【第89話】 『このしみが、私の全部だった』
朝の光が、柔らかく部屋を満たしていた。
窓を開ければ、微かに冷たい風が吹き込んでくる。
夏の終わりを告げる風。
けれど、その空気にはまだ、昨日までの熱がどこか残っていた。
ベランダには、たくさんの布たちが干されていた。
制服のシャツ。
体操服。
ブラウス。
ソックス。
小さなハンカチ。
どれも、昨日まで誰かの体に触れていたものたち。
そして──中には、
かすかに汗を吸い、
涙を吸い、
もしかしたらほんの少しだけ、失敗のしみも残したままの布たちが、
風に揺れていた。
俺は、ベランダに立って、それを眺めていた。
白いシャツの袖が、ふわりと風に踊る。
薄いハンカチが、太陽に透けて揺れる。
そこに、かすかに。
目には見えないけれど、確かにあるものを感じた。
──想い。
ただの水分じゃない。
ただの汚れじゃない。
誰かが必死に耐えた汗。
誰かが流した悔し涙。
誰かが、隠したかった失敗のしみ。
全部、ここに、ある。
俺は、ふと、ことりのブラウスを手に取った。
袖口には、うっすらと滲んだ跡があった。
洗濯しても、漂白しても、完全には消えない小さなしみ。
それを指でそっと撫でる。
少しざらついた感触。
少しだけ残った、柔軟剤と汗の混ざった香り。
「……これが、ことりの全部なんだな。」
自然に、そんな言葉が零れた。
完璧じゃない。
傷一つないわけじゃない。
でも、それでいい。
むしろ、その傷や、汚れや、
全部ひっくるめて。
俺たちは、ここに生きてる。
そんな気がした。
「白井くん……」
振り向くと、そこにはことりが立っていた。
まだ少しだけ寝ぼけた顔で、
それでも、俺が手にしているシャツを見て、はにかんだ。
「それ、私の……」
「ああ。」
俺は頷いた。
「洗ったのに、なんか……まだ残ってるね。」
ことりが、そっと袖に触れた。
「恥ずかしいな。」
ぽつりと呟く。
「でも、嬉しい。」
顔を赤くしながら、ことりは言った。
「……これも、私だったんだって、思えるから。」
隣で、みずきが出てきた。
「おー、朝から甘いなー!」
冗談めかして言うけど、
その手には、自分の体操服があった。
そして、無言で、自分の脇下あたりの小さなしみを見つめていた。
レナも、タオルを持ってベランダに出てきた。
「これ、……あたしの。」
ポンと俺の肩を叩いて、照れくさそうに笑う。
つばさは、真剣な顔で一枚一枚の乾き具合をチェックしていた。
「……完全に消失させるのは不可能。
でも、それでいいんですよね。」
小さな声で、そう言った。
しおりは、そっと手を伸ばし、白いハンカチを手に取った。
それは、彼女が一度泣き崩れたときに握りしめていたものだった。
今も、うっすらと涙の跡が残っていた。
「……もう、大丈夫だよ。」
そう呟いて、しおりはハンカチを胸に抱いた。
セシリアは、風にたなびくレースのハンカチを見上げながら、微笑んだ。
「ねえ、白井くん。」
「ん?」
「乾くって、寂しいことじゃないわ。」
「……え?」
セシリアは、柔らかく笑った。
「乾いても、跡は残るの。
匂いも、色も、思い出も。
ちゃんと、心の中に。」
くるみが、隣で静かに頷く。
「洗っても、干しても、
本当に大事なものは、消えないんです。」
俺は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
──干された布たちは、ただの布じゃない。
それは、みんなの涙であり、
汗であり、
失敗であり、
恋であり、
そして、青春だった。
たとえ、どれだけ洗ったって。
たとえ、どれだけ干したって。
そこに込められた想いだけは、絶対に消えない。
それは、俺たちの中に、ずっと、残り続ける。
俺のモノローグ:
このしみが、私の全部だった。
そう言える強さが、
恥ずかしさを超えたとき。
初めて、恋も、青春も、
本当の意味で、
始まるんだ。
そして、俺たちは、知ってしまった。
消えないしみこそが、
一番大切なものだってことを。
──朝陽に透ける布たちが、
風に揺れながら、優しく歌っていた。