表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

87/171

【第85話】 『好きな人になら、知られてもいいって思った』

夜の帳が降りていた。


蝉の声も止み、街灯のオレンジが静かにアスファルトを照らしている。

雨上がりの匂いがまだかすかに残る帰り道を、俺――白井悠真は、一人歩いていた。


心の中には、今日一日の情景がずっと残っていた。

教室で見つけた小さなシミ。

誰も「自分だ」と言わなかったけど、誰も「違う」とも言い切れなかった、あの空気。


追及なんてしたくなかった。

誰のでもよかった。

それより、あの場でみんなが傷つかないことの方がずっと大事だった。


そんなふうに思って、雑巾でそっと拭ったあの瞬間。


たぶん俺は、ほんの少しだけ、誰かと心を繋げたんだと思う。


──と、角を曲がったところで。


「白井くん。」


声がかかった。

振り向くと、そこにはしおりがいた。


制服のリボンを緩め、カーディガンを羽織った姿。

長い黒髪が、湿気を帯びてほんのりとウェーブしている。


「しおり……?」


こんな時間に、一人で。

その事実だけで、何かを感じた。


「少し、話してもいい?」


夜風が、ふたりの間を吹き抜けた。


頷くと、しおりはゆっくりと俺に近づき、並んで歩き出した。


人気のない住宅街。

車の音も、虫の声もない。

ただ、ふたりの靴音だけが、乾いたアスファルトに吸い込まれていった。


「今日のこと、だけど。」


ぽつりと、しおりが口を開いた。


「……ごめんね。」


「え?」


「迷惑、だったでしょ。あんなの。」


違う。

違うんだよ。

でも、俺はすぐに言葉を返せなかった。


しおりは、顔を伏せたまま、歩き続ける。


「……もし、」


立ち止まった。

そして、小さな声で続けた。


「もし、あのシミが……私だったら。」


「……」


「どう思う?」


風が止まった。


しおりの肩が、かすかに震えていた。


──怖いんだ。


拒絶されるのが。

嫌われるのが。

軽蔑されるのが。


そんな気持ちが、痛いほど伝わってきた。


だから俺は、迷わず言った。


「嫌いになんか、なるわけないだろ。」


しおりが、顔を上げた。


目元が、ほんの少し、濡れていた。


「……ほんとに?」


「ああ。」


即答だった。


疑う余地なんか、どこにもなかった。


「……だってさ。」


俺は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。


「汗とか、涙とか、そんなの、みんな生きてたら当たり前に出るもんだろ。

 好きになった人が、そんなことで嫌いになるわけない。」


しおりは、ぽかんと俺を見つめていた。


「それに、」


俺は、少し照れながら言葉を付け加えた。


「今日の教室で、お前たちが黙ってたことも、ちゃんとわかってたよ。

 自分がそうかもしれないって思っても、誰も責めないために、黙ってたんだろ。」


「……」


「それって、すごいことだと思う。

 恥ずかしさに負けないで、誰かのために、何も言わなかったんだ。

 そんな優しいやつを、嫌いになるわけないだろ。」


しおりの目から、ぽろりと涙が零れた。


「……バカ。」


「え?」


「……そういうとこ、ほんとバカ。」


ぐしぐしと涙を拭いながら、しおりは笑った。


「でも、ありがとう。」


声が、かすれていた。


そして、しおりはそっと俺の袖を掴んだ。


「ねえ、白井くん。」


「ん?」


「私ね。」


「……好きな人になら、見られてもいいって、思っちゃった。」


「……」


「どんなに恥ずかしくても。

 どんなに情けなくても。

 好きな人になら、全部、知ってほしいって思ったの。」


俺は、何も言えなかった。


ただ、しおりの手の温度を感じながら、

心臓の音が、静かに速くなるのを感じていた。


──夜風が、ふわりと吹いた。


しおりの髪が揺れた。

その匂いが、やさしく鼻をくすぐった。


甘く、切なく、湿った匂い。


俺たちの間には、まだ言葉にできないものがあった。

でも、それでも、確かに伝わった。


この子は、

自分の一番恥ずかしい部分すら、

俺に知ってほしいって思ってくれた。


それが、どれほどの勇気だったか。


それが、どれほどの愛だったか。


俺には、痛いほどわかっていた。


──気がつけば、

ふたりは、そっと手を繋いでいた。


強くもない。

弱くもない。


ただ、確かに、繋がっていた。


俺のモノローグ:


好きになるって、きっと。


かっこいい姿だけを見せることじゃない。

完璧な自分を演じることじゃない。


弱さも、情けなさも、全部。

さらけ出して。

受け止めてもらって。

それでも、そばにいたいって思うこと。


それが、恋なんだ。


たとえ、どんなに恥ずかしい想いでも。

たとえ、どんなに情けない瞬間でも。


好きな人になら、知られてもいい。


むしろ、知ってほしいって、思える。


それが、きっと。

本当の、恋なんだ。


──空を見上げた。


星が、少しだけ滲んで見えた。


それでも。

それでも、きっと。


この手だけは、離さない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