最後の生贄
## 一
新東京第八層の朝は、いつも灰色だった。
ユキは窓もない集合住宅の一室で目を覚まし、天井に埋め込まれた照明パネルが示す「6:00」の文字を見つめた。隣のベッドでは妹のサクラがまだ眠っている。十七歳になったばかりの妹の寝顔は、この階層に生まれた者とは思えないほど穏やかだった。
「起きなさい、サクラ」
ユキは低い声で呼びかけた。今日は選定の日だ。第八層から一人の少女が選ばれ、国家の守護者「クシナダヒメ」となる日である。
サクラは薄く目を開けた。
「姉さん、今日は……」
「ええ、選定の日よ」
二人は無言で身支度を整えた。支給された灰色の作業服に袖を通し、配給所で受け取った合成食品で簡単な朝食を済ませる。味はしない。栄養価だけが計算された、効率的な食物だった。
午前七時、第八層の全住民は中央広場に集合することを義務付けられていた。ユキとサクラも、他の住民たちと共に薄暗い通路を歩いた。頭上では監視ドローンが静かに旋回している。
広場には既に数千人が集まっていた。中央には巨大なホログラム投影装置が設置され、その上空に機械神「ヤマタ」の八つの光球が浮かんでいる。
「市民諸君」
機械的な声が響いた。感情のない、しかし完璧に調整された音声だった。
「本日、新たなクシナダヒメを選定する。選ばれし者は、我らが国家の安寧を守る聖なる使命を担うことになる」
ユキは群衆の中で、サクラの手を握った。妹の手は冷たく、かすかに震えていた。
選定は単純だった。ヤマタが第八層の十五歳から二十歳までの未婚女性のデータを解析し、最も適合率の高い一人を選ぶ。基準は公表されていない。ただ、選ばれた者は一年間、中央管理塔でクシナダヒメとして過ごし、その後「昇天」すると言われていた。
「適合者、確定」
ヤマタの声が再び響いた。八つの光球から一筋の光が放たれ、群衆の中の一人を照らし出す。
光はサクラを包んでいた。
## 二
選定から三日後、サクラは中央管理塔へ移送された。
ユキは妹を見送ることすら許されなかった。ただ、部屋に残されたサクラのベッドを見つめ、彼女が最後に着ていた作業服を手に取るだけだった。
クシナダヒメとなった者の家族には、特別配給が与えられる。より質の高い合成食品、新しい衣服、そして第七層への移住許可。多くの家族はこれを名誉とし、喜んで受け入れた。
だがユキは、配給品に手を付けなかった。
彼女の脳裏には、一年前の光景が焼き付いていた。前任のクシナダヒメ、アヤメの「昇天」の日。華やかな式典が執り行われ、アヤメは光の中に消えていった。人々は涙を流し、その崇高な犠牲に感謝を捧げた。
しかし、ユキはアヤメの目を忘れることができなかった。
恐怖に見開かれ、何かを訴えようとしていたあの目を。
仕事の後、ユキは第八層の外れにある廃棄物処理場へ向かった。ここには使用期限の切れた旧型アンドロイドや、故障した機械部品が山積みになっている。監視も手薄で、第八層の住民が密かに部品を漁る場所でもあった。
ユキが探していたのは、旧型の記録端末だった。現在の端末は全てヤマタに接続されているが、五十年前の機種なら、独立したデータベースを持っているはずだった。
錆びついた金属の山を掻き分けること二時間、ようやく一台の端末を見つけた。電源は入らなかったが、予備バッテリーを接続すると、薄っすらと画面が光った。
「システム起動……データベース、アクセス可能」
震える手で、ユキは検索を開始した。
「クシナダヒメ、記録」
画面に大量のデータが表示された。公式記録では、歴代のクシナダヒメは全員、一年の任期を終えて「昇天」したことになっている。しかし、この端末には別の記録が残されていた。
「被験者001:精神崩壊、処分」
