【第77話】 『この布、私のだったかもしれない……』
つばさは静かに鼻先を寄せ、吊るされた一足の靴下に集中していた。
ベランダの朝の空気はまだ涼しく、風が靴下たちを揺らしていたが、彼女の表情はまるで実験室の研究者のように真剣だった。
「……香りの層が多すぎるわね」
白井悠真はその横で、ごくりと息をのんだ。
「層って……匂いって、重なってるの?」
つばさは頷いた。
「汗、洗剤、繊維の組成、空気中の湿気……そして、心理的なフェロモン。全部が混ざり合って、この“布の個性”になるの」
そう言って彼女は立ち上がり、手に持っていたノートをパタンと閉じた。
「結論から言うと――判別不能ね」
「……え?」
「誰の靴下か、確定できない。匂い成分が互いに干渉してしまってる。もしかすると、この布には“複数の想い”が同時に染み込んでるのかもしれない」
悠真は靴下を見た。
ただの白い、くるぶし丈の布。
それなのに、今はまるで“謎”だった。
そして、教室のドアが開いた。
「おはよう……あ」
最初に来たのはことり。
彼女は一目で靴下に気づき、息を呑んだ。
「それ……まだ、干してあるんだ……」
「つばさが調べてた。結局、誰のかはわからなかった」
ことりは靴下に近づき、そしてそっと口を開いた。
「……でも、懐かしい気がするの。なんだろう、この匂い……」
そのまま彼女は指先で靴下の端を撫でた。
「……やっぱり、私の……かもしれない」
「おいおい、昨日は違うって言ってたじゃん」
振り向くと、みずきが腕を組んでこちらを見ていた。
「てか、それあたしのじゃないの? ほら、なんか、あたしの足汗っぽい気がするし!」
「足汗っぽいって……どんな主張?」
「いやマジで!なんか……親指の付け根のあたりの布、少し厚めだし……」
「それ、私の特徴にも当てはまるんだけど」
今度はしおりが割って入った。
「私、左右の足で微妙に着地角度違うから、片方だけ摩耗しやすいのよ。その減り方、私っぽい」
「摩耗の仕方で自己主張するなよ」
すると、セシリアがふわりと現れた。
「でもこの香り……フランスで嗅いだ、田舎の花屋の奥の靴下棚の匂いに似てるわ……」
「どこ情報だよ」
さらに、くるみが最後に到着。
「……わかります。これは、“複数人の未練と希望”が混ざった香りです」
その言葉に、全員が息をのんだ。
「未練と……希望?」
くるみは頷いた。
「きっとこれは、誰かひとりのものじゃない。いえ、正確には……“誰かになってほしいという願い”が染みついている。だから、みんなが自分のだと思いたくなる」
ことりがはっとして言う。
「……誰かに、気づいてほしい。そう思いながら脱いだ靴下だったら……」
みずきが口をつぐみ、しおりは目を伏せ、セシリアがうっすらと微笑んだ。
「想われたいって、こんなに……匂いに出るんだね」
つばさが最後にぽつりと言う。
「無意識の匂いが、いちばん恋に近いのかも」
誰もが、頷いた。
そしてその夜。
悠真はひとり、あの靴下をもう一度手に取った。
確かに、それはただの布だ。
でも今は、誰かの、願いの残り香が染み込んでいる気がした。
もしかしたら。
これを干すという行為が、その気持ちを認める儀式なのかもしれない。
だから――
俺はその靴下を、もう一度、ベランダのロープに吊るした。
風が吹いた。
布が揺れた。
誰のでもない、けれど。
誰かの想いが、そこにあった。
そして、俺の中にも、またひとつ――
わからない“匂いの記憶”が残っていった。