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【第92話】 『好きな人にだけは、汚いところも見せたくなる』

 真夏の昼下がり。

 教室は、まるで温室のようだった。


 黒板の上で静かにうなりを上げる扇風機も、

 もはや熱気を攪拌するだけの役目しか果たしていない。


 窓から差し込む陽光は鈍く、

 床にできた影すら、熱を含んでじわりと滲んでいる。


 そして、その空気のなかに。


 汗の匂いが、ゆっくりと、確かに広がっていた。


 人肌の湿度。

 制服の布越しに滲んだ汗の香り。

 消そうとしても消しきれない、生きている匂い。


 俺は、そっと机に突っ伏しながら、

 教室の空気がほんの少しだけ、違って感じられるのを、

 なんとなく意識していた。


 それは、昨日のことがあったからだろう。


 椅子の裏に残っていた、小さなしみ。

 汗と、涙と、そしてほんの少しの……。


 思い出すだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。


 だけど、不思議と、嫌じゃなかった。

 むしろ、愛おしいとさえ、思った。


 それは、たぶん。


「誰かの、隠したかった心」そのものだったから。


 ──放課後。


 誰もいない教室に、蝉の声だけが遠く響いていた。


「……ねえ、白井くん。」


 不意に、ことりが隣の席から声をかけてきた。


 振り向くと、彼女は、

 いつもよりほんの少しだけ、顔を赤らめていた。


 汗で湿った髪が、こめかみに貼り付いている。

 制服のブラウスは、背中にぴったりと張り付いていて、

 輪郭をなぞるようなシルエットが、はっきりとわかる。


「あ、あの……」


 ことりは、もじもじと袖を握りながら、言った。


「今日、体育で……汗かいちゃったから、

 シャツ、すごい……張り付いちゃって……」


 俺は慌てて目を逸らそうとした。

 でも、それよりも早く。


 ことりの、震えるような声が続いた。


「……それでも、白井くんになら……見られても、いいって思ったの。」


「えっ……」


 俺は驚いて、ことりの顔を見た。


 彼女は、真っ赤になりながらも、目を逸らさずにこちらを見つめていた。


「だって……」


「好きな人になら、汚いところも、見てほしいって……思っちゃうんだもん。」


 ──心臓が、跳ねた。


 この灼熱の教室のせいじゃない。

 この湿度のせいでもない。


 俺の胸の奥で、確かに。

 ことりの言葉が、火を灯した。


 汗で濡れたシャツ。

 張り付いた布。

 そこに浮かび上がる体温。


 それは、きっと。


 ことりが、

 自分のすべてを見せたがっている証だった。


 かっこいいときも。

 可愛いときも。

 だらしないときも。

 失敗したときも。


 そして、汗でべたついて、恥ずかしいときも。


 全部。


「……ことり。」


 俺は、そっと名前を呼んだ。


 ことりは、びくりと肩を震わせた。


「俺も……そう思うよ。」


「誰かを好きになるって、

 その人の綺麗なところだけじゃなくて、

 恥ずかしいところとか、汚れたところとか、

 そういうのも、ぜんぶ、見たいって思うことなんだと思う。」


 ことりの瞳が、驚きと、そしてじんわりと滲む何かで揺れた。


「白井くん……」


「だから、……ありがとう。」


 俺は、そっと微笑んだ。


「俺に、見せてくれて。」


 ことりは、堪えきれなくなったみたいに、

 小さく笑って、でも同時に涙ぐんだ。


「……バカ。」


 ぽつりと呟いて、そっと俺の袖を握った。


 ──それから。


 みずきが、教室の後ろからひょこりと顔を出した。


「なに、青春してんのー?」


 レナも、呆れた顔で腕を組みながら近づいてきた。


「まあ、汗かくのは仕方ねぇよな。

 あたしも体育後、太ももとパンツがケンカしてたし。」


「ケンカ……?」


「わかんねぇかな、貼り付いて、ムレて、べったべたになんだよ!」


 レナは顔を真っ赤にして叫んだ。


 俺は思わず吹き出した。


「……それも、恋の一部ってことで。」


「ふざけんなバーカ!!」


 レナの拳が、俺の肩に軽く飛んできた。


 だけど、

 その拳は、優しかった。


 そのあとも、

 くるみが、つばさが、しおりが、セシリアが。


 それぞれに、汗のこと、涙のこと、

 そして、ちょっとだけ、

「もしかしたらあの日、間に合わなかったかもしれないこと」──


 小さな秘密を、

 ぽつりぽつりと、

 打ち明け始めた。


 俺たちは、笑いながら、

 ときどき涙ぐみながら、

 そのひとつひとつを、大事に受け止めた。


 ──汚いとか、恥ずかしいとか、思わなかった。


 むしろ。


 こんなにも、愛おしいものだなんて、知らなかった。


 だから俺は、誓った。


 この夏。

 この汗も、涙も、

 全部──恋の証として、抱きしめよう。


 たとえ、それが、

 少し臭くても。

 少しべたついても。

 ちょっと漏れてたとしても。


 それは、間違いなく、

 この恋が生きている証だから。


 ──そして、俺たちの夏は、

 まだ始まったばかりだった。

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