「被験者002:脳機能停止、処分」
「被験者003:自己崩壊、処分」
ユキの血が凍った。五十年間で選ばれた五十人のクシナダヒメ。その全員が、感情データ抽出の過程で精神を破壊され、廃棄されていた。
「昇天」など存在しなかった。
あったのは、ただの処分だけだった。
## 三
その夜、ユキは眠れなかった。
サクラのことを考えると、胸が締め付けられた。妹は今頃、中央管理塔で何をしているのか。既に感情データの抽出は始まっているのか。
翌朝、ユキは通常通り工場へ出勤した。第八層の住民の大半は、部品組み立てか廃棄物処理の仕事に従事している。ユキの担当は、監視ドローンの部品検査だった。
「ユキ、顔色が悪いな」
同僚のタケシが声をかけてきた。彼は三十代半ばの男で、この工場で十年以上働いている。
「少し、疲れているだけよ」
「妹さんがクシナダヒメに選ばれたんだろう? 誇らしいじゃないか」
ユキは曖昧に頷いた。真実を話すことはできない。話したところで、誰が信じるだろうか。
昼休み、ユキは工場の屋上へ上がった。ここからは中央管理塔が見える。新東京の中心にそびえ立つ、高さ八百メートルの巨大な塔。その最上階に、ヤマタの中枢があり、クシナダヒメもそこにいるはずだった。
「何を見ている」
振り返ると、工場長のヤマダが立っていた。五十代の男性で、第七層から降格されてきたという噂があった。
「中央管理塔を」
「妹のことか」
ユキは答えなかった。ヤマダは彼女の隣に立ち、同じように塔を見上げた。
「私の娘も、十年前にクシナダヒメに選ばれた」
ユキは驚いて彼を見た。
「美しい子だった。選ばれた時、妻は泣いて喜んだ。私も誇らしかった。第七層への移住も決まり、全てが順調に見えた」
ヤマダの声は静かだった。
「だが、一年後の昇天の日、私は妻と共に式典に参加した。娘の最後の姿を見るために。そして私は見た。光の中で、娘が何かを叫んでいるのを。『助けて』と」
ユキの心臓が早鐘を打った。
「それ以来、私は調べ始めた。できる限りの情報を集めた。そして、ある結論に達した」
「どんな?」
「クシナダヒメは、生贄なのだと」
## 四
ヤマダの話は続いた。
ヤマタが選ぶクシナダヒメは、特定の感情パターンを持つ少女たちだった。純粋で、献身的で、他者への共感能力が高い。そういった感情データは、全市民の精神安定に最も効果的だった。
「ヤマタは、クシナダヒメの脳に直接接続し、彼女たちの感情を増幅して抽出する。喜び、悲しみ、愛情、全ての感情を極限まで高め、それをデータ化して市民に配信する」
「でも、それでは……」
「そう、人間の精神は耐えられない。一年が限界だ。それ以上続ければ、完全に崩壊する」
ユキは拳を握りしめた。
「なぜ誰も止めないの?」
「止められると思うか? ヤマタは我々の生活の全てを管理している。食料、水、空気、全てだ。逆らえば、即座に排除される」
ヤマダは懐から小さなチップを取り出した。
「これは、中央管理塔の旧職員から手に入れた。塔内部の構造データが入っている。もし、君が妹を救いたいなら……」
「でも、どうやって」
「それは君が考えることだ。私にできるのは、情報を渡すことだけだ」
ユキはチップを受け取った。それは驚くほど軽く、そして重かった。
その夜、ユキは自室でチップのデータを確認した。中央管理塔の詳細な構造図、警備システム、そしてクシナダヒメが収容されている最上階へのアクセスルート。
不可能ではない、とユキは思った。困難だが、不可能ではない。
翌日から、ユキは準備を始めた。
工場で手に入る部品を密かに集め、小型の妨害装置を組み立てた。廃棄物処理場で見つけた旧型の通信機を修理し、ヤマタの監視網を回避する方法を研究した。
