表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

86/171

【第84話】 『秘密のしみ、誰にも言えないまま』

放課後の教室は、妙に湿った空気を纏っていた。

外はまだ雨上がりの匂いを引きずっていて、開け放たれた窓からは濡れたアスファルトの匂いが漂ってくる。


俺――白井悠真は、教室の床を雑巾で拭きながら、無言で考えていた。


──誰のものだったんだろう。


あの小さなしみ。

消えかけた、でも確かに残っていた淡い跡。

汗にしては甘すぎる。

涙にしては多すぎる。


あれが何だったのか、俺はもう知っている。

だけど、それを言葉にすることはできない。


ふと、目線を上げると、ヒロインたちが教室の隅に集まって、気まずそうに立っていた。


ことりはスカートの裾をぎゅっと握り、みずきは腕を組んだまま口をへの字に曲げ、レナは天井を見上げてそっぽを向き、つばさはメガネの位置を直しながら俯き、しおりは何も言わず窓の外を眺め、セシリアは扇子で自分の顔を仰いでいた。

そして、くるみだけが、静かに俺を見ていた。


誰も、口を開かない。

けれど、空気にはっきりと緊張が満ちていた。


俺は雑巾をゆっくりと絞り、バケツの中に戻した。

水面に小さな波紋が広がる。


「……拭き終わったよ。」


軽く、そう告げた。


誰も返事をしなかった。


それでもいい。


これ以上、追及するつもりはない。

そんなこと、するわけがない。


だって──


誰よりも、彼女たちが一番、恥ずかしがっている。

誰よりも、自分を責めている。


そんな顔を、これ以上見たくなかった。


「なぁ」


俺は雑巾を絞りながら、なるべく明るい声で言った。


「今日、蒸し暑かったよな。

 そりゃ、汗も涙も、いろいろこぼれるだろ。

 べつに、そんなの、誰も責めたりしねぇよ。」


ふと、ことりがこちらを見た。

その目は、うっすらと揺れていた。


みずきが、ぎこちなく笑った。


「……そ、そうだよな! 汗だよな、汗! あはは!」


レナが、天井を見たまま、ぽつりと呟く。


「……まあ、誰だって、たまにはな。」


つばさは、小さくメガネを押し上げながら。


「……人体の自然現象ですから……問題はありません。」


しおりは、黙ったまま、窓の外を見つめ続けている。

でも、その肩はわずかに震えていた。


セシリアは、いつもの余裕の笑みを浮かべながら。


「日本の梅雨は、情緒も布地も湿らせるものよ。」


そして、くるみだけが。

何も言わず、ただ微笑んだ。


ありがとう、って。

そんなふうに、唇が動いた気がした。


俺は、雑巾をバケツに沈めたまま、彼女たちを見渡した。


(みんな、本当は怖いんだ。)


バレたら嫌われるんじゃないか。

引かれるんじゃないか。

軽蔑されるんじゃないか。


そう思って、

だから、何も言えない。


だけど。


違うんだよ。


誰だって、失敗する。

誰だって、弱い。

誰だって、隠したいことがある。


だから。


俺は、何も言わない。

ただ、そっと拭くだけだ。


「……なぁ。」


俺は、もう一度、声をかけた。


「今日も一日、おつかれさま。」


たったそれだけ。

それだけを言った。


ことりが、ぱちぱちと瞬きをした。

みずきが、驚いた顔をした。

レナが、そっぽを向いたまま、わずかに肩を揺らした。

つばさが、メガネを外して目頭を押さえた。

しおりが、唇を噛んだ。

セシリアが、ゆっくりと扇子を閉じた。

くるみが、静かに、だけど力強く、うなずいた。


そして、誰も、何も言わなかった。


だけど。


その沈黙は、優しかった。

あたたかかった。


そして、なにより。


涙がにじむくらい、愛しかった。


──帰り道。


俺は、空を見上げた。

雲はすっかり晴れて、夏の夕陽が眩しかった。


今日、教室であったことは、

誰にも言わない。

一生、胸の奥にしまっておこう。


だってあれは。

誰かの弱さを、そっと包み込む、大事な出来事だったから。


俺のモノローグ:


恋って、たぶん。


かっこいい言葉を並べたり、

派手な告白をしたり、

特別なデートをしたり、


そんなことじゃなくて。


誰かの小さな失敗に、

誰かの隠したい傷に、


そっと寄り添えることなんじゃないかって、思う。


誰にも言えないしみ。


誰にも見せたくなかった涙。


それを、「大丈夫だよ」って抱きしめる勇気。


それが、たぶん。


本当に、誰かを好きになるってことなんだ。


──遠くで蝉が鳴いていた。


夏は、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