第73話 『乾いたシャツに、残った香り』
朝が来た。
台風は過ぎ、空には高く澄んだ青。
昨夜の蒸し暑さが嘘のように、
風がカーテンを柔らかく揺らしていた。
「はあ……生き返る……」
みずきがシャツの裾をパタパタとあおぎながら、バルコニーへ出ていく。
「さっさと干さないと、昨日の汗が“記憶”になるよ~?」
それに続くように、
ヒロインたちは次々とシャツを手にして外へ出た。
ことりの白いブラウス。
セシリアの薄手のシフォン。
つばさの防菌素材の制服シャツ。
どれも、夜の湿度を帯びながら、
朝の風に向かって広がっていく。
俺は、リビングの隅に置かれた洗濯カゴの中から、
まだ誰も手をつけていないシャツを一枚、何気なく取り出した。
(……これ、昨日の夜……)
ふと、指が止まる。
そのシャツの襟元から――香りがした。
微かに、けれど確かに、
甘くて、柔らかくて、少しだけ濃い。
そして――どこか、切なさが混じっている。
「……これ……まだ、誰かの匂い……残ってるな」
そう口に出したとき、
すぐ背後から、小さな声が返ってきた。
「……わたしの。まだ……残ってる?」
ことりだった。
彼女は少し恥ずかしそうに目を逸らしながら、
でも、俺の手元のシャツをまっすぐに見つめていた。
「昨日、汗いっぱいかいちゃって……
でも、シャワー浴びてないまま、寝ちゃって……」
「それって……」
「……ねえ。嫌だった?」
俺は、首を横に振った。
「……ううん。むしろ、忘れたくない、って思った」
ことりの目が、驚いたように見開かれる。
「この匂い、すごく……“昨日のことり”がする。
笑ってたときも、ちょっと眠そうだったときも、
その全部が、このシャツに残ってる気がして――」
「……だから、忘れたくないなって、思ったんだ」
ことりは、そっと笑った。
すごく小さく、けれど心の奥に残る笑顔で。
「そっか。
……じゃあ、洗う前に、もうちょっとだけ……持ってて」
そう言って、彼女はそのままベランダへ出ていった。
俺の手の中に残ったシャツは、
布ではなく、恋の記憶のようだった。
■悠真のモノローグ:
昨日、彼女の汗が沁みていたこのシャツは、
今日にはもう、乾いていく。
でも、匂いはすぐには消えない。
想いがしみ込んだ布は、簡単には“無臭”にならない。
それは、恋の余韻みたいで――
だから俺は今、まだこの布を手放したくないって思ってる。