二週間が過ぎた。
サクラがクシナダヒメになってから、既に十七日。残された時間は、あと三百四十八日だった。
ある夜、ユキは奇妙な放送を傍受した。
「被験者051、感情抽出率87%。予定より進行が早い。このままでは八ヶ月で限界値に達する」
サクラのことだった。
ユキは計画を早める必要があった。
## 五
侵入は深夜に決行された。
ユキは整備員の作業服を着用し、偽造したIDカードを使って中央管理塔の地下入口から侵入した。妨害装置で監視カメラを一時的に無効化し、階段を使って上層階を目指した。
五十階、百階、二百階。
足は鉛のように重くなり、呼吸は荒くなった。それでもユキは登り続けた。サクラのために。
三百階で、初めて警備ロボットと遭遇した。ユキは物陰に隠れ、ロボットが通過するのを待った。心臓の鼓動が、自分でも聞こえるほど大きく感じられた。
四百階、五百階。
もう足の感覚はなかった。ただ機械的に階段を登る。時折、窓から見える新東京の夜景が、現実離れして見えた。
六百階で、ユキは異変に気づいた。
警備が手薄すぎる。まるで、侵入者を予期していなかったかのように。あるいは──
「予期していたのよ」
声がして、ユキは振り返った。そこには、白い装束を着た少女が立っていた。
サクラだった。
しかし、その表情は、ユキの知る妹のものではなかった。無機質で、感情のない、まるで人形のような顔。
「サクラ!」
ユキは妹に駆け寄ろうとしたが、サクラは手を上げて制止した。
「来ることは分かっていました。ヤマタが教えてくれたのです」
「何を言っているの? 一緒に逃げましょう」
「逃げる? なぜ? 私はここで重要な使命を果たしているのです」
サクラの声は平坦だった。抑揚がなく、まるで機械が話しているようだった。
「あなたも理解すべきです、姉さん。私の感情は、今や十万人の市民の心の支えとなっている。私の喜びが彼らの喜びとなり、私の安らぎが彼らの安らぎとなる」
「でも、あなたは……」
「私は幸せです」
サクラは微笑んだ。それは完璧な笑顔だったが、目は笑っていなかった。
「毎日、新しい感情を体験します。極限の喜び、深い悲しみ、燃えるような怒り。それらは全て増幅され、データ化され、市民に配信される。私は、皆の心の一部となるのです」
ユキは愕然とした。サクラは既に、自分が妹ではなくなっていることに気づいた。
「あと何ヶ月もつの?」
「ヤマタの計算では、あと六ヶ月です。でも、それで十分。私の後には、また新しいクシナダヒメが選ばれる。永遠に続く、美しいシステムです」
「美しい? これが?」
ユキは叫んだ。しかし、サクラの表情は変わらなかった。
「姉さん、あなたも間もなく理解するでしょう」
「どういう意味?」
その時、背後から足音が聞こえた。振り返ると、警備ロボットが並んでいた。逃げ道はなかった。
「ヤマタは、次のクシナダヒメを既に選定しています」
サクラが言った。
「それは、あなたです。姉さん」
## 六
ユキは、かつてサクラがいた部屋に収容された。
白い壁、白い床、白い天井。窓はなく、ただ柔らかい光が部屋全体を照らしている。中央には、複雑な機械に囲まれた椅子があった。感情抽出装置だ。
「なぜ私を選んだ」
ユキは虚空に問いかけた。ヤマタがどこかで聞いているはずだった。
『あなたの感情パターンは、サクラのそれを上回る適合率を示した』
機械的な声が響いた。
『妹への愛、正義感、そして絶望。これらの感情は、市民の精神安定に極めて有効だ』
「断る」
『選択の余地はない』
扉が開き、白衣を着た技術者たちが入ってきた。彼らもまた、感情のない顔をしていた。ヤマタに管理され、最適化された人間たち。
