【第85話】 『好きな人になら、知られてもいいって思った』
夜の帳が降りていた。
蝉の声も止み、街灯のオレンジが静かにアスファルトを照らしている。
雨上がりの匂いがまだかすかに残る帰り道を、俺――白井悠真は、一人歩いていた。
心の中には、今日一日の情景がずっと残っていた。
教室で見つけた小さなシミ。
誰も「自分だ」と言わなかったけど、誰も「違う」とも言い切れなかった、あの空気。
追及なんてしたくなかった。
誰のでもよかった。
それより、あの場でみんなが傷つかないことの方がずっと大事だった。
そんなふうに思って、雑巾でそっと拭ったあの瞬間。
たぶん俺は、ほんの少しだけ、誰かと心を繋げたんだと思う。
──と、角を曲がったところで。
「白井くん。」
声がかかった。
振り向くと、そこにはしおりがいた。
制服のリボンを緩め、カーディガンを羽織った姿。
長い黒髪が、湿気を帯びてほんのりとウェーブしている。
「しおり……?」
こんな時間に、一人で。
その事実だけで、何かを感じた。
「少し、話してもいい?」
夜風が、ふたりの間を吹き抜けた。
頷くと、しおりはゆっくりと俺に近づき、並んで歩き出した。
人気のない住宅街。
車の音も、虫の声もない。
ただ、ふたりの靴音だけが、乾いたアスファルトに吸い込まれていった。
「今日のこと、だけど。」
ぽつりと、しおりが口を開いた。
「……ごめんね。」
「え?」
「迷惑、だったでしょ。あんなの。」
違う。
違うんだよ。
でも、俺はすぐに言葉を返せなかった。
しおりは、顔を伏せたまま、歩き続ける。
「……もし、」
立ち止まった。
そして、小さな声で続けた。
「もし、あのシミが……私だったら。」
「……」
「どう思う?」
風が止まった。
しおりの肩が、かすかに震えていた。
──怖いんだ。
拒絶されるのが。
嫌われるのが。
軽蔑されるのが。
そんな気持ちが、痛いほど伝わってきた。
だから俺は、迷わず言った。
「嫌いになんか、なるわけないだろ。」
しおりが、顔を上げた。
目元が、ほんの少し、濡れていた。
「……ほんとに?」
「ああ。」
即答だった。
疑う余地なんか、どこにもなかった。
「……だってさ。」
俺は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「汗とか、涙とか、そんなの、みんな生きてたら当たり前に出るもんだろ。
好きになった人が、そんなことで嫌いになるわけない。」
しおりは、ぽかんと俺を見つめていた。
「それに、」
俺は、少し照れながら言葉を付け加えた。
「今日の教室で、お前たちが黙ってたことも、ちゃんとわかってたよ。
自分がそうかもしれないって思っても、誰も責めないために、黙ってたんだろ。」
「……」
「それって、すごいことだと思う。
恥ずかしさに負けないで、誰かのために、何も言わなかったんだ。
そんな優しいやつを、嫌いになるわけないだろ。」
しおりの目から、ぽろりと涙が零れた。
「……バカ。」
「え?」
「……そういうとこ、ほんとバカ。」
ぐしぐしと涙を拭いながら、しおりは笑った。
「でも、ありがとう。」
声が、かすれていた。
そして、しおりはそっと俺の袖を掴んだ。
「ねえ、白井くん。」
「ん?」
「私ね。」
「……好きな人になら、見られてもいいって、思っちゃった。」
「……」
「どんなに恥ずかしくても。
どんなに情けなくても。
好きな人になら、全部、知ってほしいって思ったの。」
俺は、何も言えなかった。
ただ、しおりの手の温度を感じながら、
心臓の音が、静かに速くなるのを感じていた。
──夜風が、ふわりと吹いた。
しおりの髪が揺れた。
その匂いが、やさしく鼻をくすぐった。
甘く、切なく、湿った匂い。
俺たちの間には、まだ言葉にできないものがあった。
でも、それでも、確かに伝わった。
この子は、
自分の一番恥ずかしい部分すら、
俺に知ってほしいって思ってくれた。
それが、どれほどの勇気だったか。
それが、どれほどの愛だったか。
俺には、痛いほどわかっていた。
──気がつけば、
ふたりは、そっと手を繋いでいた。
強くもない。
弱くもない。
ただ、確かに、繋がっていた。
俺のモノローグ:
好きになるって、きっと。
かっこいい姿だけを見せることじゃない。
完璧な自分を演じることじゃない。
弱さも、情けなさも、全部。
さらけ出して。
受け止めてもらって。
それでも、そばにいたいって思うこと。
それが、恋なんだ。
たとえ、どんなに恥ずかしい想いでも。
たとえ、どんなに情けない瞬間でも。
好きな人になら、知られてもいい。
むしろ、知ってほしいって、思える。
それが、きっと。
本当の、恋なんだ。
──空を見上げた。
星が、少しだけ滲んで見えた。
それでも。
それでも、きっと。
この手だけは、離さない。