まれたての子どものように――


「さあ、夕食にしましょうか」


一時の安らぎが、蓮の家庭に戻ってきた。


けれど、苦難はまだ続いていく――





もうとっくに寝る時間を過ぎていたが、蓮は布団の中で目を開けたまま、じっと天井を見つめていた。

眼圧を下げる薬の副作用で、手が少し痺れている。


しばらく放置していたスマホを手に取り、画面を最大の文字サイズにし目に端末を近づけて、通知欄を見る。


そこには、ひなたからのメッセージ。


「何か辛いことがあったら言ってね」


優しさが、胸に痛かった。


迷わせたくなくて、心配もかけたくなくて――

蓮はただひと言、返信を打った。


「大丈夫。」


そう送信し、スマホを閉じた。


けれど、眠れなかった。

明日、大学病院で何を言われるのか。手術? 入院? その間、学校は?

考えれば考えるほど、頭が冴えていく。


ふと――誰かと話したくなった。


両親にはもうこれ以上、心配をかけたくない。

ひなたにも、迷惑はかけたくない。


その指先は、ゆっくりとスマホをスライドさせ――

止まったのは、「彩綾」の名前だった。



彩綾は、蓮の視界の不調に誰よりも早く気づき、病院に行くよう助言してくれた。

蓮の事情を唯一知る存在。

彼女には、生まれつき全盲の弟がいる。

そのせいか、彩綾と話すと――見えないことへの不安が、少しだけ和らぐ気がした。


電話越しに、いつもの落ち着いた声が返ってくる。


「めずらしいわね。あなたが私に電話をかけてくるなんて」


「悪いな、こんな時間に」


「構わないわ。ちょうどひなたと電話終わったとこ」


「ひなた、なんか言ってた?」


「……心配してるわよ。あなたのこと」


「そっか」


「私からは何も言ってないわ」


「ありがと」


少しの沈黙。


「……何か用があったんじゃないの?」


「いや……特には」


「そう。じゃあ私から聞いてもいい?」


「なに?」


「病院、どうだったの?」


蓮は言葉を選びながら、現実をかみしめるように口を開く。


「……緑内障で。もう失明寸前だってさ」


「……そう。辛いわね」


「なんかもう……なにがなんだかよくわかんないよ。明日、大学病院に行くって。手術になるかも、だってさ」


乾いた笑いが、虚空にこぼれた。


「……ごめんなさい。なんて声をかけたらいいかわからない」


「平気だよ」


また、短い沈黙。


彩綾が話題を変えるように、ふっと声を落とす。


「そうだ。藍沢くん、スマホの画面、見えづらくない?」


「……ああ、そういえば。確かに見えづらい……」


「音声読み上げ機能、設定しておくといいわよ。教えてあげる」


彼女の指示に従いながら、設定を終える。


「……ありがとう。助かったよ、美上」


「どういたしまして。何かできることがあったら手伝うわ。ひなたも、きっとそう言うと思う」


「……ひなたには、まだ言わないでくれ」


「……遅かれ早かれ分かることだと思うけど。分かったわ。あなたがそう言うなら黙っておく」


「ありがと。少し……気が晴れたよ」


「ふふ、それならよかった」


「じゃあ……また学校で。いや、戻れるか分かんないけど」


「ネガティブになりすぎないでね。」


「……うん。じゃあ、また」


通話を切る。

ほんの一瞬だけ、蓮の心に“いつも通り”が戻ってきた気がした。




そっとスマホを机に置いた彩綾。

彼女は成績優秀で、夜遅くまで参考書を広げて勉強している。

普段はコンタクトレンズだが、夜はメガネをかけている。

遺伝か、弟ほどではないが、彩綾も視力がかなり悪い。


「暁斗、眠れてるかしら」


部屋を出て、向かいの弟の部屋へ。

そっとドアを開けて、暁斗の寝顔を覗き見る。


「……よかった。眠れてる」


安心したように微笑み、自室へ戻る。

椅子に腰掛け、また勉強を再開しようとするが、手は止まったまま。


――この作業を、彩綾は毎晩のように繰り返している。

弟が気になって仕方ないのだ。