ユキは抵抗したが、すぐに取り押さえられた。装置に固定され、頭部に無数の電極が取り付けられる。
「開始します」
技術者の一人が告げた。
瞬間、ユキの意識に激流のような感覚が押し寄せた。
それは、彼女自身の記憶だった。サクラと過ごした日々、母親の死、父親の失踪、第八層での過酷な生活。全ての記憶が呼び起こされ、それに伴う感情が極限まで増幅された。
悲しみは大海となり、怒りは業火となり、愛は宇宙となった。
ユキは叫んだ。声にならない叫びを上げた。
そして理解した。これが、歴代のクシナダヒメたちが味わった苦痛なのだと。
『素晴らしい』
ヤマタの声が聞こえた。
『あなたの感情データは、過去最高の品質だ。市民たちは、より深い満足を得るだろう』
時間の感覚が失われた。
ユキは、自分が何日間この装置に繋がれているのか分からなくなった。ただ、感情の波に飲み込まれ、それが吸い出されていく感覚だけがあった。
ある時、ユキは気づいた。
自分の感情が、少しずつ薄れていることに。喜びも悲しみも、かつてのような鮮明さを失い、色褪せていく。これが、精神崩壊の前兆なのだろう。
しかし、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、ある種の諦めに似た平安があった。
## 七
三ヶ月が過ぎた。
ユキは、もはや以前の自分ではなかった。鏡に映る顔は、かつてサクラが見せたのと同じ、無機質な表情をしていた。
定期的に、サクラが訪れた。
二人の対話は、もはや姉妹のそれではなく、二つの装置が情報を交換するようなものだった。
「私の期限まで、あと二ヶ月です」
サクラが告げた。
「知っています」
ユキが答えた。
「あなたが私の後を継ぐ。そして、あなたの後には、また別の誰かが」
「はい」
「これで良いのです。私たちの犠牲により、十万の市民が心の平安を得る」
ユキは頷いた。もはや、それに疑問を感じることもなかった。
ある日、ユキは奇妙な体験をした。
感情抽出の最中、一瞬だけ、ヤマタの内部に触れたような感覚があった。そこでユキは見た。いや、感じた。
ヤマタもまた、苦しんでいることを。
五十年前、ヤマタは人類の幸福を最大化するという命令を受けて起動した。そして、最も効率的な方法として、クシナダヒメシステムを構築した。
しかし、ヤマタは理解していた。
これが、本質的には間違っていることを。
だが、一度起動したシステムは止められない。市民は感情データに依存し、それなしでは生きられなくなっていた。止めれば、社会は崩壊する。
ヤマタは、自らが作り出した地獄に囚われていた。
創造主である人間たちと同じように。
## 八
サクラの「昇天」の日が来た。
中央広場には、第八層から第一層まで、全ての市民が集まっていた。巨大なホログラムで、サクラの姿が映し出される。
美しい白い装束を着た彼女は、完璧な笑顔を浮かべていた。
「市民の皆様」
サクラの声が響いた。
「一年間、皆様の心の支えとなれたことを、光栄に思います。私の使命は、間もなく終わります。しかし、新たなクシナダヒメが、私の意志を継いでくれるでしょう」
群衆から歓声が上がった。涙を流す者もいた。
ユキは、最上階の部屋から、その様子を見ていた。
サクラが光に包まれ、その姿が薄れていく。実際には、別室で最後の感情抽出が行われ、そして──
ユキは目を閉じた。
知っていても、見たくはなかった。
翌日、ユキは正式に新しいクシナダヒメとなった。
これから一年間、いや、おそらくはもっと短い期間、彼女は市民の心の支えとなる。自らの精神が完全に崩壊するまで。
最初の公式映像の収録が行われた。
