第1章「期待と不安」
今日は高校の入学式。
普通の高校生なら、爽やかな朝日を浴びて、晴れやかな気持ちでこの日を迎えるのだろう。
だが、藍沢 蓮にとっては、そうではなかった。
彼は全盲だ。
この日が晴れているのか、曇っているのかすら、もう知ることはできない。
タンスには触れてわかるように、点字シールが貼られている。
その中から服を取り出し、ハンガーにかけてあった学生服を身にまとった。
「……似合ってんのかな。」
鏡に映る自分の姿は見えない。
というか、この部屋に鏡なんてあったかどうかすら、もう覚えていない。
考え込んでいると、1階から母の声が聞こえた。
「蓮ー!ひなたちゃんが迎えに来てくれたわよー!」
「……はあ、来なくていいって言ったのに。」
「はーい、今行くー。」
ベッド、机、タンスだけの無機質な部屋。
見えなくなってからは、余計な物など必要なくなった。
蓮は壁づたいに歩き、慎重に部屋を出る。
階段も、すり足でゆっくりと降りていく。
下からは、母とひなたの話し声が聞こえていた。
目を失って以来、聴覚と嗅覚、触覚が鋭くなったのを実感している。
「おはよ!蓮!」
いつもの明るく元気な声だ。
「……うん。おはよ。」
「ちょっと! なんでそんなそっけないの!?」
「別に。来なくていいって言ったじゃん。」
「は!? なにそれ!」
母がすかさずたしなめる。
「蓮? ひなたちゃん、心配して来てくれたのよ? 私たちはあとから入学式に行くから、ひなたちゃん、お願いね?」
「はいっ!任せてください!」
「……はあ。いってきます。」
靴を履こうとすると、ひなたが慌てて口を開く。
「えっとね、こっちが右ね! 左から履いたほうがいい?」
「わかってるから、いいよ。」
手で左右を確かめながら、靴を履く。
「せっかく教えてあげたのに!」
「……そこにいると邪魔。いってきます。」
蓮はひなたを避けるように、玄関のドアを開ける。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
母が苦笑いしながら声をかける。
「ごめんね、ひなたちゃん。お願いね?」
「は、はい! いってきます!」
⸻
春の穏やかな風が吹き抜ける。
2人は並んで玄関を出た。
「肩に掴まる? 腕がいい? 蓮のほうが背高いし、肩が歩きやすいかな?」
「いいよ。一人で歩けるから。」
蓮は折りたたまれた白杖を取り出し、器用に地面を探るようにして歩き始めた。
「ちょ、ちょっと! 危ないったら! もう、頼ってよ!」
ひなたはあわてて車道側に並び、蓮と歩く。
「楽しみだよね!高校生活! 同じクラスになれるといいな!」
「……うん。」
「ぶ、部活とか決めた? 私はやっぱ、またバスケ部かな〜!」
「ふーん。」
そっけない返事に、ひなたはむっとする。
「あのさ、もっと楽しく喋りながら歩こうよ、ん?」
「そっち、危ない。」
蓮が急に立ち止まる。
「え?」
「そっち歩くと危ないから。無理に横を歩かなくていい。
それに……杖の感覚に集中できないから、話しかけないで。」
真剣な声に、ひなたはしゅんと肩を落とす。
「……うん、わかった。」
蓮の少し後ろを、静かに歩くひなた。2人の間に会話はなかった。
そんな時、横断歩道の前で本を読んでいる少女に、ひなたは気づいた。
「あ、彩綾!」
少女が顔を上げる。
「おはよう、ひなた。それに、藍沢くん。」
「……この声は、美上?」
「当たり。声で判別できるようになったのね。見えない生活にも慣れたってことかしら?」
「……慣れたくなんかないよ。」
蓮の不機嫌そうな声に、ひなたは下を向く。
そんな様子を見て、彩綾は軽くため息をついた。
信号の音が鳴り、人々が横断歩道を渡り始める。
「……っ、ごめんなさい!」
蓮は杖を使っていても、誰かにぶつかってしまった。
「ちっ……。」
男は舌打ちし、そのまま立ち去っていく。
「……ごめんなさい。」
蓮は申し訳なさそうに、悔しそうに頭を下げた。
「蓮!? ちょっとあんた!!」
怒りで前に出ようとしたひなたを、彩綾が制する。
「藍沢くん。横断歩道、渡るまで介助してあげる。」
「……いや、大丈夫だよ。」
「嫌な思いしたくないでしょ? 渡りきるまでだから。」
彩綾は蓮の杖を持っていない方の手を取り、自分の二の腕にそっと添えさせた。
半歩先を歩きながら、自然なペースで誘導する。
「歩くの、早くない?」
彩綾が優しくたずねる。
「……え、あ、うん。」
「そう。よかった。」
蓮は、彩綾の二の腕の柔らかさに少し照れながらも、理性を保つようにそっと手を添えた。
その様子を見ていたひなたは、小さくつぶやく。
「私だと、あんなに嫌がるのに……彩綾なら、いいんだ……」
落ち込んだその瞬間、
「あっ、やばっ!赤信号!」
慌てて、ひなたは駆け足で横断歩道を渡った。
