【第90話】 『君の全部を、好きになれるように』
朝の空気は、少しずつ透明になっていた。
昨日までの湿った風は、夜の間に吹き払われたらしい。
窓の向こうには、まだ乾ききらない水たまりが、
かすかな陽光を反射してきらきらと光っていた。
俺たちは、ベランダに集まっていた。
洗い立ての布たちが、ずらりと並んで揺れている。
シャツ。
タオル。
体操服。
靴下。
ブラウス。
ハンカチ。
そして、小さな小さな刺繍入りのハンカチまで。
風が吹くたびに、布たちはふわりとたわみ、
どこか懐かしい、甘やかな香りを運んでくる。
汗と、涙と、少しの失敗と。
笑い声と、涙声と、震える声と。
全部が、この布たちの繊維の隙間に、
染み込んで、溶け込んで、
誰にも見えない形で、確かに残っていた。
俺は、ゆっくりと深呼吸した。
肺に入ってきたのは、洗剤と柔軟剤だけじゃない。
あのときの汗の匂い。
あのときの泣きそうな声。
あのとき、抱きしめたくなった肩の震え。
全部だった。
全部が、ここにあった。
そして。
俺は、自分でも驚くほど静かに、けれどはっきりと、言葉を口にした。
「……俺、全部受け止めるよ。」
ヒロインたちが、一斉に俺を見た。
驚いた顔。
戸惑った顔。
でも、どこか、ほんの少しだけ、期待している顔。
俺は、一人一人の目を、順番に見ながら、続けた。
「汗だくで、顔真っ赤になってても。」
「ちょっと泣いちゃってても。」
「恥ずかしい失敗しちゃっても。」
「うっかり……ちょっと漏らしちゃってても。」
ことりが、ぷるぷると震えながら、笑った。
みずきが、腕を組みながら、こっそり涙を拭った。
レナが、そっぽを向きながら、「バーカ」と呟いた。
つばさが、メガネを外して、目を細めた。
しおりが、胸の前で小さく拳を握った。
セシリアが、ゆったりと微笑んだ。
くるみが、ふんわりと目を細めた。
俺は、言った。
「どんな君でも、好きになる。」
「汚れてても、泣いてても、恥ずかしくても、
それをぜんぶ抱きしめて、
それでも、君が君だから、好きだって言いたい。」
──沈黙。
だけど、それは、怖い沈黙じゃなかった。
みんなの顔が、じわじわとほころんでいくのがわかった。
頬を赤く染めながら。
瞳を潤ませながら。
胸にぎゅっと手を当てながら。
そのとき、ことりが、一歩、俺に近づいた。
「じゃあ……」
震える声で。
けれど、確かな声で。
「わたしの全部、……見てくれる?」
みずきも、続いた。
「じゃあ、あたしの……ぐちゃぐちゃなとこも、嫌いになんなよ。」
レナが、照れ隠しのように拳を俺の胸に軽く当てた。
「泣いたら、慰めろよな。」
つばさが、静かに頷く。
「私の不完全さを、データとしてではなく、心で記録してください。」
しおりが、真っ直ぐに見上げてきた。
「失敗しても、……そばにいてくれる?」
セシリアが、そっと微笑みを浮かべる。
「私が、汚れても、壊れても──愛してね。」
くるみが、最後に言った。
「そして……一緒に、濡れて、乾いて、また濡れて。
そうやって、恋を重ねていこうね。」
俺は、力いっぱい頷いた。
「もちろんだ。」
──そのとき。
風が、ふわりと吹いた。
ベランダに干された布たちが、一斉に揺れた。
シャツの裾が、
ハンカチの端が、
タオルの角が、
ブラウスの裾が、
靴下の口が。
揺れて、重なって、舞い上がった。
まるで。
俺たちの想いが、
この風に乗って、空に放たれたみたいだった。
そして。
俺たちは、知っていた。
愛するっていうのは、
完璧なものを抱きしめることじゃない。
むしろ。
汗にまみれたシャツを。
涙でぐしゃぐしゃになったハンカチを。
うっかりついたしみを。
その全部を、愛おしいって思えること。
それが、本当の「好き」なんだって。
──ラストカット。
ベランダに並んだ、三つの布。
そっと干された、小さなハンカチ。
ほつれた靴下。
しみの跡が残るブラウス。
それらが、太陽の光を受けて、
優しく、静かに、
風に揺れていた。
俺のモノローグ:
たとえどれだけ洗っても。
どれだけ干しても。
消えないしみがある。
それは、君が生きた証であり、
泣いた証であり、
恋した証だ。
だから、俺は──
君の全部を、好きになれるように。
何度でも、布を干すよ。
たとえ、それが、
涙で、汗で、少しだけ……失敗のしみでできていたとしても。