【第91話】 『汗の匂い、涙のしみ、そして小さな秘密』
──真夏。
それは、言葉にならないくらい、蒸し暑い午後だった。
教室の窓は開け放たれているけれど、
そこから入ってくるのは、熱気を帯びた生ぬるい風だけだった。
扇風機は、うなりを上げながら虚しく回っている。
黒板の上の温度計は、ぐんぐんと数字を跳ね上げ、
生徒たちはみんな、だらりと机に突っ伏していた。
シャツの背中には汗が滲み、
肘をついた腕にも、じわりと水滴が浮かぶ。
そんななか。
俺、白井悠真は、机の下で何かを見つけた。
放課後。
みんなが部活や帰宅でいなくなった静かな教室。
ふと、椅子の裏。
座面の裏側に、ぽつりと、小さな染みがあった。
「……ん?」
何気なく指で触れる。
まだ、ほんのりと湿っていた。
「……汗、かな。」
そう呟きながら、なんとなく鼻先に近づける。
その瞬間──
ふわり、と漂ってきた香りに、俺は思わず動きを止めた。
汗の匂い、確かにする。
けれど、それだけじゃない。
もっと淡く、もっと切なく、
胸の奥をくすぐるような、微かな甘さと、
かすかに、鉄っぽい、涙にも似た匂い。
「……これ、汗だけじゃない気がする。」
独り言のように呟いた俺に、
後ろから、そっと声がかけられた。
「白井くん、それ──」
振り返ると、そこにはくるみがいた。
いつもと変わらない、ふんわりとした笑顔。
だけど、その瞳の奥には、
いつもより少しだけ、深い色が宿っていた。
くるみは、俺の手元を覗き込み、
小さく、囁くように言った。
「……たぶん、違うよ。」
「違う?」
「うん。汗だけじゃない。」
くるみは、かがみ込んで、
俺の持つ染みのついたハンカチに、そっと顔を近づけた。
一度、鼻を寄せ、
深く、静かに息を吸い込む。
そして──瞳を閉じ、静かに言った。
「涙と、ほんの少し……違うものが混ざってる。」
俺は息を飲んだ。
違うもの。
それが何を意味しているのか、
わかってしまったから。
この季節。
この蒸し暑さ。
この汗と、張りつく制服と、
ぎりぎりの我慢と、
ほんの少しの、間に合わなかった時間。
「……」
言葉を失った俺に、
くるみは微笑んだ。
「でもね。」
「それは、恥ずかしいことじゃないんだよ。」
「身体から溢れたものって、
本当は、心からも溢れたものだから。」
優しい声だった。
一切、責める響きはなかった。
むしろ。
まるで、大切な宝物をそっと包み込むみたいな。
そんな、優しさだった。
俺は、震える手で、そっとハンカチをポケットにしまった。
追及しない。
誰のものかなんて、問わない。
だって、きっと、
それは──その人にとって、
ものすごく、ものすごく、大事な秘密だから。
教室には、誰もいない。
ただ、椅子の裏に小さく残された、
あの日あの時の“しみ”だけが、
そこに、確かに存在していた。
くるみが、そっと俺の肩に手を置いた。
「白井くん。」
「うん。」
「ありがとうね。」
俺は、理由も聞かずに頷いた。
それだけで、いい気がした。
──それから。
俺たちは、静かに教室を後にした。
日はすっかり傾き、
校舎の影が長く伸びている。
蝉の声が、耳を震わせるように響く中。
俺のポケットには、小さな、小さな、
まだ温もりを残した秘密がしまわれていた。
それは、誰かが隠したかったもの。
でも、きっと、誰かが受け止めてほしかったもの。
そして、俺は、知った。
──夏の湿度は、恋の湿度だ。
汗も、涙も、ほんの少しのおしっこも。
全部、誰かを想って、誰かに見せたかった、
精一杯の、恋の痕跡だってことを。
だから、俺は。
この染みも、この香りも、
絶対に──汚したり、馬鹿にしたりしない。
むしろ、大事に抱きしめて、
胸の奥に、そっと、しまっておこう。
誰にも見えないけれど。
誰よりも強く、ここにあるものとして。
それが、俺の。
俺たちの。
夏の恋の、始まりだった。