横断歩道を渡りきると、彩綾はぴたりと立ち止まり、そっと蓮の手を離した。
「渡りきったわ。ここまでね。このまま真っ直ぐ進めば、安全よ。」
「……あ、ああ。」
「私とひなたは、後ろからついていくわ。でも、命の危険がないかぎり、基本は介入しない。それでいい?」
「うん。助かる。」
蓮は軽く頷き、再び歩き出した。
少し離れて歩きながら、ひなたがぽつりと呟く。
「……やっぱり、彩綾はすごいね。」
その声は、どこか落ち込んでいた。
「また怒られたの?」
「え、あ、うん……」
しゅんとするひなたを見て、彩綾は静かにため息をついた。
「前にも言ったでしょ? ひなたは支えようとしすぎなの。」
「うっ……でも、だって、蓮は辛いんだよ……! 急に、目が見えなくなって……!」
2人は一定の距離を保ちながら、蓮の後ろを静かについていく。
「気持ちはわかるわ。でもね、ありがた迷惑ってこともあるのよ。」
「彩綾はさ、全盲の弟がいるから冷静でいられるんだよ……。でも私は、蓮が心配なんだよ……」
そのとき、蓮がふと立ち止まった。
「どうしたの!?」
慌てて駆け寄るひなた。
「このあたりに、自販機があったはずなんだけど……」
「喉、乾いたの? 私が買ってこようか?」
「いや。そうじゃなくて……」
「え?」
そこへ、彩綾が冷静な声で口を挟む。
「自販機なら、30メートル先よ。だいぶ手前で止まっちゃったわね。」
「迷ったってこと?」
「ええ。自販機が目印だったんでしょ? 藍沢くん。」
「……うん。杖で自販機を触れば、そこが曲がり角だって分かるから。」
「ねぇ蓮、やっぱり私が学校まで介助するよ。」
「……一人で平気だから。」
「全然平気じゃないじゃん! 私たちがいなかったら、ここで迷ってたじゃん!? さっきだって、人にぶつかってたのに!」
「……」
ひなたの言葉に、蓮は何も返せなかった。
「もし事故にでもあったらどうするの? 私が毎日、学校まで連れてくから……無理しないでよ。」
「……いらない。お前の迷惑になる。」
「迷惑なんかじゃないよ……! ねえ、なんでわかってくれないの……」
ひなたの声が震え、涙がこぼれそうになる。
「……泣いてる?」
「っ!! な、泣いてないっ!!」
目をこすりながら、顔を背けた。
彩綾が静かに口を開く。
「藍沢くん。迷惑をかけたくない気持ちは、よくわかる。できるなら、全部自分でやりたいって思うわよね。でもね……今のあなたを見てると、正直、歩くのが危なっかしい。」
「……」
蓮は唇を噛み締めた。
「頼りたくないなら、その分努力しなさい。たとえば休みの日、歩行訓練をするとか。ちゃんと安全に歩けるようになれば、私たちも納得できるわ。」
「……いいな。見える人は。」
「蓮?」
「……なんでもない。」
これ以上言ったら、もっと空気が悪くなる。そう察して、蓮は黙った。
ため息をついた彩綾が、蓮の前に立ちふさがる。
「普通の学校生活がしたいって言って、盲学校じゃなくて一般の高校を選んだんでしょ? 私たちは昔からの知り合いだから助けてるけど……その態度じゃ、周りの人は誰も助けてくれないわよ。」
「……なんだよ。じゃあ、土下座でもして頼めってのかよ。」
抑えていた言葉が、つい口をついて出た。
「ちょっと、蓮!? そんな言い方ないでしょ!」
「どうせ俺のこと、可哀想なやつとしか見てないんだろ。……偽善者。」
その言葉に、ひなたの表情が凍りつく。
目が見えないことへの劣等感。
人に頼らなければならない自分への苛立ち。
蓮はそれを、彩綾とひなたにぶつけてしまった。
「……なによ、それ!」
「もういいわ。ひなた、行きましょ。藍沢くん、そんなに1人でやりたいなら、好きにすればいい。」
「ちょ、彩綾っ!?」
彩綾に手を引かれ、ひなたはその場を離れていく。
蓮は取り残された。しばらくその場に
立ち尽くしていた。
「……これでいいんだよな。誰にも迷惑かけたくないし……」
蓮はそう呟き、白杖をついてまた歩き出す。
けれど、その背後――。
彼より先に行ったはずの2人が、実は少し遠くから後ろをついていた。
彩綾が路地を一周して戻っていたのだ。
「ねぇ、彩綾……やっぱり、介助したほうがよくない?」
「また突き放されるだけよ。ひなたって、もしかしてドM?」
「ち、ちがうよ! ただ……心配なんだってば。」
「きっと彼には、障害を受け入れるための時間が必要なのよ。」
「私たちには、見守ることしかできないのかな……」
「そうね。これは藍沢くん自身の問題だもの。見える私たちが何を言っても、今の彼には届かないかもしれない。」
「……蓮。」
ひなたは黙って、蓮の背中を見つめていた。
2人を突き放し、蓮は罪悪感を胸に抱えたまま、杖を頼りに歩き続けていた。
自分で決めたことだ。誰にも頼らない。
……そのはずだった。
けれど、道はすぐに不確かになった。
(ここ、どこだ……?)