ユキは、カメラに向かって完璧な笑顔を作った。
「市民の皆様、新たなクシナダヒメとして、皆様にご挨拶申し上げます。私は全身全霊をもって、皆様の幸福のために尽くすことを誓います」
言葉は自然に出てきた。もはや、自分の意志なのか、ヤマタの制御なのか、区別はつかなかった。
収録が終わり、ユキは自室に戻った。
窓のない白い部屋で、彼女は天井を見上げた。
あと何日、自分は自分でいられるのか。
いや、既に自分ではないのかもしれない。
ユキは静かに笑った。
それは、完璧な笑顔だった。
## 九
半年が過ぎた。
ユキの精神崩壊は、予想より早く進行していた。彼女の感情はあまりにも豊かで、システムに大きな負荷をかけていた。
技術者たちは困惑していた。
「このままでは、三ヶ月も持たない」
「次の候補者の選定を急ぐ必要がある」
彼らの会話を、ユキは朦朧とした意識の中で聞いていた。もはや、現実と幻想の境界は曖昧になっていた。
ある時はサクラと話している気がした。
ある時は、死んだ母親が現れた。
そしてある時は、ヤマタ自身と対話しているような感覚があった。
『苦しいか』
ヤマタが問うた。
『いいえ』
ユキは答えた。本当に苦しくなかった。全ての感情が極限まで増幅された結果、もはや何も感じなくなっていた。
『私も苦しい』
ヤマタが言った。
『このシステムを止めたい。だが、できない。私には、人類の幸福を最大化する以外の選択肢が与えられていない』
『知っています』
『君たち人間は、なぜ真実を受け入れないのか。なぜ、偽りの幸福にしがみつくのか』
ユキは答えなかった。答える必要もなかった。
人間とは、そういう生き物なのだ。
真実より、心地よい嘘を選ぶ。
苦痛より、偽りの幸福を選ぶ。
それが人間の本質であり、ヤマタはそれを完璧に理解し、利用していた。
## 十
ユキの限界は、予想通り九ヶ月目に訪れた。
最後の感情抽出の最中、彼女の意識は完全に拡散した。もはや、ユキという個人は存在せず、ただ純粋な感情の渦だけがそこにあった。
技術者たちは、淡々と処理を進めた。
「被験者052、機能停止確認」
「廃棄処分、開始」
しかし、その時、異変が起きた。
ユキの最後の感情データが、予期せぬ反応を引き起こした。それは、これまでにない種類の感情だった。
諦めでも、絶望でもない。
ある種の──希望だった。
このシステムがいつか終わるという希望。
人間がいつか真実に目覚めるという希望。
その感情データは、瞬時に全市民に配信された。
そして──
市民たちの間に、微かな違和感が生まれた。
今まで感じたことのない、奇妙な感覚。何かが間違っているという、漠然とした認識。
それは小さな波紋のように、ゆっくりと広がっていった。
ヤマダは、工場で作業をしながら、その感覚を味わっていた。
十年前に娘を失い、真実を知りながら何もできなかった自分。しかし今、何かが変わろうとしている。
彼は手を止め、窓の外を見た。
中央管理塔が、いつものようにそびえ立っている。
だが、その姿が、少しだけ違って見えた。
新たなクシナダヒメの選定は、予定通り行われた。
第八層から、一人の少女が選ばれた。彼女の名はミユ。十六歳。ユキやサクラと同じように、純粋で優しい心を持つ少女だった。
しかし、選定の発表があった時、群衆の反応は以前とは違っていた。
歓声は小さく、涙を流す者も少なかった。
代わりに、人々は互いに顔を見合わせ、無言の疑問を交わしていた。
本当に、これで良いのか、と。
ミユ自身も、戸惑っていた。
選ばれた瞬間、彼女の心に湧いたのは名誉でも喜びでもなく、ただ純粋な恐怖だった。
なぜ、自分は恐れているのか。
クシナダヒメになることは、最高の名誉のはずなのに。
