第60話 『干されたブラ、見つめる距離』
「……いくぞ、俺……」
深呼吸を一つ。
洗濯物を干すだけ。たったそれだけのはずなのに、なぜこんなにも緊張するのか。
手に持った、ことりのブラ。
レースの縁が雨上がりの光を反射して、ほんの少しだけ濡れて見えた。
胸を支えるものなのに、こんなにも繊細で、やわらかくて。
なのに、重みがある。
それはきっと――彼女の気持ちがそこに詰まっているから。
「……って、何哲学みたいになってんだ俺!干すだけ!干すだけだから!」
自分に言い聞かせるように、物干し竿にブラの肩紐を引っかける。
一気に風景が変わる。
タオル、Tシャツ、パーカーの中に、ひとつだけ異質な存在。
それは――
あまりにも“近すぎる距離感”を視覚化した布だった。
カラララ……
玄関の引き戸が開く音。
振り返らずとも、背中で視線を感じる。
足音は一つ、二つ、三つ……やがて六つに。
「……なんか、すごいな……」
悠真がぽつりと呟く。
「たったひとつのブラが干されてるだけで、全員が集まってくるって……」
「それだけ、特別なんですよ。」
最初に声を上げたのは、くるみだった。
彼女はゆっくりと歩み寄り、
干されたブラを少しだけ見上げながら、こう続ける。
「胸の形って、誰にも見せないし、触れられないでしょう?
でも、ブラはそれを包む。形を守る。自信を与える。
それって……想いの輪郭と、似てると思いませんか?」
一瞬、空気が止まったように思えた。
誰もが黙ったまま、
でも確かに、視線は全て――そのブラに向けられていた。
「……あたし、まだ無理だな、やっぱ……」
みずきが照れくさそうに口を開いた。
「干されるのって、裸より恥ずかしい気がする……」
レナは少し唸るように言った。
「……見せるっていうか、預けるって感じだな」
「干すってことは、晒すってことじゃねぇ。信じてるってことだ。」
「素材は……ポリエステル混かしら。
乾きやすさより、肌触り重視。……選び方まで“ことりさん”ですね」
しおりが観察メモを取りながら言う。
「……わたしも、ちゃんと干される勇気、持ちたいな」
セシリアは、微笑んだまま言葉を紡いだ。
「空に揺れるって、美しいものね。
見られたいけど、恥ずかしい。でも、それでも見てほしいの。
――だって、恋って、そういうものじゃない?」
そのとき、ことりが後ろから小さな声で呟いた。
「……ねえ、悠真くん。
見た? わたしの……」
彼女の声は震えていた。
けれど、その震えは恐怖じゃない。
期待と、羞恥と、そして――恋心の鼓動だった。
「見たよ」
俺は、まっすぐに答えた。
「ちゃんと、見た。
……そして、ちゃんと、覚えた。」
ヒロインたちの胸に、何かが芽生える気配があった。
「私も……」
「もし、預けるとしたら……」
「選ぶの、ちょっと迷うけど……」
小さな声が、雨上がりの空に紛れて広がっていく。
■悠真のモノローグ
パンツが“裸の想い”なら、
ブラは“触れられない鼓動”だった。
干しただけで、心臓が跳ねた。
たった一枚の布に、
こんなにも誰かの“全部”が詰まってるなんて。