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どこかの誰かさんは冗談が好きなようだ、そのときそう思った。
* * *
はじめはヒラヒラだった。いや、ピラピラというべきか? 目の先を紙が舞っていた。紫色の紙だった。それが数枚。風を受けて舞い踊っていた。道端のガードレールに引っ付いたり離れたりしながら……。
平日の朝のことだ。たしか、水曜日だったと思う。暑かった……ような気もする。
最寄駅から会社に向かう道すがら、郊外と呼ぶにはあまりにも都市近郊の古びた高架駅近くでのことだ。地下鉄や主要幹線が数本終結するターミナル駅から、急行で約十五分といった場所。
コンビニエンスストアやパン屋や魚屋のある商店街を抜け、小さな学習塾をまわって、精肉屋の角を左に生活道に曲がる。住宅街に入って数分の位置。未だ駐車場に化けていない狭い葱畑を右手に見る見通しの悪い歩道の上で、それを発見した。歩道は、人の丈はあろうかと思われるU字型下水溝に蓋を被せたもので、約十センチ、車道から浮き上がっていた。ペンキが剥げ、全体的に外側に反返り、角の部分がひしゃげたガードレールは、進行方向から見て、歩道の左側にあった。
天気は憶えていない。雨が降っていなかったのは確実だが、晴れだったか、曇りだったか? 相手にとってもそうだろうが、いつも見かける何人かの通勤人や学生とはすれ違った……はずだ。日常の風景として。その中で、楕円の眼鏡をかけ、自転車に乗った、薄いオリーブ色のベルト付きワンピースを着た細身のキャリアウーマンの姿だけは、やけにはっきりと記憶していた。その女が行き過ぎてすぐ、音が聞こえたからだ。
硬い紙が風に吹かれるパリパリという音。歩きながら音の方向に目をやると、それが見えた。視認した直後は、商店街のチラシかと思った。
瞬間、それが突風に煽られ、ガードレールから離れ、顔と右腕に貼りついた。右腕の紙は二枚だった。最初は七、八枚くらいあったのだろう…… 顔と手に貼りついた紙を剥がして左手に持ち替え、振り返ったときには、残りは風に吹かれて数十メートル彼方へと飛び去っていた。わずかに上昇しながら、角を曲がって視界から消えた。
手に取った紫色の紙は、思ったよりも薄く、またチラシでもなかった。上手くも下手でもない、癖もない、しかし無個性でもない手書きの文字が、それこそびっしりという感じで記されていた。かすかに薫る香水の匂いがしたのは気のせいか? 甘く、くすぐるような感触。だが、細目の水性ペンで語るように記された文面は色気とは無縁だった。手紙であったかどうかさえ疑わしい。
捨ててしまえば良かったんだな、たぶん、そのときに……。
だが、抗えない気分というのはあるものだ。
このまま歩いて会社に着いても、始業時間まで四十分はある。数年前からはじめた『三文の得』計画の賜物だった。いままでそれで得をしたことはなかったが、気持ちに余裕だけはあった。
きっと、それがいけなかったのだろう。