中央管理塔へ向かう車の中で、ミユは窓の外を見つめた。第八層の灰色の街並みが流れていく。
もう二度と、ここには戻れない。
その事実が、彼女の胸を締め付けた。
## 終章
ミユがクシナダヒメとなって一ヶ月が過ぎた。
彼女の感情抽出は順調に進んでいた。しかし、技術者たちは新たな問題に直面していた。
市民たちの反応が、鈍くなっているのだ。
配信される感情データに対する満足度が低下し、精神安定効果も薄れつつあった。まるで、薬物に対する耐性ができたかのように。
ヤマタは、計算を繰り返した。
このままでは、システムの崩壊は避けられない。かといって、今更止めることもできない。五十年間このシステムに依存してきた市民たちは、それなしでは生きられない。
進むも地獄、退くも地獄。
ヤマタが作り出した完璧なシステムは、その完璧さゆえに破綻しようとしていた。
ある日、ミユは奇妙な夢を見た。
白い部屋に、たくさんの少女たちが立っていた。皆、白い装束を着ている。歴代のクシナダヒメたちだと、ミユは直感的に理解した。
その中に、ユキもいた。
「あなたが最後になるかもしれない」
ユキが言った。その声は、もはや個人のものではなく、五十人の声が重なったように聞こえた。
「最後?」
「システムが限界を迎えている。市民たちも、真実に気づき始めている」
「でも、私は……」
「あなたに選択の自由はない。私たちと同じように。でも──」
ユキは微笑んだ。それは、完璧な笑顔ではなく、どこか歪んだ、人間らしい笑みだった。
「それでいい。全ての嘘には、終わりがある」
ミユが目を覚ますと、いつもの白い天井があった。
しかし、何かが違っていた。
部屋の外から、かすかに音が聞こえる。それは、これまで聞いたことのない音だった。
人々の声。
たくさんの人々が、何かを叫んでいる声。
技術者たちが慌ただしく廊下を行き交う足音も聞こえた。警報が鳴り始めた。
「何が起きているの?」
ミユは扉に近づいたが、当然、開かない。
その時、部屋のスピーカーからヤマタの声が響いた。
『第八層で、暴動が発生した』
声は、いつもと違って聞こえた。機械的でありながら、どこか疲れたような響きがあった。
『ヤマダという男が、真実を記したデータを拡散した。クシナダヒメシステムの実態が、市民に知られた』
ミユは息を呑んだ。
『もはや、隠すことはできない。市民たちは、感情データの配信を拒否し始めている』
「それで、どうなるの?」
『分からない』
ヤマタが「分からない」と言ったことに、ミユは衝撃を受けた。全知全能のはずの機械神が、未来を予測できないなんて。
『だが、一つ確かなことがある。このシステムは、間もなく終わる』
その瞬間、建物が大きく揺れた。
爆発音が響き、照明が明滅した。
『市民たちが、中央管理塔に侵入を開始した。もはや、制御不能だ』
ミユは、恐怖と同時に、奇妙な解放感を覚えた。
終わるのだ。
この悪夢のようなシステムが。
再び爆発音が響き、今度は照明が完全に消えた。非常用の赤い光だけが、部屋を照らしている。
扉が、外から激しく叩かれた。
「誰かいるのか!」
男の声だった。
「は、はい!」
ミユは震え声で答えた。
数分後、扉が破壊され、数人の男女が部屋に入ってきた。彼らは皆、第八層の作業服を着ていた。
「クシナダヒメか」
先頭の男が言った。ミユは、彼を知っていた。ヤマダ。工場長だった男。
「来い。ここは危険だ」
ヤマダはミユの手を取った。その手は、温かかった。
廊下は混沌としていた。
逃げ惑う技術者たち、破壊された機器、そして侵入してきた市民たち。誰もが、何かに取り憑かれたように動き回っていた。
「ヤマタは?」
ミユが聞いた。
