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第55話 『干せない布団と、乾かない恋心』

空は、まだ濡れていた。


十月の長雨は、止む気配を見せない。

朝から夕方まで、薄暗く、湿度は高いまま。

悠真の部屋には、布団が敷きっぱなしだった。


濡れたままではない。だが――乾いてもいない。


敷き布の裏には、体温の残り香がこもっていた。

枕の端には、誰かの髪の匂いがまだ留まっている。

そして、シーツ全体から、じんわりと汗の蒸気が浮き上がっていた。


鼻を近づけるまでもない。

空気ごと、しみているのだ。


「……この状態、衛生的によろしくありません」


つばさが、ついに口を開いた。


「そろそろ限界です。

 カビも菌も、今が繁殖のピーク。

 このままでは、布団の内部まで雑菌が……」


彼女は、小さなスプレーボトルを取り出した。

貼られたラベルには、赤字で「クエン酸」と書かれていた。


「これは無臭除菌タイプ。人体には無害。布団に直接噴霧して、匂いを分解するものです」


「ま、待って!」


最初に声をあげたのは、ことりだった。


「それ……匂い、なくなっちゃうんでしょ?」


「当然です。菌と一緒に、残留した汗や油脂成分も中和されます」


「……でも、わたしの匂いも……残ってるんだよ……」


空気が凍った。


レナが低く唸るように呟く。


「匂いってさ、そりゃ汗臭いかもしれねぇけどさ。

 誰かが寝て、呼吸して、夢見て、ちょっと恥ずかしい寝言言って、

 その全部がさ――この布に染みてんだろ。」


みずきが布団の端を持ち上げ、くんっと鼻を寄せた。


「……うわ、すっげぇ混ざってる……。

 たぶん、ことりとレナと……あとセシリア?」


「ミルクティーの残り香が混じってるわね。あと少し、薔薇の香水が……」


セシリアは微笑みながら布団に頬を寄せた。


「……恥ずかしいけど、でも、それが**“夜を共に過ごした証”**だもの」


「科学的には不快な成分でも……

 わたしには、大切なものなの」


ことりが、涙をこらえるように言った。


「お願い、つばさちゃん……あの香りだけは、なくさないで……」


つばさは、スプレーを持ったまま動かなかった。


彼女の中で、清潔という信念と、

今、目の前で震える小さな気持ちが、せめぎあっている。


「……私は、正しい方法を提案しただけで……」


そう言いかけた時――悠真が、布団に手を置いた。


その手は、まるで何かをそっとなでるように、やさしかった。


「布団ってさ……ただの寝具じゃないと思うんだ」


「だって、ここには全部、残ってるんだよ」


「誰がどこで寝たとか、

 どんな夢を見たとか、

 どんな気持ちで朝を迎えたかとか……」


「匂いってさ、記録だろ?」


悠真は言葉を選びながら、静かに続けた。


「パンツにも香りがあった。あれは、脱いだ“その子自身”だった」


「でも布団の匂いは、“一緒にいた時間”の香りなんだと思う」


「誰かと一緒に過ごしたっていう、証明」


「だったら俺は――」


「この匂い、消したくない。」


しばらくの沈黙。


つばさが、スプレーのキャップを静かに戻した。


「……じゃあ、私は別室で寝ます。

 データ的には、非推奨な湿度環境ですが……」


「でも、恋って……非推奨な感情だものね」


彼女はそう呟いて、ボトルを畳の上に置いた。


あたりに漂っていた、汗と香りと恥ずかしさが、

なぜか、心地よく感じられる空気に変わっていった。


悠真のモノローグ:


きっと、しみとか匂いとかって、

不潔なんじゃなくて――

“忘れたくない記憶”なんだ。


だったら、ちょっと臭くてもいい。

あの夜を、あの香りを、思い出せるなら。

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