第173話『春風は、あの日の残り香を連れてくる』
春の風は、なにげない瞬間に、思い出を運んでくる。
それは昨日のようでいて、もう二度と戻らない一日。
昼休み。教室の窓が少しだけ開け放たれていた。
遠くから吹き抜けてきた春風が、教室の空気に紛れ込む。
ふわり、とカーテンを揺らして、その隙間から微かに――
甘い、どこか懐かしい香りが、悠真の鼻先を掠めた。
「……あれ」
思わず顔を上げて、悠真はあたりを見回した。
誰かが近くに香水をつけているわけでもない。
けれど、今確かに、胸の奥がきゅっと締まるような“何か”が、通り過ぎた。
思い出したのは、去年の春。
教室のドアを初めて開けた日。
見知らぬ顔ばかりのクラスに、不安を隠しきれずに立ち尽くしていたとき――
「……おはよう。一年生?」
その声に振り返ると、そこにはことりがいた。
やわらかく笑うその顔と、制服のリボン。
そして、そのときふと漂ってきた、花のような、でもどこか風に混じった香り。
“あれが、俺の一年の始まりだったんだ。”
「悠真くん、どしたの? ぽーっとして」
声をかけてきたのは、小春だった。
手にお弁当を持ったまま、首をかしげている。
「……いや、ちょっと風が気持ちよくて」
「そっか~。春って、なんかぼーっとしちゃうよね!」
にこにこと笑いながら小春は自分の席へ戻っていった。
けれど、悠真の中ではまだ、胸の奥の何かが揺れていた。
“あの日の香りを、今、なんで思い出したんだろう。”
ことりの使っている柔軟剤は変わっていないのかもしれない。
あるいは、同じタイミングで春風が吹いたからか。
それとも――
(気持ちが、あのときのままだから?)
香りは、記憶と強く結びついている。
それは悠真自身が、日常の中で何度も感じてきたことだった。
誰かのシャンプーの匂い、制服に染みついた部活帰りの汗の匂い、春雨のあとの土のにおい。
香りひとつで、心が過去へ引き戻される瞬間は、たしかにある。
そして今、あの“春の初めて”の匂いが、自分の中に蘇ったということは――
(俺、まだ……あのときの気持ち、ちゃんと覚えてるんだな)
“好き”という感情は、時に育つものだと言う。
でも、時には最初に芽生えた気持ちが、ずっと根を張ったまま、動かずにいることもある。
それを“変わっていない”というのか、それとも“進んでいない”というのかは、分からない。
だが少なくとも、いま胸の中にあるこの想いは、
去年の春、教室の入り口でことりが笑った瞬間から始まっていたのだ。
午後の授業中も、悠真の心は不思議と静かだった。
誰かと話すでもなく、必要以上に動くでもなく、ただ淡々と。
けれど、その静けさの中に、確かな“選び始め”があった。
(もし、またあの春が来るなら。もし、もう一度だけ、あの日の風が吹くなら――)
窓の外で桜が揺れていた。
まだ咲き始めたばかりの蕾は、冷たい風に震えながら、それでも空に向かって枝を伸ばしている。
帰り道、悠真は校舎の裏を通った。
あの春の日、ことりと出会った場所。
二人だけで話したのは、まだ気まずさと敬語が混ざっていた頃。
「初めての教室って、怖いよね」
「でも、きっと楽しくなるよ。だって、悠真くんみたいな人がいるなら」
そう言って、彼女は笑った。
その笑顔が、ずっと、心の奥に残っていた。
校舎の裏手の風が、またふわりと吹いた。
香りはもう感じなかったけれど、心がほんの少しだけ、あたたかくなった。
(春風は、あの日の残り香を運んでくる)
それは、自分が何を選ぶべきかを教えてくれる合図だった。
変わらない想いを、変わっていく景色の中で、もう一度結び直す。
それが、いまの自分にできる“選択”なのかもしれない。
明日、ことりに話してみよう。
「今年は……何かが変わるかもしれないね」って。
春は、もうすぐそこまで来ているのだから。




