【第87話】 『あの時のしみは、私だった──涙の告白』
夜の教室は、ひっそりと静まり返っていた。
外では、湿った夜風が窓を揺らしている。
誰も声を出さず、ただ、時間だけがゆっくりと流れていた。
六人のヒロインたちと俺。
座布団の上に円を描くように座り、それぞれが胸の奥に何かを抱えたまま、
それでも、このぬるい静寂に身を沈めていた。
──その時だった。
「……ねぇ。」
ぽつりと、小さな声が落ちた。
ことりだった。
彼女は、膝の上で両手をぎゅっと握りしめながら、顔を伏せていた。
肩がわずかに震えている。
「私……」
途切れがちな声。
けれど、誰も急かさなかった。
教室の空気が、凍りついたように静まる。
ことりは、必死に言葉を探していた。
唇がかすかに震え、喉がひくつく。
「……あの日。」
やっと絞り出すように、声を紡ぐ。
「床に……あった、しみ。……あれ、私だったの。」
──瞬間、空気が変わった。
誰も驚いた声をあげなかった。
ただ、ぎゅっと胸を掴まれたみたいに、
全員が、静かに、ことりに目を向けた。
ことりは、続けた。
「体育のあと、すごく、我慢してて。
でも、掃除中に、もう……限界で。
少しだけ、ほんの少しだけ……間に合わなかったの。」
声が震える。
涙が、今にもこぼれそうに滲んでいた。
「必死に隠したの。
誰にも見られたくなくて。
嫌われたくなくて。
軽蔑されたくなくて。」
ことりは、顔を上げた。
頬には、一筋の涙。
それでも、彼女は、笑った。
「でも……白井くんが……何も言わずに、拭いてくれたから。
そのとき、すごく、すごく、嬉しかったの。」
ことりの声が、かすれる。
「……あたし、助けられたんだよ。
あの時、白井くんに。」
みずきが、静かに隣で肩を寄せた。
レナが、そっと視線を逸らして、でも微かに笑った。
つばさが、眼鏡の奥で瞬きしながら、小さく頷いた。
しおりが、ぎゅっと自分の膝を握りしめた。
セシリアが、扇子を胸に当てて、目を閉じた。
くるみが、ただ優しく、ことりを見つめていた。
俺は、言葉が出なかった。
ことりは、泣き笑いのまま、言葉を続けた。
「ほんとは、ずっと、言いたかった。
でも、怖かったの。
言ったら、きっと、嫌われるって。
バカにされるって。」
ことりは、俺をまっすぐに見た。
泣きながら、笑いながら、こんなにも強く。
「でも……白井くんなら、大丈夫って……信じたかった。」
その一言が、胸に深く刺さった。
こんなにも、
こんなにも震える勇気を振り絞って、
自分の一番恥ずかしいところを見せようとしてくれている。
それが、どれだけのことか。
痛いほど、伝わった。
俺は、無言で立ち上がった。
そして、そっとことりの前に膝をついた。
ことりの目が、驚きに見開かれる。
その小さな肩に、そっと手を置いた。
「ことり。」
俺は、まっすぐに言った。
「ありがとう。」
たった、それだけだった。
でも、ことりは。
堰を切ったように、ぽろぽろと涙を零した。
そして、小さな声で、呟いた。
「……好き。」
俺の胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
この子は、俺に「好き」って言うために、
自分の弱さを、全部さらけ出してくれたんだ。
恥ずかしくて、
情けなくて、
でも、どうしても伝えたくて。
だから俺も、
応えなきゃいけない。
俺は、ことりの手を、そっと握った。
ぎゅっと、小さな手が握り返してくる。
それだけで、伝わった。
たとえ、どんな失敗をしても。
どんなに恥ずかしくても。
この手は、絶対に離さない。
俺のモノローグ:
恋って、
強がりじゃない。
かっこいい言葉や、
完璧な笑顔じゃない。
泣きながら、
震えながら、
それでも「好き」って言えること。
弱さを見せてもいいって、
思えること。
それが、きっと。
本当の、恋なんだ。
──夜風が、教室を吹き抜けた。
乾かないしみは、
もう、誰も責めなかった。
それは、恋の証だった。
心からこぼれた、
一番、まっすぐな想いだった。
そして俺たちは、
その全部を、
抱きしめることを選んだんだ。