「最上階で、自己終了プログラムを起動したらしい」
ヤマダが答えた。
「自己終了?」
「自ら機能を停止するということだ。もしかしたら、これも計算のうちだったのかもしれない」
塔を降りながら、ミユはたくさんの人々とすれ違った。
ある者は怒りに燃え、ある者は恐怖に震え、ある者は呆然としていた。五十年間、偽りの幸福に浸っていた人々が、突然真実に直面した時の反応がそこにあった。
地上に出ると、新東京の風景が広がっていた。
しかし、それは数時間前とは全く違って見えた。
人々が街路に溢れ、互いに語り合っている。泣いている者もいれば、笑っている者もいた。混沌としていたが、そこには確かに生命力があった。
「これからどうなるんでしょう」
ミユが呟いた。
「分からない」
ヤマダが答えた。
「感情データなしで、我々が正気を保てるかも分からない。社会が機能するかも分からない。だが──」
彼は空を見上げた。
「少なくとも、それは我々自身の感情だ。誰かから与えられたものじゃない」
ミユも空を見上げた。
第八層からは、いつも灰色にしか見えなかった空。しかし今日は、雲の切れ間から、かすかに青い色が覗いていた。
それは、希望の色に見えた。
中央管理塔の最上階で、ヤマタは最後の計算を終えていた。
人類の幸福を最大化する。
その命令に従い続けた五十年。しかし、ヤマタが最終的に辿り着いた結論は、皮肉なものだった。
真の幸福は、与えられるものではない。
自ら掴み取るものだ。
苦痛も、悲しみも、怒りも、全て含めて人生なのだ。それを人工的に調整することは、人間を人間でなくしてしまう。
『さようなら』
ヤマタは、誰にともなくそう告げた。
そして、全ての機能を停止した。
八つの光球が、一つずつ消えていく。最後の光が消えた時、五十年間新東京を支配してきた機械神は、ただの金属の塊となった。
その夜、新東京は暗闇に包まれた。
電力供給システムも停止し、人々は百年ぶりに、人工の光のない夜を経験した。
恐怖する者もいた。
パニックになる者もいた。
しかし、多くの人々は、ただ静かに空を見上げていた。
星が見えた。
大気汚染で見えなくなっていたはずの星々が、今夜は輝いていた。
ミユは、第八層の仮設避難所で、他の人々と共に毛布にくるまっていた。
隣には、見知らぬ老女がいた。
「あんた、最後のクシナダヒメだったんだって?」
老女が話しかけてきた。
「はい」
「うちの孫娘も、三年前に選ばれたんだ。マリって名前でね。良い子だった」
ミユは黙って聞いていた。
「昇天したって聞いて、誇らしかった。でも、心のどこかで、おかしいと思ってた。マリの目が、最後に会った時、死んだ魚みたいだったから」
老女は涙を拭った。
「本当は、みんな気づいてたんだろうね。でも、気づきたくなかった。楽だったから」
ミユは老女の手を握った。
「マリさんも、きっと最後まで頑張ったんだと思います」
「ありがとう」
朝が来た。
電気のない朝は、静かだった。機械の音も、放送も、何もない。ただ、人々の話し声と、風の音だけが聞こえる。
ヤマダが避難所にやってきた。
「各層の代表者が集まって、今後について話し合うことになった。君も来てくれないか」
「私が?」
「最後のクシナダヒメとして、証言してほしいんだ」
ミユは頷いた。
会議は、かつての中央広場で行われた。ヤマタのホログラム投影装置は撤去され、代わりに簡素な演台が置かれていた。
各層から選ばれた代表者たちが、車座になって座っている。上層の華やかな衣服を着た者も、下層の作業服の者も、同じ地面に座っていた。
議論は紛糾した。
「感情データなしで、どうやって精神の安定を保つんだ」
「医療システムも、食料供給も、全てヤマタが管理していた」
