【第84話】 『秘密のしみ、誰にも言えないまま』
放課後の教室は、妙に湿った空気を纏っていた。
外はまだ雨上がりの匂いを引きずっていて、開け放たれた窓からは濡れたアスファルトの匂いが漂ってくる。
俺――白井悠真は、教室の床を雑巾で拭きながら、無言で考えていた。
──誰のものだったんだろう。
あの小さなしみ。
消えかけた、でも確かに残っていた淡い跡。
汗にしては甘すぎる。
涙にしては多すぎる。
あれが何だったのか、俺はもう知っている。
だけど、それを言葉にすることはできない。
ふと、目線を上げると、ヒロインたちが教室の隅に集まって、気まずそうに立っていた。
ことりはスカートの裾をぎゅっと握り、みずきは腕を組んだまま口をへの字に曲げ、レナは天井を見上げてそっぽを向き、つばさはメガネの位置を直しながら俯き、しおりは何も言わず窓の外を眺め、セシリアは扇子で自分の顔を仰いでいた。
そして、くるみだけが、静かに俺を見ていた。
誰も、口を開かない。
けれど、空気にはっきりと緊張が満ちていた。
俺は雑巾をゆっくりと絞り、バケツの中に戻した。
水面に小さな波紋が広がる。
「……拭き終わったよ。」
軽く、そう告げた。
誰も返事をしなかった。
それでもいい。
これ以上、追及するつもりはない。
そんなこと、するわけがない。
だって──
誰よりも、彼女たちが一番、恥ずかしがっている。
誰よりも、自分を責めている。
そんな顔を、これ以上見たくなかった。
「なぁ」
俺は雑巾を絞りながら、なるべく明るい声で言った。
「今日、蒸し暑かったよな。
そりゃ、汗も涙も、いろいろこぼれるだろ。
べつに、そんなの、誰も責めたりしねぇよ。」
ふと、ことりがこちらを見た。
その目は、うっすらと揺れていた。
みずきが、ぎこちなく笑った。
「……そ、そうだよな! 汗だよな、汗! あはは!」
レナが、天井を見たまま、ぽつりと呟く。
「……まあ、誰だって、たまにはな。」
つばさは、小さくメガネを押し上げながら。
「……人体の自然現象ですから……問題はありません。」
しおりは、黙ったまま、窓の外を見つめ続けている。
でも、その肩はわずかに震えていた。
セシリアは、いつもの余裕の笑みを浮かべながら。
「日本の梅雨は、情緒も布地も湿らせるものよ。」
そして、くるみだけが。
何も言わず、ただ微笑んだ。
ありがとう、って。
そんなふうに、唇が動いた気がした。
俺は、雑巾をバケツに沈めたまま、彼女たちを見渡した。
(みんな、本当は怖いんだ。)
バレたら嫌われるんじゃないか。
引かれるんじゃないか。
軽蔑されるんじゃないか。
そう思って、
だから、何も言えない。
だけど。
違うんだよ。
誰だって、失敗する。
誰だって、弱い。
誰だって、隠したいことがある。
だから。
俺は、何も言わない。
ただ、そっと拭くだけだ。
「……なぁ。」
俺は、もう一度、声をかけた。
「今日も一日、おつかれさま。」
たったそれだけ。
それだけを言った。
ことりが、ぱちぱちと瞬きをした。
みずきが、驚いた顔をした。
レナが、そっぽを向いたまま、わずかに肩を揺らした。
つばさが、メガネを外して目頭を押さえた。
しおりが、唇を噛んだ。
セシリアが、ゆっくりと扇子を閉じた。
くるみが、静かに、だけど力強く、うなずいた。
そして、誰も、何も言わなかった。
だけど。
その沈黙は、優しかった。
あたたかかった。
そして、なにより。
涙がにじむくらい、愛しかった。
──帰り道。
俺は、空を見上げた。
雲はすっかり晴れて、夏の夕陽が眩しかった。
今日、教室であったことは、
誰にも言わない。
一生、胸の奥にしまっておこう。
だってあれは。
誰かの弱さを、そっと包み込む、大事な出来事だったから。
俺のモノローグ:
恋って、たぶん。
かっこいい言葉を並べたり、
派手な告白をしたり、
特別なデートをしたり、
そんなことじゃなくて。
誰かの小さな失敗に、
誰かの隠したい傷に、
そっと寄り添えることなんじゃないかって、思う。
誰にも言えないしみ。
誰にも見せたくなかった涙。
それを、「大丈夫だよ」って抱きしめる勇気。
それが、たぶん。
本当に、誰かを好きになるってことなんだ。
──遠くで蝉が鳴いていた。
夏は、まだ始まったばかりだった。