第174話『春服を脱いだら、恋が見えると思った』
図書館の入り口に、春の光が柔らかく降っていた。校門を越えた先、制服の代わりに揺れていたのは、しおりの私服だった。
ベージュのカーディガン。白のレースインナー。膝下丈のスカートに、ほつれかけた小さなブローチ。
いつもはきちんと締められていたネクタイの代わりに、首元から微かに漂っていたのは、柑橘とバニラが混ざった、しおり特有のやわらかな香りだった。
その香りに、悠真は思わず立ち止まった。
図書館へ行くだけのはずなのに、まるで特別な場所へ連れて行かれるような、そんな予感がしていた。
「しおり……、今日、私服なんだな」
「うん。……ごめんね、変じゃない?」
しおりは少し不安そうに胸元のボタンをいじった。
見慣れない姿に戸惑いながらも、悠真ははっきりと首を振る。
「似合ってる。……その、すごく、春っぽい」
「そっか。よかった……」
言葉のあと、ふたりの間に沈黙が落ちた。
図書館までの道のり、あと数十歩。それでもその一歩一歩が、妙に長く感じられる。
春服を脱いで、制服の仮面を外したしおりの隣にいると、どこか緊張してしまう。
クラスメイトとしての日々とは、明らかに違う空気がそこにあった。
図書館に着くと、しおりは静かに入口の自動ドアの前で立ち止まった。
「ねぇ、悠真くん。……今日、わたしね、本当は勉強しにきたわけじゃないの」
「え?」
しおりは顔を伏せ、春の光を背に受けたまま言葉を探していた。
「制服ってさ。便利だなって、ずっと思ってた。……気持ちを隠せるから。ブレザーの中に、緊張も、好きって気持ちも、全部押し込めることができるの」
「……うん」
それが、制服を脱いで私服で来た今日。
しおりは“見られる”ことに慣れていなかった。
だからこそ、本音がむき出しになってしまいそうで怖かったのだ。
「でもね、今日は……、ちゃんと見てほしかったんだ。わたしのこと、ちゃんと」
「見てるよ」
即答だった。
しおりがはっと顔を上げる。
悠真はまっすぐに、彼女の瞳を見つめていた。
「そのカーディガンも、スカートの小さな刺繍も。あと……少しだけ甘い香りも」
「……!」
悠真のその言葉に、しおりの頬が春色に染まった。
図書館のドアが、ゆるやかに開く。静かな空気が、ふたりの間に流れ込んだ。
中に入ると、席に着くまでにまた沈黙が訪れる。
だが、それは不安からではなかった。
お互いの存在を、肌ではなく“空気と香り”で感じていた。
制服を脱いだことで、逆に生まれた“距離”が、かえって恋心を膨らませていく。
「本、読むね」
「うん」
開いたページの先で、言葉よりも強く響いていたのは、互いの心拍だった。
……その後、ふたりで過ごした時間は、特に事件もドラマもなかった。
でもしおりの中では、何かが確かに“ほどけて”、また“結び直された”。
図書館を出たとき、しおりはふと立ち止まって言った。
「ねえ、悠真くん」
「ん?」
「……わたしのこと、ちゃんと見てくれてる?」
その一言に、悠真は戸惑いもためらいもなく、うなずいた。
「見てるよ。……しおりが、制服を着てても、着てなくても」
しおりの瞳が、ふわりと揺れる。
「そっか。じゃあ……もう少しだけ、がんばってみる」
「なにを?」
「恋、ってやつを」
それはまるで、春風のような小さな囁きだった。
制服の襟元ではなく、胸の奥にきゅっと結ばれた“新しい始まり”。




