【第76話】 『靴下を、干すという儀式』
翌朝。
教室の窓際にはまだ、昨日の夕陽の余韻がうっすらと残っていた。
だが、それよりもずっと気になっていたのは――俺のバッグの中だった。
白い靴下。
誰のものか分からないまま、なぜか持ち帰ってしまった“あれ”。
乾いたのか乾いていないのかも分からないまま、
妙に捨てられず、そして妙に、あたたかくて、柔らかくて。
俺は朝から、頭を抱えていた。
「……干そう。とにかく、干すしかない」
ふとした決断だった。
いや、正確に言えば、“干してしまった”が正しい。
自宅の小さなベランダ。物干しロープに、ぽつんと一枚の靴下を吊るす。
白地に、微かに擦れたかかとの布。
くるぶし丈。
わずかに伸びたゴム口。
(なんで俺、朝から靴下干してんだ……しかも、女子の)
それでも、なぜか“いけないこと”をしている感じはなかった。
むしろ、何かを預かっているような、不思議な責任感。
そんな俺の思いをあざ笑うように、ドアが開いた。
「……おはよう、悠真くん」
ことりだった。
そして彼女は、ベランダに視線を向けるなり――ぴたりと止まった。
「……それ……」
「あ、えっと、昨日の。洗っちゃってさ。なんか、うっかり、な」
ことりは沈黙したまま、靴下をじっと見つめた。
やがて小さく、ぽつりと呟いた。
「……足の匂いって……恋の、末端の証だよね……」
「え?」
「……な、なんでもないっ!」
そう言ってそそくさと教室へ逃げるように戻っていった。
俺はしばらく、その背中と、靴下の間で視線を往復させた。
まるで、彼女の何かがあの布に残っていたような――そんな気がした。
その日の放課後。
俺は、ベランダの物干しに“例の靴下”を干し直していた。
それを見ていたセシリアが、不意に言った。
「ねえ、白井くん。知ってる?
パンツより先に脱ぐもの……それが、靴下よ」
「は、はあ?」
「つまり、靴下には“恋の予兆”が宿るの。
汗と温度と、ほんの少しの無防備さが……そこにある」
そう言って、彼女は自分の靴下をそっと脱ぎ始めた。
「ちょっと待て、脱ぐな!ここで脱ぐな!」
「大丈夫よ。干すだけだから」
大丈夫じゃねえ!と言いたかったが、
もう彼女の靴下は、俺の隣に並んで吊るされていた。
レースの縁取り。
細かく刺繍された花柄のつま先。
まるで、香水のようなほのかな甘い匂いが漂ってくる。
「……なあ、これ……自分から“干してほしい”って……どういうつもりなんだ」
「干されたって、事実がいいのよ。見られることより、
信じて預けたという気持ちが、ずっと大事なんだから」
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
そして、次の日。
俺のベランダには、もう三足の靴下が並んでいた。
「な、なんで……!?」
「ことりちゃんの分もって言われたから持ってきたー」
「これ、洗っといて。柔軟剤はラベンダーね」
「間違っても縮ませるなよ」
ヒロインたちが次々と、“自分の靴下”を俺に託していく。
まるで、それが何かの証明であるかのように。
干された布たちは、風に揺れながら、それぞれの“匂い”を空に放っていた。
少しだけ甘く、少しだけ酸っぱく、少しだけ……恋の匂いがした。
俺は思った。
これは、もう単なる洗濯じゃない。
「干す」という儀式。
誰かの“末端”に触れて、
それを、誰よりも近くで見つめて、
空へと送り出す――その尊さ。
……俺の手の中にある、この布たちは、
ただの靴下なんかじゃない。
もう少し、丁寧に干してやろう。
もう少し、風を通してやろう。
そうして、風に揺れるそれらの布が、
誰かの心に繋がっているのなら。
その役目を、俺が担ってもいいと思えた。
――それが、靴下を干すという儀式の、始まりだった。