【第75話】 『拾った靴下が、なぜか捨てられない』
放課後の教室は、陽が傾くにつれて静寂を深めていく。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、黒板をオレンジ色に染め上げていた。
机と椅子が整然と並んだ中で、俺――白井悠真は一人、教室の隅で床に落ちた消しゴムを探していた。
「……あれ、どこいった……あ、あった……って、え?」
手が届いた先にあったのは、白い靴下だった。
小さくて、柔らかくて、そして――ほんのりと温かい気がした。
指先に伝わってくる微かな湿度。
それは、まるで誰かの体温が、まだそこに残っているかのようで……
「……なんでこんなところに、片方だけ?」
思わず見回してみるが、もう生徒の姿はない。
この教室に残っているのは、俺ひとり。
それでも、俺はなぜかその靴下を捨てることができなかった。
ポケットに入れるのも気が引けたので、そっと机の上に置いた。
――その瞬間だった。
「悠真くん、何してるの?」
不意に聞こえた声。
振り向くと、ことりが教室の扉から顔を出していた。
「あっ、ことり……いや、落とし物があってさ」
そう言って机の上の靴下を指差すと、ことりは一瞬、目を見開いてからそろそろと近づいてきた。
「……それ、え、なにこれ……」
「落ちてた。椅子の下に。誰のかは……わかんない」
ことりは、じっとその靴下を見つめる。
その目には戸惑いと、ほんの少しの羞恥が浮かんでいた。
「え、わ、私のじゃないよ……たぶん……違うと思うし……」
たぶん、のあとの間が、やけに気になった。
「ほんとに?」
「たぶん……ううん、違う!こんな形じゃないもん、私の……!」
そのわりには、視線を逸らしていた。
そこに、さらにもう一人、教室に姿を現した。
「なに騒いでんのー?」
みずきだった。部活帰りで、ジャージの上着を腰に巻いている。
「みずき、お前、靴下片方ないとか……ない?」
「は? あたしのはスポーツソックスだよ?こんなお嬢様風のじゃねーし」
そう言いながら、彼女も机の上の靴下をじっと見つめる。
「でも……なんか見覚えあるような……いや、ないか。うん、ない」
妙な間を挟むあたり、さっきのことりと反応が似ていた。
「ちょっと嗅いでみていい?」
「やめろって!いや、待て、やめないで」
気づけば俺の中に、奇妙な好奇心が芽生えていた。
この靴下の匂いを嗅ぐことで、持ち主の正体に近づけるのではないかという思い。
だが、俺が躊躇している間に、みずきが先にそっと鼻を近づけていた。
「……あ、ちょっと柔軟剤の香り残ってる。でも……その奥に……」
「その奥に?」
「……なんかこう……部活終わりの匂い?……いや違うな……放課後の、ちょっとドキドキした感じの……」
言葉にできない感情を、彼女の嗅覚が読み取っているようだった。
そこへ、レナ、つばさ、しおり、セシリア、そしてくるみまでやってきて、謎の靴下品評会が始まってしまった。
「私のじゃないけど……」
「素材は綿混かな。通気性より吸湿性重視……」
「こんなかわいい靴下、私だったら絶対洗ってから干すもん」
「これ……“昨日の気持ち”が残ってる。無意識の香り……」
全員が一言ずつ、まるで鑑識かのようにコメントしていく。
だが、全員が否定した。
「私のじゃない」「僕じゃないよ」「絶対違うってば!」
なのに――誰一人として、手放そうとはしない。
それどころか、みんなが机の上の靴下をじっと見つめていた。
その姿は、まるで
――「それ、私のかも」って、言いたくて言えない人たちの集合だった。
俺は改めて、その靴下に手を伸ばす。
指先に伝わる、わずかな温もり。
「……これ、ちょっとだけ……あったかくて、柔らかくて……」
その瞬間、全員の視線がこちらに集中した。
「……変態?」
「うん、変態だね」
「でも、わかる」
「わかるんかい」
教室に柔らかな笑いが満ちた。
でも、俺は本気だった。
靴下ひとつで、こんなにも心がざわつくなんて思わなかった。
誰かの匂い。
誰かの温度。
それが、まだこの布には残っていた。
それは、たぶん。
恋の、いちばん無防備な場所。
足元の布に、心が宿るなんて。
そんなこと、今日まで知らなかった。
そして今――
俺の手元には、誰のものかわからない、けれど
とても愛おしい靴下が、一枚だけ、静かにそこにある。