【第97話】 『乾かないシャツ、止まらない鼓動』
――体育祭本番。
空は、真っ青だった。
一点の曇りもない。
太陽は容赦なく、頭上から照りつけてくる。
グラウンドは、白い砂煙を巻き上げながら熱を孕み、
そこに立つだけで、汗がにじみ出てきた。
でも誰も、文句なんて言わなかった。
今日だけは。
この一瞬だけは。
誰もが、前しか見ていなかった。
俺も、ゼッケンをつけたシャツの裾を握りしめて、
スタートラインに立った。
周りには、みんなの顔。
汗でぺたぺたと貼り付いた前髪。
シャツに浮き上がる肌のライン。
眩しくて、眩しくて、
目を細めながらも、どうしても視線を逸らせなかった。
「位置について──」
「──よーい、ドン!」
スターターの合図と同時に、
俺たちは一斉に駆け出した。
空気を切る音。
地面を蹴る音。
心臓の音。
全部が混ざり合って、
世界が一瞬だけ、純粋な走る音だけになった。
何も考えなかった。
ただ、ゴールだけを目指して、走った。
そして、──ゴールテープを切った。
その瞬間。
耳を劈くような歓声が、グラウンドに響いた。
「よっしゃああああああ!!!」
誰かが叫んだ。
誰かが跳び上がった。
俺は、ゴール後、ぜぇぜぇと肩で息をしながら振り返った。
そこには。
汗だくで、ぐしゃぐしゃになりながらも、
笑っているヒロインたちの姿があった。
ことり。
みずき。
レナ。
つばさ。
しおり。
ほのか。
くるみ。
セシリア。
みんな、みんな。
髪は湿って、首筋に張り付き、
シャツは汗で透けて、下着のラインがかすかに浮かび上がっていた。
頬は赤く火照り、目尻には滲んだ汗が光っていた。
なのに。
こんなに、眩しいなんて。
こんなに、綺麗なんて。
俺は、知らなかった。
心臓が、爆発するかと思った。
呼吸が乱れてるのは、きっと走ったせいだけじゃない。
「……っ」
俺は、思わず口を押さえた。
声に出しそうだった。
溢れそうだった。
──こんなにも。
こんなにも、好きだ。
汗も、
ぐしゃぐしゃな顔も、
濡れた制服も、
全部。
全部。
愛しくて、たまらなかった。
誰もが、必死だった。
不格好で。
必死で。
でも、全力で、今を生きていた。
そんな姿が、
俺の胸に、ズドンと響いた。
ことりが、笑った。
みずきが、ガッツポーズした。
レナが、砂まみれで吠えた。
つばさが、メガネをずらしながら笑った。
しおりが、そっとハンカチで汗を拭った。
ほのかが、上気した頬で拍手してくれた。
くるみが、少しだけ遠くから、でもちゃんと見ていてくれた。
セシリアが、ひときわ誇らしげに頷いた。
その全部が、
胸の中に、熱く、強く、焼きついていった。
――乾かないシャツ。
今、俺たちの着ている布は、
汗を吸い、涙を吸い、悔しさと誇りを吸って、
ぐちゃぐちゃに濡れている。
でも、それは。
生きている証だった。
青春そのものだった。
ぐちゃぐちゃで、濡れて、泥だらけで、
でも、こんなにも愛しい。
それを教えてくれたのは。
ここにいる、みんなだった。
俺は、もう一度だけ。
心の中で叫んだ。
──ありがとう。
──こんなに眩しい君たちを、好きでいさせてくれて。
西日に染まったグラウンドに、
汗と笑顔と、まだ乾かない恋の香りが、
そっと、ふわりと漂った。
そして俺たちは。
もう一度、走り出す準備をしていた。
今度は、青春の続きを掴むために。