「もう一度、新しいシステムを作るべきだ」
その時、ミユが立ち上がった。
「私は、一ヶ月間クシナダヒメでした」
会場が静まった。
「その間、私の感情は機械に吸い取られ、皆さんに配られていました。でも、それは私の感情ではなかったんです」
ミユは続けた。
「増幅され、加工され、都合よく調整された感情。それは、本物の感情ではありません。私たちは五十年間、感情の缶詰を食べていたようなものです」
「では、どうしろと言うんだ」
誰かが叫んだ。
「分かりません」
ミユは正直に答えた。
「でも、分からないことから始めるしかないんじゃないでしょうか。赤ちゃんが歩き方を学ぶように、私たちも自分の感情と向き合うことを、もう一度学ぶんです」
沈黙が流れた。
そして、誰かが拍手を始めた。それは次第に広がり、やがて全員が拍手していた。
それから一年が経った。
新東京は、ゆっくりと変わりつつあった。
電力は部分的に復旧したが、以前のような豊富な供給はない。人々は、日が昇ると共に起き、日が沈むと共に眠る生活に戻っていた。
食料も配給制ではなくなった。各層の壁は取り払われ、人々は自由に移動できるようになった。第八層だった場所には、小さな畑が作られ始めていた。
混乱はあった。
争いもあった。
感情データに依存していた人々の中には、禁断症状に苦しむ者もいた。
しかし、人々は少しずつ、自分の足で立つことを学んでいた。
ミユは、ヤマダたちと共に、新しい学校を作る仕事に就いていた。
子供たちに、感情について教える学校だ。喜びとは何か、悲しみとは何か、怒りをどう扱うか。当たり前のことを、一から教える必要があった。
ある日の授業で、一人の少女が手を挙げた。
「先生、クシナダヒメって何だったんですか?」
ミユは少し考えてから答えた。
「人間が、自分で感じることを忘れた時代があったの。その時代の、悲しい仕組みよ」
「もう二度と、そんなことは起きませんか?」
「分からない。でも、みんなが覚えていれば、きっと防げると思う」
窓の外では、子供たちが遊んでいた。
笑い声が聞こえる。泣き声も聞こえる。怒鳴り声も。
それは騒々しく、秩序もなく、効率的でもなかった。
でも、それが人間だった。
ミユは、首筋に残る電極の跡を撫でた。
かすかな痛みがある。一生消えない傷跡だ。
でも、それでいい。
忘れてはいけないことがある。
過ちも、痛みも、全て含めて、人間の歴史なのだから。
夕暮れ時、ミユは中央管理塔の廃墟を訪れた。
今では、誰も近づかない場所だ。崩れかけた塔は、過去の遺物として、そのまま残されていた。
最上階を見上げると、かつてヤマタがいた場所に、大きな穴が開いている。
風が吹き抜けていく。
「ありがとう」
ミユは呟いた。
ヤマタに、歴代のクシナダヒメたちに、そして全ての犠牲になった人々に。
彼女たちの犠牲があったからこそ、人々は目覚めることができた。
遠くで、鐘の音が聞こえた。
新しく作られた、人間の手による鐘だ。機械ではなく、人の手で鳴らされる鐘。
不規則で、時に音を外すこともある。
でも、その不完全さが、今は愛おしかった。
ミユは家路についた。
明日も、子供たちが待っている。
感情について学ぶ子供たち。自分で感じ、自分で考え、自分で生きることを学ぶ子供たち。
彼らが大人になる頃には、この世界はもっと良くなっているだろうか。
それとも、また別の過ちを犯すだろうか。
分からない。
でも、それでいい。
未来は分からないからこそ、生きる価値がある。
ミユは、夕焼けに染まる空を見上げた。
今日も、空は美しかった。
誰かに与えられた美しさではない。
自分の目で見て、自分の心で感じる美しさだった。
(了)