けれど、過保護すぎると煙たがられ、同じ部屋にすらいさせてもらえない。

そのことに、どこか寂しさを感じていた。


ふとペンを止め、ぽつりと呟く。


「……そう。藍沢くんも、見えなくなっちゃうのね」



回想:小学6年の休み時間


「え? ひなたが藍沢くんのことどう思ってるかって?」


「う、うん。ちょっと気になってさ……」


「そんなの、自分で聞いたら?」


「き、聞けないから言ってるんだよ! 頼むよ美上!一生のお願い!」


「……あ、ちょっと待って」


彩綾は引き出しからノートを取り出し、パラパラとページをめくりメモをする。


「藍沢くんの“一生のお願い”は、これで20回目ね」


「数えてたのかよ!?」


その時、廊下からひなたが元気よく現れる。


「彩綾ー! あ、蓮もいる! なに話してたのー?」


「えっ、いや……そのっ……!」


「藍沢くんがね。ひなたが“おれのこと好きなのか”って」


「「はっ!?」」


2人同時に真っ赤になってのけぞる。


「バ、バッカじゃないの!? そんなキモいこと彩綾に聞いてたの!?」


「キ、キモくないだろ!? し、しかもそんなこと聞いてねぇし! 誰がお前みたいなバカ相手にするか!」


「今バカって言った!? ちょっと待ちなさいよー!」


逃げる蓮をひなたが追いかけ、教室はざわつく。

「またやってるよ……」というクラスメイトたちの冷ややかな視線。

でも、彩綾だけは楽しそうに笑っていた。


「ふふっ。ほんと、面白い2人」


彩綾は、そんな2人が仲良くじゃれあう日常が――大好きだった。



再び、夜の静けさの中で


「……いけない。ぼーっとしてた」


再び勉強に戻ろうとするが、もう頭に入ってこない。

ふと机の端に目をやると、立てかけられた写真が目に入る。


彩綾、ひなた、暁斗、蓮――

4人で写った、笑顔のスナップ。


「……私にできること」


彩綾はスマホを手に取り、どこかへ電話をかけ始めた。


「もしもし、夜分にすみません。私の友人なんですが……視力を失うかもしれなくて。もしかしたら、支援をお願いすることになるかもしれません」


電話の向こうから、落ち着いた男性の声が返ってくる。

彩綾はしばらく言葉を交わし、最後に深く頭を下げた。


「はい。その時は、よろしくお願いします」


通話を終え、スマホをそっと閉じる。


朝を迎えた蓮は、よく眠れなかった。

まぶたは重く、頭はぼんやりしている。


起きてすぐ、スマホに届いていた通知に気づく。

ひなたからのメッセージだった。


「ほんとに大丈夫なの?」


昨夜、彩綾と電話したあと、スマホを握ったまま眠ってしまった。

そのため、ひなたのメッセージには既読すらついていない。


「……ひなたのやつ、怒ってるだろうな」


けれど、どうしても既読をつける気にはなれなかった。

返す言葉が、見つからなかったのだ。


朝の支度を終え、無言で朝食の席につく。

両親と食卓を囲むも、誰も言葉を発さない。

箸の音だけが、どこか冷たい食卓に響く。


そのまま父の車に乗り込み、大学病院へ向かった。

まだ学生たちが通学を始める前の時間帯だった。



朝の教室


教室では、彩綾が1人、読書をしていた。

静かなページをめくる音に混じって、元気のない声が聞こえる。


「……おはよ、彩綾」


「おはよう、ひなた。……ひどい顔ね」


「あはは……昨日、よく眠れなくて」


ひなたの顔はむくみ、目元は腫れていた。

かつて蓮に褒められたショートヘアも、今日は乱れている。


「……藍沢くんのこと?」


「うん。やっぱり、なんかおかしいよね」


「そうかしら」


「だって見てよ! 私のメッセージ、まだ既読にもなってないの!」


机をバンッと叩き、スマホの画面を彩綾に突き出す。

周囲のクラスメイトが「なに?なに?」と視線を向けてくるが、ひなたはまったく気にしていない。


「はあ……朝から元気ね。気になるなら、もう一度メッセージ送ったら?」


「そんなの……めんどくさい女だと思われちゃうじゃん……」


