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「でもさ、その頃って日清戦争の時代だよね?」
髪を埃まみれにした水下がいった。
「旅順占領、下関会議、三国干渉…… そして、京都に初の市電、走る」
額の汗を拭きながら、羽村が答えた。
「北村透谷自殺……」
「レントゲンが謎の光線を発見。もう少しすると、山県・ロバノフ協定、労働組合期成会設立、米西戦争があって……」
「『金色夜叉』と『不如帰』は徳富蘆花か。あと、中央公論と土井晩翠」
「並べ方がすごいね。……結局、庶民はまだ貧乏で怖がっていたんだろうなぁ、当時の大国を、って、いまもか。輸出高はうなぎ上りになっていくけど、帝政ロシアは睨みを効かせていたし……」
「ロシア人といえば、さらに百年くらい前に択捉島にやってきたんじゃなかったけ? 米価騰貴で、江戸・大阪で打ちこわしが流行ってた頃」
「さあ? わたしは、その辺詳しくないから…… あ、でもナポレオンのエジプト遠征は、その頃だよ」
「そこにさ、南蛮渡来、じゃなかった、ロシアの曲馬団なんか来ると思う?」
「でも、曾爺さん見てるらしいし……」
いって、水下は旧い日記を捲った。
そもそものはじまりは昨年、夏のことだった。信州の祖父の田舎に遊びに行き、前の晩見たテレビ番組の影響で土蔵に入った。狭い土蔵には種種雑多なモノが放置されていたが、目指す『宝物』の見当はつかない。埃の量に価値があるとも思えなかったし、いくら函書きがあっても、見馴れぬものの美しさは、水下早紀には見分けられなかった。工芸品の出来の良さとその世俗的価値は比例しないが、その辺りの感性も水下には欠如していた。
が――
「見つけたんだよね、旧い日記を」
田舎から帰り、学期が開けてから、水下は友人の羽村妙子に、事の顛末を話した。
「結局、持って帰りはしなかったんだけど、特に大切なものとも思わなかったから…… ほとんどが箇条書きで、その日の献立とか、気温とかがメインだったしね。でも……」
その中に珍しく長文の奇妙な記載を発見したのだ。
『奇矯な風体の異人曲馬団を観る。出し物珍しく、これは曲馬に非ずと感ず。催眠の術を操るか、途中で悪寒と共に人格の分裂を体験す。帝大で数理物理を学ぶ友人藤本に夜、事の次第を語る。彼曰く、今独逸で話題になっている物理効果に関連あるやも知れぬ、という。論文は未発表とのこと。マクスウエルの電磁方程式及び光の電磁波説、光電効果、マイケルソン・モオリイの光速測定実験、ヘルツによる電磁波の実験的証明、ロオレンツの短縮仮説、ウインの変位法則、ゼエマン効果など、小生には難解な科学用語の羅列に辟易せなんだのは、藤本の語りの上手さか。この友人科学者なるも英国の未来小説を好み、懸案中の自説デイジタル(計数型)仮説から、小生の人格分離体験を解説す。再録は不可。己の知識の欠如を恥じる。米粒と波面の喩あり。線形理論ならば波の状態の重ね合わせが成り立つという。現実はその一つだが、離別状態のとき、人も物も複数の変位体が存在可能という。藤本の理論はそこで破綻し、状態選択の要因は未だ数式化不可と嘆く。将来における友人の成功を祈りたい。』
しかし水下は、その夏、曽祖父の日記を持って帰らなかった。
「どおして?」
「だって、お祖父ちゃんに断るの気後れしたんだもの」
「怖い人なの?」
「そうでもないけど……」
そして今夏、二人は、かの土蔵を訪れることになったのだ。
「でもさあ、この藤本さんって、その後どうしたんだろう?」
煤と埃で真っ黒に汚れた顔で羽村妙子はいった。
「頭、良さそうなのにね……」
「だから、時代なのよ。あとで気になったから、知ってるかと思って、お祖父ちゃんに聞いてみたんだ。そしたら、日露戦争で亡くなってるんですって。お祖父ちゃん、死んだ曾お婆ちゃんから、聞いたことあるって……」
「でも学生だったんでしょ。しかも理系だよ」
「だからさ、自分で志願したんだよ、もちろん」
「ひぇー、時代が繋がってるね!」
「でも、陸軍行っちゃたからね。乃木第三軍司令官が好きだったのかな。っていうか、大山巌満州軍総司令官、児玉源太郎総参謀長の方を信頼してたのかもね。いまとなっては、わからないけど」
しばらく無言の時が流れた。
「でも、もったいないなぁ。時空の理論とごっちゃにしてるけど、これ、プランクの作用量子よりも、アインシュタインの光量子仮説よりも、何年も前なのに…… しかも波束の収縮まで考えてる」
「あ、そうか! だから仮面被ってるとか?」
「えっ」
「だから、人格、っていうか、離別=拡散状態を維持することができたんじゃない、その人たち。みんな同じ人なんだよ。だから、それを隠すために仮面を被ってる」
「まさか?」
「あるいは、それが可能と信じていた人たちとかね」
「それじゃオカルトだぜ。ま、たしかに仮面ってのは、カルトっぽいけど。それに、もし数字を使ってたらカバラだし……」
「とすると、日本に来たのは布教のため?」
「もう百年前にも来てるとか?」
「そのまた百年前にも、って『奥の細道』」
「さらに百年前にも、って、スペインのサン=フェリペ号、土佐に漂着……」
中略。
「大昔の誰かがその秘密を知っていて、それを知った秘密結社が次々と」
「連綿とじゃないとおかしいよ、そこは」
「じゃ、連綿と、って。……秘密を知ってるなら、そこで終わりじゃない?」
「じゃ、失われたんだ。その秘密が。『死海文書』とか、イルミナティ、じゃなかった『シオン賢者の議定書』とかみたいに」
「それって、失われてたかなぁ。偽書だって話はよく聞くけど」
「とにかく、来日した謎の曲馬団は、観客にも量子効果を及ぼした」
「その中に官憲がいたか、あるいは観客の話を聞いた時の権力機構の誰かが、『こりゃいかん、政情不安を引き起こす』って判断して、引っ捕らえるか、国外に追い出すとかした。もちろん、一般庶民には知らせないようにしてね。なぜって」
「それこそが政情不安を引き起こすから」
「そして、わずかな痕跡だけが残った」
「ってそれ、ウチの爺さんの日記か?」
「ってことが本当だったら、もう来てるかな? じゃなきゃ、これからすぐにでも来なきゃいけない!」
水下と羽村の二人は、そこで互いの煤けた顔を見合わせた。
「あたし、チケット・P、探ってみよ!」
「あ、あたしも……」と波村。
そして――
「でも、世紀末って、いったい何年くらいの幅があるんだろ?」