第59話 『私のブラを、お願い……?』
その日は、朝から雨が降っていた。
部屋の空気は少し肌にまとわりつくような湿気を含み、
窓の外は灰色の雲で覆われていた。
薄暗い室内。除湿機の音。洗濯機の水音。
そして、俺の前には──
ひとつの“布きれ”が、置かれていた。
「…………え?」
俺――白井悠真は、目を疑った。
洗濯かごの中に、たしかにそれはあった。
白地に淡いピンクのライン。繊細なレース。柔らかく包み込むような丸み。
……ことりのブラジャー。
「いやいやいやいやいやいやいやいやいや」
全力で心の中で連呼しながら、俺は洗濯かごから一歩後ずさる。
「これ、アウトだろ! 入れちゃいけないやつだろ!?」
「しかも“洗っていいやつ”って感じじゃなくて……めちゃくちゃ繊細そうだぞ……っ」
「……あ、あの……」
声がした。
振り向くと、そこにはことりが立っていた。
両手をぎゅっと握りしめ、顔は真っ赤に染まり、
視線はうつむきがちで、でも確かにこちらを見ていた。
「……その、ね。間違えて……入れたわけじゃなくて……」
「……ちゃんと、お願い、したくて」
「わ、私、……そのブラ、すごく気に入ってて……」
「でも、雨で部屋干ししかできないし、
うちじゃ、お兄ちゃんに見られたくないし……」
ことりは少し息を吸って、
それから、震えるように言った。
「だから……悠真くんに、洗ってもらえたら……って、思って……」
俺は言葉を失った。
いや、正確には、脳が言葉を処理できなかった。
これは、つまり。
パンツのときとは、わけが違う。
パンツは、無防備の象徴だった。
だけど──ブラは、“想いの核”だ。
「……いい、けど……」
俺は、ぎこちなく頷いた。
「……これ、なんかもう、呼吸まで見えてしまいそうで怖いんだけど……」
ことりは、ぷるぷると小さく笑った。
「ううん、大丈夫。悠真くんなら、ちゃんと大事にしてくれるって思ったから……」
「それに、洗ってもらえるって思うと……なんか、ちょっとだけ……」
「……胸が、軽くなるの」
その瞬間、俺の胸の奥に、なにか熱いものが刺さった。
それは単なる下着でも、
ただの洗濯物でもなかった。
──彼女が抱える、恋の真ん中だった。
そのあと、洗濯機にことりのブラを入れた時、
俺の手は、ほんの少し震えていた。
レースが、濡れて重くなっていく。
その様子が、なぜか……彼女の涙のように思えた。
そして数分後。
乾燥前のブラを手に取り、タオルで軽く水気を取っていたその瞬間。
バタンッ、と扉が開いた。
「おい、今のって──」
先に声を上げたのは、レナだった。
「ちょ、ちょっと待て……それ……ブラじゃね!?」
「……私のじゃない。でも、この匂い……ことりちゃん……?」
みずきが鼻を近づけて言う。
「ふふ……始まったのね。ブラの距離感戦争が」
セシリアが微笑む。
「では、観察対象が“上半身”に移行したと考えていいですね」
しおりがメモを取り始めた。
「やっと……このフェーズ……」
くるみが息を吐いたその瞬間。
俺は悟った。
「……これ、全員入れてくるやつだ……!」
■モノローグ
パンツとは違う。
これは、鼓動に一番近い布。
そこに触れた時、
彼女の心が、俺の手に……伝わってくる気がした。