表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

93/171

【第91話】 『汗の匂い、涙のしみ、そして小さな秘密』

──真夏。


それは、言葉にならないくらい、蒸し暑い午後だった。


教室の窓は開け放たれているけれど、

そこから入ってくるのは、熱気を帯びた生ぬるい風だけだった。


扇風機は、うなりを上げながら虚しく回っている。

黒板の上の温度計は、ぐんぐんと数字を跳ね上げ、

生徒たちはみんな、だらりと机に突っ伏していた。


シャツの背中には汗が滲み、

肘をついた腕にも、じわりと水滴が浮かぶ。


そんななか。


俺、白井悠真は、机の下で何かを見つけた。


放課後。

みんなが部活や帰宅でいなくなった静かな教室。


ふと、椅子の裏。

座面の裏側に、ぽつりと、小さな染みがあった。


「……ん?」


何気なく指で触れる。


まだ、ほんのりと湿っていた。


「……汗、かな。」


そう呟きながら、なんとなく鼻先に近づける。


その瞬間──


ふわり、と漂ってきた香りに、俺は思わず動きを止めた。


汗の匂い、確かにする。


けれど、それだけじゃない。


もっと淡く、もっと切なく、

胸の奥をくすぐるような、微かな甘さと、

かすかに、鉄っぽい、涙にも似た匂い。


「……これ、汗だけじゃない気がする。」


独り言のように呟いた俺に、

後ろから、そっと声がかけられた。


「白井くん、それ──」


振り返ると、そこにはくるみがいた。


いつもと変わらない、ふんわりとした笑顔。

だけど、その瞳の奥には、

いつもより少しだけ、深い色が宿っていた。


くるみは、俺の手元を覗き込み、

小さく、囁くように言った。


「……たぶん、違うよ。」


「違う?」


「うん。汗だけじゃない。」


くるみは、かがみ込んで、

俺の持つ染みのついたハンカチに、そっと顔を近づけた。


一度、鼻を寄せ、

深く、静かに息を吸い込む。


そして──瞳を閉じ、静かに言った。


「涙と、ほんの少し……違うものが混ざってる。」


俺は息を飲んだ。


違うもの。


それが何を意味しているのか、

わかってしまったから。


この季節。

この蒸し暑さ。

この汗と、張りつく制服と、

ぎりぎりの我慢と、

ほんの少しの、間に合わなかった時間。


「……」


言葉を失った俺に、

くるみは微笑んだ。


「でもね。」


「それは、恥ずかしいことじゃないんだよ。」


「身体から溢れたものって、

 本当は、心からも溢れたものだから。」


優しい声だった。

一切、責める響きはなかった。


むしろ。


まるで、大切な宝物をそっと包み込むみたいな。

そんな、優しさだった。


俺は、震える手で、そっとハンカチをポケットにしまった。


追及しない。

誰のものかなんて、問わない。


だって、きっと、

それは──その人にとって、

ものすごく、ものすごく、大事な秘密だから。


教室には、誰もいない。


ただ、椅子の裏に小さく残された、

あの日あの時の“しみ”だけが、

そこに、確かに存在していた。


くるみが、そっと俺の肩に手を置いた。


「白井くん。」


「うん。」


「ありがとうね。」


俺は、理由も聞かずに頷いた。


それだけで、いい気がした。


──それから。


俺たちは、静かに教室を後にした。


日はすっかり傾き、

校舎の影が長く伸びている。


蝉の声が、耳を震わせるように響く中。


俺のポケットには、小さな、小さな、

まだ温もりを残した秘密がしまわれていた。


それは、誰かが隠したかったもの。

でも、きっと、誰かが受け止めてほしかったもの。


そして、俺は、知った。


──夏の湿度は、恋の湿度だ。


汗も、涙も、ほんの少しのおしっこも。

全部、誰かを想って、誰かに見せたかった、

精一杯の、恋の痕跡だってことを。


だから、俺は。


この染みも、この香りも、

絶対に──汚したり、馬鹿にしたりしない。


むしろ、大事に抱きしめて、

胸の奥に、そっと、しまっておこう。


誰にも見えないけれど。

誰よりも強く、ここにあるものとして。


それが、俺の。


俺たちの。


夏の恋の、始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