【第80話】 『靴下の裏に、気づかれたくない想いがある』
──夕暮れ。
教室には、乾ききらない湿った空気と、カーテン越しのオレンジ色が満ちていた。
俺――白井悠真は、今日も例の“靴下干し職人”として、教室に忘れられた布たちを回収していた。
……とはいえ、最近は忘れたふりをして置いていくやつが多い気もするけど。
その中に、見慣れたものがあった。
白地に、薄く桜色のラインが縫い込まれた、細身の靴下。
ことりのだった。
拾い上げたとき。
ふと、裏返った布の内側に、微かに滲んだ刺繍が目に入った。
──ハートのマーク。
それは、かかと近く。
普段絶対に見えない位置に、そっと縫い込まれていた。
そして、何度も履かれ、洗われ、少し擦り切れた糸は、今にも消えそうに淡かった。
「……これ、ことりの……」
小さく呟いたときだった。
教室の入り口から、ひょこりとことりが顔を覗かせた。
「あっ……悠真くん、それ……」
彼女は、わずかに頬を赤らめながら、こちらに歩み寄ってくる。
そして俺が靴下の裏、つまりハートの刺繍を見ていたことに気づくと、
まるでバレたくなかった秘密が暴かれたみたいに、目を丸くして、立ち尽くした。
「……見た、よね」
声はかすれていた。
\n(逃げようとすることりを、俺は静かに呼び止めた。)
「ことり。」
「……っ」
「これ、さ。誰にも見えない場所に、わざわざ刺繍してたんだよな」
ことりは小さく、こくりと頷いた。
その指先が、スカートの裾をぎゅっと握っている。
「……誰にも、見られないから。だから……刺したの」
消えかけたハート。
擦り切れた糸。
それでも、そこに込めた想いは、確かに残っていた。
「そっか。」
俺は、ことりの靴下を、優しく持ち直した。
そして、できるだけ穏やかに、微笑んで言った。
「でもさ。見つけちゃったよ。」
ことりがはっと顔を上げた。
その瞳には、不安と期待が、入り混じった光があった。
俺は、続ける。
「たぶん、それ……俺に向けたやつだろ?」
……沈黙。
ほんの数秒だけ、空気が、静かに震えた気がした。
ことりは、唇を震わせながら、うつむいた。
そして、か細い声で答えた。
「……うん。」
たったひとこと。
だけど、その重みは、たぶん、俺が今まで聞いたどんな告白よりも、まっすぐだった。
誰にも見られない場所に、想いを隠した。
でも、誰かに、ひとりだけに、気づいてほしかった。
それが、この小さなハートに込めた、ことりの本音だった。
俺は、そっと彼女に靴下を返した。
ことりは、両手で大事そうにそれを受け取る。
「……ちゃんと、干してやるよ。」
俺の声に、ことりは目を瞬かせた。
そして、笑った。
恥ずかしそうに、でもとても、うれしそうに。
「……ありがとう、悠真くん。」
ベランダに出る。
オレンジ色に染まった空の下、ことりの靴下を、そっとロープにかける。
風が吹き抜けた。
白い布が揺れた。
その内側には、確かに、あのハートの刺繍が、そっと生きていた。
俺のモノローグ:
足元に隠していた恋。
擦り切れた、でも消えなかった気持ち。
\n気づいてよかった。
気づかせてくれて、ありがとう。
恋って、たぶん、\n誰にも見せないところに、一番宿るんだ。
だから俺はこれからも、
誰かの見えない想いを、\nちゃんと受け止められるやつでありたい。
たとえそれが、
靴下の裏に縫われた、\n消えかけた小さなハートだったとしても。
──夕陽の中、
干された布たちが、今日もそっと、揺れていた。