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【第83話】 『こぼれたのは、汗だけじゃなかった』

──放課後。


むわり、と。

湿った空気が、教室の床を這うように漂っていた。


蒸し暑い。

梅雨が明けたというのに、校舎の中はまるで湿気の牢獄だった。


窓を開けても、ぬるい風が吹き込むだけ。

シャツの背中にじっとり汗がにじみ、座っていた椅子の跡が肌に張りつく感覚がいやでも生々しい。


「……暑っ」


俺――白井悠真は、ぐったりと机に突っ伏していた。


掃除当番だったはずが、暑さにやられて思考停止。

仕方なくモップを持って、床を拭きながら、ぼんやりと教室を歩いていた、そのときだった。


──ぺたり。


床に、小さな、淡いしみがあった。


(……ん?)


じっとり滲んだそれは、汗が滴ったあとみたいに見えた。

だけど、何かが違った。


拭き取ろうと雑巾を当てたとき、ふっと鼻先をかすめた匂い。

汗の酸っぱいにおいでもない。

教室の湿気とも違う。

もっと……甘くて、少しだけ、塩辛い。


妙に、生っぽい匂い。


(これ……本当に、汗か?)


そんな疑念が頭をよぎったとき。


「……それ、たぶん違うよ。」


すぐ隣で、静かな声がした。


振り向くと、そこに立っていたのはくるみだった。

白いハンカチを胸に当て、じっと床のしみを見つめている。


「ちがう、って……」


「汗だけじゃない。」


彼女は囁くように言った。

その顔は、どこか曇っていた。


「……これ、身体からあふれたものだけど。きっと、心からも、あふれたんだよ。」


意味を、すぐには飲み込めなかった。

だけど、その言葉の重みは、やけに胸に響いた。


誰かが。

ここで。

きっと、泣くように、こぼしてしまった。


それは、恥ずかしくて、言えないことかもしれない。

だけど。

それを隠すように、静かに座り直して、何もなかった顔をして、ここを去った。


そう思ったら。


「……拭くよ。」


自然と、そんな言葉が出た。


くるみは、ただ黙って、うなずいた。


雑巾を、そっとしみに当てる。

ぬるい水分が、布に吸い取られていく。


ほんの少し、あたたかかった。

まるで、誰かの震える心に触れたみたいだった。


拭きながら、俺は思う。


(誰かが、こんなにも、頑張ってたんだ。)


(誰にも気づかれずに、誰にも知られずに……泣きたくなるくらい、頑張ってたんだ。)


──ガラリ。


教室のドアが開く音。


振り返ると、ヒロインたちが、ぞろぞろと戻ってきていた。


ことり。

みずき。

レナ。

つばさ。

しおり。

セシリア。


そして、くるみ。


誰も、しみのことには触れなかった。


けれど、全員がどこかぎこちない笑顔を浮かべ、

全員が少しずつ、目を逸らしていた。


「……掃除、大変だね」


ことりがぽつりと呟く。


「ま、まあ、しゃーねぇだろ! 暑いしな!」


レナが勢いよく続ける。


「汗だらだらだし、もー、みんなビショビショだよ~」


みずきも、わざと明るく笑った。


だけど。

その声の奥には、どこか張りつめたものがあった。


誰も、「あれは誰のしみだったのか」を聞かない。

誰も、「違う」とも、「自分だ」とも言わない。


それが。


たまらなく、愛しかった。


俺のモノローグ:


誰にも言えない失敗。

隠したい弱さ。

それでも、誰かに気づいてほしいって願い。


たった一滴のしみ。


だけど、それは。

誰かが、必死に生きてる証だった。


そしてたぶん。


俺たちが本当に惹かれるのは。

完璧な笑顔でも、作られた言葉でもない。


こんなふうに、

こぼれてしまったものに、\n一番、心を揺さぶられるんだ。


──ふと、教室の隅。

干されたタオルたちが、ゆらりと揺れた。


その風に、かすかに、甘く、ほろ苦い、湿った香りが混ざっていた。


誰のものか、わからない。

だけど。


その匂いは。


まぎれもなく、

「好き」と「生きてる」を、

静かに、でも確かに、教えてくれていた。

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