しゅんと肩を落とすひなたに、彩綾は冷静な口調で返す。


「ひなたはもう十分めんどくさいわよ」


「なっ、なによそれっ!」


「……藍沢くんだって、返事したくない時だってあるんじゃない?」


少しだけ表情を曇らせながら、彩綾は目線を本に戻す。


「……ついでに言うと、彩綾もおかしい」


じと目でにらむひなた。


「心外ね」


「……とにかく、蓮のやつが来たら、絶対問いただしてやるんだから!」


ひなたが気合いを入れたところで、チャイムが鳴った。

クラスメイトたちがぞろぞろと席につく。


「……あれ? 蓮は?」


ひなたが教室をキョロキョロと見回す。

そのタイミングで、担任が教壇に立ち、出席を取り始めた。


「藍沢くんは、風邪をひいたそうで、本日はお休みです」


「風邪? あの蓮が……?」


体力だけは自慢だった蓮。

風邪で休むなど、今まで一度もなかった。

ざわつくクラスメイトたち。

その中で、ただ一人、表情を変えず読書を続ける彩綾。


それを見たひなたは、頬をふくらませながらつぶやいた。


「……絶対なにか知ってる」


蓮の空いた机が、教室の中でひときわ目立っていた。


放課後、人気のない教室に、机を叩く音が響いていた。


「絶対なんか隠してるでしょ! 言いなさいよ!」


怒気を含んだ声でひなたが彩綾を問い詰めていた。


それでも彩綾は淡々と帰り支度を続ける。


「ひなたに言えないことの一つや二つ、あるわよ。それに……部活は?」


「部活なんか知らない!あんたが吐くまでここにいるから!」


「取調べじゃないんだから……」


ひなたは机をバンバンと叩きながら、彩綾の顔をじっと見つめた。


「わかるのよ。彩綾とは長い付き合いだもん。なんか隠してるって、大体察しはついてる。……蓮のことでしょ?」


「……そうかもね」


「やっぱり……!」


その時、教室のドアが開き、ひなたの部活仲間が顔を出した。


「ひなたー、そろそろ来ないと先生怒るよ?」


「今取り込み中!!あとで行くから!!」


にらみつけるひなたの目に、同級生はビクリと肩を震わせた。


「ご、ごゆっくりー……」


去っていく足音を聞きながら、ひなたは再び彩綾に向き直る。


「で!何を隠してるのか、早く言いなさいよ!」


「だから……言えないのよ」


「……ぐすっ、なによ。二人して、私を仲間外れにしてさ……」


「なんで泣いてるのよ」


「な、泣いてないしっ……!」


彩綾は静かに息をつき、目を伏せた。


「……ごめんね。藍沢くん」


そして、顔をあげてまっすぐひなたを見る。


「ひなた、部活に行きなさい。終わったら校門前に集合して、藍沢くんの家に行きましょう」


「え……? やっぱり蓮のこと……?」


「今はまだ何も聞かないで。私も久しぶりに弓道部に顔を出してくるわ。それじゃ、また後で」


教室に一人取り残されたひなたの胸には、蓮と彩綾の「秘密」を知れる嬉しさと、その正体が怖いという不安が同時に渦巻いていた。




夕暮れ、校門前。


ひなたは掃除もろくにせず、全力で部室を飛び出してきた。


「はぁ、はぁ、お、お待たせっ!」


「……ずいぶん急いだのね」


彩綾は既に校門前で待っていた。


「ま、まぁね!」


「スカートの端、めくれてるわよ」


「はっ!? もっと早く言いなさいよ、バカ!」


顔を真っ赤にして慌ててスカートを直すひなた。


彩綾はくすりと笑い、「さ、行きましょう」と一言。


二人は並んで歩き、蓮の家のインターホンを押した。


「はーい」


中から聞こえたのは、蓮の母の声だった。


「こんばんは。美上です。ひなたもいます」


「まあ、彩綾ちゃんにひなたちゃん? 待っててね」


ドアが開き、二人は家に招き入れられた。





リビングには、蓮が座っていた。

彼の顔色は悪く、覇気のない様子だった。


「れ、蓮……」


ひなたは思わず声をかける。


二人も彼の向かいのソファに腰かけた。


「……なにしに来たんだよ」


蓮は視線を合わせようともしない。


