【第86話】 『布に沁みた想いと、乾かない恋』
夜の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓の外では、まだどこかに残った水たまりが、夜風に波紋を浮かべている。
教室の中にいるのは、俺と、彼女たちだけだった。
床に敷かれた座布団に、ぽつぽつと座る六人のヒロインたち。
ことり、みずき、レナ、つばさ、しおり、セシリア。
そして、少し離れた場所にくるみ。
夕方にあった出来事──教室の片隅に落ちていた小さなシミ。
誰も何も言わなかったけど、
誰もが何かを抱えていることは、痛いほど伝わってきた。
そして今、その「何か」が、そっと、言葉になろうとしていた。
「ねえ、みんな。」
くるみが、ぽつりと切り出す。
焚き火を囲むように、小さな声が夜に滲んだ。
「もしも、だけど。
あのとき、こぼれたのが……汗でも涙でもなくて。
もっと恥ずかしいものだったとしても。」
誰も、声を挟まなかった。
くるみは続ける。
「それでも、許してもらえるって……信じられる?」
──重い沈黙。
それを破ったのは、ことりだった。
「……信じたい、って思った。」
ことりの手が、膝の上でぎゅっと握られていた。
「ほんとは、すごく、怖いよ。
こんなこと知られたら、嫌われるって思う。
軽蔑されるかもしれないって、思っちゃう。」
声が、震えている。
「でも……それでも。
私の全部を、受け止めてほしいって、思った。」
みずきが、俯きながら呟いた。
「……わかる。
あたしも、もし好きな人になら……
ちょっとくらい、汚くても、情けなくても、
見てほしい、って、思ったかも。」
レナが、わざとぶっきらぼうに言った。
「俺様系でいたいけどさ。
けど、ほんとは……
『しょうがねぇな』って、笑ってほしいんだよ。
……どんな失敗してもさ。」
つばさが、眼鏡の奥で瞬きをした。
「合理的な思考だけでは……片付かない感情。
汚れや失敗にすら、意味を見出してしまう自分に……戸惑っている。」
しおりが、小さな声で続けた。
「……守りたかった。
自分で、自分の恥を、守りたかった。
でも……守るより、見せたいって思っちゃった。
好きな人には、全部。」
セシリアが、夜の闇に微笑みを浮かべた。
「恥ずかしいものも、情けないものも、全部、晒して、
それでも愛してくれる人がいたら。
それが、最高の恋だと思うのよ。」
俺は、ただ黙って、聞いていた。
教室の空気が、少しずつ変わっていく。
重く張り詰めていた沈黙が、
少しだけ、やわらかく、あたたかく、ほどけていく。
そして、くるみが言った。
「身体からあふれるものって……心からもあふれるものなんだと思う。」
「汗も、涙も、少しのおしっこだって。
全部、恥ずかしいけど……
本当は、誰かに受け止めてもらいたい、って思ってる。」
誰も、否定しなかった。
誰も、「そんなことない」なんて言わなかった。
俺のモノローグ:
布に沁みたもの。
それは、単なる水分じゃない。
汗も、涙も、
ほんのちょっとの、失敗も。
全部が、心からこぼれたものだった。
誰にも言えないまま、
誰にも見せたくないまま、
そっと布に吸い込まれていった、
小さな、小さな、恋心。
(……そんなの、嫌いになれるわけないだろ。)
俺は、心の中で強く呟いた。
むしろ。
そんなふうに、
不器用で、恥ずかしくて、必死な彼女たちだからこそ、
俺は、もっともっと、大切にしたいって思った。
──教室の時計が、静かに針を進めた。
夜が、深まっていく。
けれど。
この夜は、きっと忘れない。
みんなが、自分の弱さを、
少しだけ、言葉にしてくれた夜。
そして、俺も。
その全部を、受け止めたいって、
心から思えた夜。
──窓の外。
濡れた校庭に、月の光が滲んでいた。
それは、まるで。
乾かないしみが、
そっと夜空に溶けていくようだった。