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【第95話】 『“ちょっと出ちゃった”って、そんなにダメかな』

 放課後の教室は、蒸し暑い熱気をまだ抱えたまま、じっとりと沈黙していた。


 カーテンがふわりと膨らみ、また静かにしぼむ。

 外では、蝉が声を枯らすように鳴いている。


 ──そんな中だった。


 ほのかが、机の端にそっと腰掛けたまま、

 微かに震えているのに気づいたのは。


「……ほのか?」


 声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせた。


 振り返った顔は、いつものように凛としていたけれど、

 その目元は、わずかに潤んでいた。


「だ、大丈夫です。すみません……ちょっとだけ、我慢してるだけで……」


 そう言った彼女の太ももは、きゅっと内股に寄っていた。

 制服のスカートの上からでも、張り詰めた緊張が伝わってくる。


 ──トイレ、だ。


 瞬時に理解した。

 このタイミング、この空気。


 けれど、俺はあえて、何も言わずに隣に座った。


 冷たい言葉も、焦らせる言葉も、いらない。

 ただ、静かに隣にいるだけでいい。


 ほのかは、俯いたまま、震える声を絞り出した。


「……途中で、抜けたら、変に思われるかなって……

 だから、我慢してたら……」


「うん。」


 俺は、うなずいた。

 彼女の言葉を、一言も取りこぼさないように。


「でも……もう、ちょっと、無理かもって……」


 ほのかの手が、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。

 白い指先が、震えていた。


 教室の空気が、重たく沈む。

 汗とは違う、もっと切実な緊張が、空間を支配していた。


「ほのか。」


 俺は、ゆっくりと声をかけた。


「……頑張ったな。」


 その一言に、ほのかの肩がふるりと震えた。


「え……?」


 彼女が、驚いた顔を向ける。


「……誰も、責めたりしないよ。」


「ここまで、我慢して、

 ちゃんとみんなと一緒にいて、

 それだけで、すごいじゃん。」


 静かに、まっすぐに、言葉を届けた。


 ほのかの瞳に、じわりと涙が滲んだ。


「……でも、もし、ちょっとだけ……出ちゃってたら……?」


 震える声で、ほのかが聞いた。


「それでも、……嫌いにならない?」


 ──なんで、そんなに怯えるんだよ。


 胸が締めつけられる。


 どうして、こんなに優しくて、

 頑張り屋で、真っ直ぐな子が、

 たったそれだけのことで、自分を責めなきゃいけないんだ。


 俺は、迷わず答えた。


「なるわけ、ないだろ。」


 ほのかの目から、ぽろりと涙が零れた。


「……ありがとう……」


 小さな声で、彼女は呟いた。


 恥ずかしさ。

 情けなさ。

 それでも、見放されたくない、誰かに受け止めてほしいという願い。


 全部、詰まった「ありがとう」だった。


 俺は、そっとほのかの背中に手を伸ばした。


「ほのか。」


「俺は、どんなお前でも、ちゃんと受け止めるから。」


 言葉にして、伝えた。


 それは、ただの慰めじゃない。

 俺の、本心だった。


 ──そして、静かに立ち上がったほのかを、

 俺は何も言わず、廊下の先へと送り出した。


 足早に、でも必死にスカートを押さえながら、

 ほのかは走っていった。


 小さな背中を見送りながら、

 俺は、教室に残る微かな香りに気づいた。


 汗の匂い。

 涙の匂い。

 そして、ほんの僅かな、でも温かな、別の匂い。


 ──それは、恥なんかじゃなかった。


 生きてる証だった。

 好きな人が、頑張った証だった。


 それを、俺は、

 どうしても抱きしめたかった。


 だから。


 だから俺は、心の中で誓った。


 これからも、

 彼女たちの全部を受け止める。


 汗も。

 涙も。

 そして──たとえ、ほんの少しのお漏らしだって。


 それは、全部、

 彼女たちの生きている証で。


 俺にとっては、世界で一番、愛おしいものだから。


 ──教室の天井を見上げる。


 熱気に揺らぐ空気の向こうで、

 窓から差し込む光が、

 滲むように輝いていた。


 俺たちの、濡れた夏は、

 まだ終わらない。

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