「ごめんね、藍沢くん。これ以上、ひなたには隠しておけないと思って……」


その時、母親が口を開いた。


「ありがとうね、二人とも心配してくれて。実はね――」


静かな声で語られる、真実。


「蓮はね、失明寸前なの。明日、大学病院に入院して、手術を受けることが決まったの」


「え……」


驚愕のあまり、言葉を失うひなた。


「……手術しても、完全には見えるようにはならないかもしれないの。退院しても、日常生活がどうなるかわからないのよ」


「だから……幼なじみの二人には、ちゃんと話そうと思ってたの」


「私たちにできることがあれば、手伝います」


彩綾が真剣な眼差しで言う。

だが、ひなたは動けないまま、凍りついていた。


「……あ、ごめんなさい。電話だわ」


母親が席を外し、リビングに3人だけが残される。


「ひなた? 大丈夫?」


彩綾が声をかける。


「う、うそ……うそだよね? 蓮?」


「……嘘つく理由がないだろ」


うつむいたままの蓮。


「そ、そうだ! 蓮? 私、また髪切ったの。……似合ってる?」


蓮は顔をあげるが――。


「……見えないよ」


静かな声が、ひなたの胸を突き刺した。


「……うそよ。うそようそようそよ!!」


ひなたは立ち上がり、蓮の目の前まで詰め寄る。


「これなら見えるでしょ!? ほら! ちゃんと見なさいよ!!」


「ちょ、ひなた! やめなさい!」


彩綾が慌てて彼女を引きはがそうとするが、ひなたは必死だった。


「...っ。」


蓮は唇を噛む


「見えないとか嘘でしょ!?いい加減にしないとっ・・・」


「見えないって言ってるだろ!!」


蓮が、ついに怒鳴ってひなたを振り払う。


「っ……蓮……?」


「もう……放っておいてくれよ……」


震える声で、ぽつりとそう言った。


ひなたの瞳に、涙があふれる。


「なによ……もう知らない!!」


彼女は泣きながら玄関に駆けていった。


「おじゃましました!!」


大きく扉を閉めて出ていく音が、静かな家に響いた。


「……だから言っただろ、美上。ひなたには言わないでくれって」


「ごめんなさい……まだ、早かったわね。…でも、ひなたの気持ちも...いや、なんでもないわ。私も失礼するわね。」


蓮の母が戻ってくる。


「ひなたちゃん、出て行っちゃったけど……大丈夫?」


「……はい。すみません、騒がせてしまって……」


蓮の耳には、ひなたの叫びがいつまでも、こびりついて離れなかった。



ひなたは帰宅してから、ずっと部屋にこもっていた。

制服のままベッドに倒れ込み、食事にも手をつけず、ただ天井を見つめていた。


何も考えられなかった。

何も動けなかった。


部屋の中は真っ暗で、ただスマホの光だけが、ひなたの顔をかすかに照らしていた。


画面に映るのは、彩綾の名前。

指が勝手に通話を繋いでいた。日課の電話。それだけが今夜の、世界との唯一の接点だった。


「……落ち着いた?」


スピーカーから聞こえる彩綾の声を聞いた瞬間、

ひなたの中で何かがぷつんと切れた。


「ぐすっ……ひっぐ……うわあぁぁぁああん!!」


胸にたまっていた悲しみが一気に溢れ出し、

ひなたはスマホを握りしめたまま、子どものように泣き続けた。


「ひっぐ、えっぐ……お、おえっ……げほっ、ごほっ……」


「……もう10分泣き続けてるわよ?」


「だ、だって……目が、目がぁ……!」


「私は何も唱えてないわよ?」


「冗談言わないでよ……バカぁ……!」


しゃくり上げながら、ひなたがようやく声を返す。


彩綾が少し笑ってくれたことに、ほんの少しだけ、救われた。


「……ごめんね。私が連れてったからね」


「ちがうよ、彩綾のせいじゃない。私のせい……。こうなるって、わかってたんだよ。だから、私には秘密だったんだ……」


「……それだけじゃないと思うわよ」


「え?」


「藍沢くんはね。きっと、ひなたを悲しませたくなかったんだと思う。心配をかけたくなかった」