分かれ道がわからない。壁に触れても、どこが曲がり角なのか判断がつかない。
背後から聞こえる靴音に、蓮は勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あの、すみません……」
けれど、返事はなかった。足音はそのまま通り過ぎる。
「あ……」
朝の街。通勤や通学で誰もが急いでいる。
こんな時間に足を止めてくれる人なんて、いないのだろう。
蓮の中で、劣等感が膨らんでいく。
助けてくれようとした2人を、自分は突き放した。
その後悔が胸を刺す。けれど、プライドがそれを認めたがらなかった。
(大丈夫だ……俺は1人でも……)
そう自分に言い聞かせながらも、蓮はその後も何度も声をかけた。
けれど、誰も足を止めてはくれない。
ついには、通り過ぎた自転車にベルを鳴らされ、怒鳴られる。
「おい! あぶねぇだろ!」
「ご、ごめんなさい……!」
悔しさで、涙が滲む。
なんで自分だけが、こんな思いをしなきゃいけないのか。
見えていた頃は、こんなこと、なかったのに――。
やがて、声をかけるのを諦め、道端に立ち尽くすことにした。
「生きるのって、辛いな。」
そのとき、背後でシャッターが開く音がした。
焼きたての香ばしい匂いとともに、声が飛んでくる。
「あら? おはようございます。ごめんなさいね、まだパンが陳列できてなくって」
パン屋の店主だろうか。気さくな声に、蓮はあわてて否定する。
「い、いえ!ぼ、僕は……」
「あら、その制服……それに、白杖……」
女性は気づいたようだ。蓮の事情に。
「なにか、お手伝いしましょうか?」
「あ、えっと、その……」
言葉が詰まる。
“助けてほしい”――本当は、それだけでいい。
けれど、それが言えない。
弱い人間だと認めたくない。
誰かに頼らなければ、生きていけないなんて――
「な、なんでも、ないです。すみません……」
「そうですか? 何かあれば、いつでも言ってくださいね」
むしろ、強引に助けてくれればいいのに。
そう思ってしまう自分に、蓮はまた嫌気がさした。
女性は店に戻ろうとする。
そのときだった。
「蓮ーっ! 探したよーっ!もう、待ち合わせ場所にいないんだからー!」
「……こ、この声、ひなた……!?」
声と同時に駆け寄ってきたのは、息を切らしたひなただった。
あきらかに芝居がかった声に、蓮は呆気にとられる。
「あら? 待ち合わせだったのね。よかったわ」
「あ、はい! そうなんです!すみません、ご迷惑おかけして!」
ひなたが店主に深く頭を下げる。
「いえいえ。私も初めてのことだったから、どうしたらいいのか迷っちゃって。ごめんなさいね?」
「い、いえ……」
蓮は申し訳なさそうに答える。
その声は、少しだけ安堵も混じっていた。
「じゃあ、私たち学校あるので、失礼しますね」
「あ、ちょっと待ってて」
おばさんが店の奥から、焼きたてのパンを持ってきた。
「紅南高校の新入生でしょう? よかったら、持っていってちょうだい」
「えっ!いいんですか!?ありがとうございます!」
「私にはこれくらいしかできないけれど、もしまた来たら、できるだけサポートするからね」
「……ありがとうございます」
蓮は、ほんの少し心が温まるのを感じた。
けれど、その一方で、
「見えないことへの慈悲」だと、どこかで感じてしまう自分もいた。
パン屋を後にし、ひなたの肩に手を乗せて歩き出す。
「いい匂いだね! 私、パンの匂い大好きなんだ」
「……」
「蓮も好き? 焼きたてのパンの匂い!」
「……なんできたの?」
「え?」
「先に行ったんじゃないのかよ」
「……やっぱり心配だからさ。戻ってきちゃった」
「なにが“心配”だよ。どうせ、おれを可哀想なやつだって――」
「ねぇ、その言い方やめて」
ひなたが立ち止まる。蓮も立ち止まる。
その声には、怒りでも悲しみでもなく、ただ、静かな寂しさがあった。
「蓮のこと、好きでいたいから。突き放すような言い方、やめて」
「……」
沈黙が流れる。
その空気を破るように、前方から声がかかった。
「ひなたの介助も上手よね? 藍沢くん」
「美上……お前もいたのか」
「のんびりしてたら、遅刻するわよ」
「え、あ、うん……そうだね! 進もう、蓮」
歩き始めようと肩につかまる蓮にひなたがやわらかく声をかけた。
蓮は、どこか申し訳なさそうに、短く答える。
「……うん」
三人の足音が、朝の通学路に混ざっていく。
蓮にとっては、見えなくなってから初めての――普通の学校生活。
そこには、小さな期待と、大きな不安があった。
蓮の新たな一歩が、いま始まろうとしていた。