【第96話】 『それでも好きだよ──どんなに濡れても』
放課後の教室。
降り続いた雨が上がり、窓の外には鈍い夕暮れの光が広がっていた。
蒸し返すような湿気が、まだ空気を重たくしている。
制服の襟元も、背中も、じっとりと濡れたままだった。
けれど。
誰も文句を言わなかった。
むしろ──この蒸し暑さが、今だけは心地よかった。
ことりが、そっと口を開いた。
「……汗で、シャツが貼り付くの、最初は、すごく嫌だった。」
彼女は、シャツの胸元をきゅっと握りながら、静かに言った。
「恥ずかしいし……においとかも、気になるし……。
でも、いまは……ちょっとだけ、うれしいって思う。」
ことりは、少しだけ顔を上げ、俺を見た。
「だって……。
この汗も、涙も、全部、
白井くんに見てもらえるって、思ったから。」
胸が、熱くなった。
隣で、みずきが苦笑する。
「わかる。……あたしも、汗だくで顔ぐちゃぐちゃになって、
“あー、絶対見られたくない!”って思ったけどさ。」
「でも……本音を言えば、
“それでも見てほしい”って、思ってたんだよね。」
レナが、机に顎を乗せたまま、ぽつりと呟く。
「……なあ。
汗も、涙も、たとえちょっと……出ちゃっててもさ。」
「それが全部、
“あたしが頑張ってる証拠”なんだったら──」
「嫌いになんか、ならないでほしいって、思うんだ。」
重たい空気の中で、
それぞれの言葉が、
ぽつ、ぽつ、と教室に落ちていった。
つばさが、メガネを外して、ハンカチで額を拭いながら言った。
「理屈で言えば、汗は水分の排出。
涙は浸透圧の調整。
でも──」
「私は、今日、思った。」
「濡れた布も、ぐしゃぐしゃの顔も、
理屈じゃない、感情のあふれた証なんだって。」
「だから、恥ずかしくなんて、ない。」
最後に、しおりが、少しだけ伏し目がちに言った。
「……失敗しても。
濡れちゃっても。
ちょっとにおっても。」
「好きな人になら、……全部、見てほしい。」
「好きな人になら、全部、受け止めてほしい。」
静かな告白だった。
でも、その一言に、
全員の想いが、重なった気がした。
──そして。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
汗でぺたぺたと張り付く制服の裾を払いながら、
みんなの方へ向き直る。
一人ひとりの顔を、
しっかりと見た。
ことり。
みずき。
レナ。
つばさ。
しおり。
くるみ。
ほのか。
セシリア。
みんな、汗ばんだ頬に赤みを帯びながらも、
真剣な瞳で、俺を見返してきた。
俺は、深く息を吸い込んで、
──それから、宣言した。
「たとえ汗だくでも、
涙でぐしゃぐしゃでも、
ちょっと失敗しちゃっても。」
「全部、ぜんぶ──」
「俺は、好きだ。」
教室に、静寂が降りた。
みんなの目が、驚きで大きく開かれる。
それでも、俺は続けた。
「濡れたシャツも、
染み込んだタオルも、
ふわっと香る汗の匂いも──」
「全部、みんなが生きてる証だから。」
「だから、俺は、
どんな君たちでも、好きでいたい。」
「どんなに濡れてても。
どんなにぐちゃぐちゃでも。」
「君たちが君たちらしくある限り──
俺は、絶対に嫌いになんかならない。」
言い切った。
汗でぐしょぐしょの教室に、
小さな、けれど温かな拍手が起きた。
ことりが、涙ぐみながら微笑んだ。
みずきが、ちょっとだけ顔をそむけて鼻をすすった。
レナが、バカみたいに照れ隠しのために机を叩いた。
つばさが、眼鏡を拭くフリをしながら隠れて笑った。
しおりが、そっと手を胸に当てた。
くるみが、こっそりと袖で目元を拭った。
ほのかが、ぎゅっと制服の裾を握り締めた。
セシリアが、まるで詩を読むように小さく囁いた。
「……あなたって、本当に、ずるい人ね。」
──でも、いいんだ。
ずるくたって。
かっこ悪くたって。
この夏、
この汗と、涙と、ほんの少しのおしっこまでも。
全部、全部抱きしめて、
俺たちは、進んでいくんだ。
ぐちゃぐちゃで、
びしょびしょで、
でも、誰よりも愛しい青春を。
そして、誰よりも、
真剣な恋を。