「……だとしたら、私、ひどいこと言っちゃった」


「お互い冷静じゃなかったし、仕方ないわよ。まあ……あなたがやりすぎた部分はあるかもね」


「……ぐすっ。彩綾はどうするの? 蓮のこと」


「さっきも言った通りよ。私にできることはするつもり」


「……すごいね、彩綾は」


「ひなたは?」


しばらく沈黙が落ちたあと、ひなたは小さな声で口を開いた。


「……私って最低かもしれないけど……蓮の目が見えないなんて、やだ。

 髪切ったの気づいてもらえなかったとき、すごくショックだった。

 これからどんなメイクしても、おしゃれしても……もう、蓮にほめてもらえないんだって思うと、すごく……さみしい」


その言葉に、彩綾は黙って耳を傾けた。


「でも……」


ひなたの声に、少しだけ強さが宿る。


「蓮が……私のそばからいなくなるのは、もっとやだ」


「だから、蓮が一人で苦しんでるなら、つらいなら……私がそばで支えたい。

 私が……蓮の目になる」


電話の向こうで、彩綾が小さく笑った。


「ふふっ。ずいぶん立ち直りが早いわね」


「えへへ……私、バカだからさ。ポジティブだけが取り柄!」


その声は、ほんの数時間前、泣きじゃくっていた少女のものとは思えないほど、明るくなっていた。


やがて部屋に明かりが灯る。

ひなたは起き上がり、涙でくしゃくしゃになった枕に苦笑いしながら、タオルで顔をぬぐった。


「……じゃあ、また学校で」


そう言って、通話が切れる。


深い息を吐き、ひなたはふと、ベッドの隅にあるシーツのほつれに気づく。

その糸に指を触れながら、棚の奥から裁縫箱を取り出した。


開いた箱の中にあった布の切れ端を見た瞬間、

彼女の瞳に、また別の光が灯る。


「……よし」


夜中にもかかわらず、ひなたは小さな裁縫ばさみを手に、ちくちくと針を動かし始めた。


――それは、誰かのために初めて、自分の手で形にするものだった。


朝の空気はひんやりとしていて、少しだけ湿っていた。

蓮と家族は玄関先で入院の支度を整えていた。


「次、ここに帰ってこられるのは……いつなんだろうな」


蓮がぽつりと、静かに家を見上げながらつぶやく。


「すぐ帰ってこられるさ。入院も一、二週間って先生が言ってたろ? 少しの我慢だ」


父が笑って励ます。

母もそっと蓮の背中に手を添えて、うなずいた。


「……うん。そうだね」


蓮が玄関の階段を一段降り、車へ向かおうとしたそのときだった。


「――蓮!!」


振り返ると、声の主はひなた。

制服姿のまま、息を切らせて駆け寄ってくる。


「ひなた……?」


蓮が目を細めると、ひなたは彼の手を無理やり握らせた。

その手の中には、ほんのり温かい何かがあった。


「これ!あげる!」


「な、なんだよ、いきなり……」


「お守り! 徹夜で作ったの!」


「……手作り?」


「そうよ!あんたのために作ったんだからっ。

 その……病気なんかに負けるんじゃないわよ!!」


いつものように強気な口調。でも、声が少し震えていた。

蓮はそっと、握らされたお守りを見つめた。

小さな布袋に、拙い針目で「ガンバレ」と縫われているが、蓮には見えない。


「ひなた……うん、ありがとう」


お互い昨日のいざこざの話はしなかった。

蓮が微笑むと、ひなたはそっぽを向いたまま、鼻をすすった。


初夏の風が、ふたりのあいだをそっと吹き抜けていく。

葉の揺れる音が、小さく鳴った。


蓮は車に乗り込み、ドアが閉まる。

エンジン音とともに車が動き出すと、ひなたは道路の端に立ち、ずっとその後ろ姿を見送った。


蓮が、大好きな人が、どうか無事で戻ってきますように――

そんな祈りを、ぎゅっと胸の奥で握りしめながら。


そして車の中では、蓮が静かにお守りを手に取り、目を細める。


――ひなたの姿は、もう見えない。でも。

手の中のこの小さな想いだけは、ちゃんと見える気がした。


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