第7話 帰る場所
ルイスは、誰もいないその家に忍び込んだ。
夕日の赤が窓から微かに差し込み、ゆっくりとその光の角度を変える。
程なくしてジャンという男は仕事を終え、ルイスの隠れる家へと帰ってきた。
夕日のつくる影に隠れたまま、ルイスは背後からジャンに勢いよく襲いかかる。
ジャンはその少しの物音で振り向いた。ナイフが振り下ろされる瞬間、とっさにその腕を掴んでルイスの動きを止める。
ジャンは自身に襲いかかった少年を見て、はっとした。
ジャンは、彼の姿に見覚えがあったのだ。
ジャンはルイスに語りかける。
「お前はジゼルと一緒にいただろう。ジゼルの家だった場所にいた、あの時。お前とジゼルが用水路に落ちて消えた瞬間を俺は見たんだ。なあ、ジゼルはどこにいる? ジゼルは生きているのか? お願いだ、答えてくれ」
ルイスは何も答えない。ただ、ヒューヒューと苦しそうな呼吸音が部屋に響くだけだった。
「……もしかして、答えられないのか?」
ルイスは苦しそうに顔を歪める。
ジャンは、彼の腕が赤く火傷のように爛れているのに気がついた。
「そうか、お前は――」
ジャンがその正体を突き止めようとすると、ルイスは腕を振りほどき外へと飛び出した。
そしてすぐに川に何かが落ちたような、大きな水音が聞こえた。
ルイスは、失敗した。あの男を消すことができなかった。
ルイスはガラクタの海へ戻り、倒れ込むように海底の砂に身を預けた。
人間の姿に変身するのには、大変な負担がかかる。
元より人間だったジゼルとは違い、海で生まれ育ったルイスにとって、その消耗は非常に激しいものだった。
気を失うように眠ったルイスが再び目を覚ました時には、何もかもが遅かった。
ガラクタの海のどこにも、ジゼルがいない。
ジゼルから奪ったはずの、"人間としてのジゼルの記憶"もルイスの中から欠落していた。
ジゼルの魔法が解けたのだ。
ルイスはジゼルを失う訳にはいかなかった。
身を裂くような苦痛も厭わず、残っていた魔法薬を全て飲み干し人間へと姿を変えたルイスは、再び街へと急いだ。
薄明の空と海を背に、二つの影が並ぶ。
街外れの岬で彼を待っていたのは、ジャンと人間の姿をしたジゼルであった。
ルイスはジゼルを忌まわしき人間から取り戻そうと、彼女に駆け寄りその手に触れようとした。
しかし、ジゼルは一歩その身を引き、ルイスから距離をとった。そして、その手を遮るようにジャンはルイスの前に立ち塞がり、こう告げた。
「……もうすぐ、漁の時間になる。ここにも直に人が来る。別れの時間だ」
ルイスはジゼルに目を向けたが、ジゼルは目を伏せたままだった。
ルイスは悟った。
ああ、これまでか。ジゼルを騙していた、その報いを受ける時がとうとう来てしまったのだ、と。
ずっと彼女を愛していた。彼女との日々が幸福だった。
けれど、彼女は陸の世界の生き物で。
彼女があるべき姿であるべき世界に戻ること、それこそが彼女にとっての幸福なのだと、今まで目を背けてきた真実にルイスはようやく向き合った。
水平線から僅かに顔を出した朝日がジゼルを照らす。もう二度と見ることのできないその美しい姿を、ルイスは目に焼き付け、涙を流した。
ジゼルは、岬から故郷の街を眺めた。彼女もまた、その街の姿を目に焼き付けていた。
ジゼルは決断した。
記憶を取り戻し真実を知ってもなお、いや、真実を知ったからこそ、彼女は自分のあるべき場所を自分の意思で決めたのだ。
ジャンはジゼルの選択に、せつなさを感じながらもジゼルらしいと笑ってその背を押した。
二人は夜の闇の中で、かつての故郷の思い出を語らいながら海を望む岬で彼を待っていた。
そして朝焼けが迫る黎明の今、ジゼルの目の前にルイスがいる。
このわがままな願いを受け入れて貰えるかは分からない。けれど、いつものように家出をした自分を見捨てず迎えにきてくれたルイスに、もう少しだけ甘えて、自分の気持ちを伝えてみようと思った。
そしてジゼルはまっすぐにルイスを見つめ、その願いを告げた。
「ルイス、お願い。私をまた人魚にして」
ルイスの変身はとっくに解けていたが、彼は言葉を発することを忘れ、ただ呆然とジゼルを見つめていた。
ジゼルは、そのまま言葉を続ける。
「勝手に陸に来てごめんなさい。貴方がかけてくれた魔法も解けてしまって……全部、思い出したの。私はあの時、運命のまま、陸の生き物として死ぬべきだった」
ジゼルは海に背を向けたまま、一歩一歩後ずさりして岬の先端に立つ。そして祈りを捧げるかのように、ゆっくりと目を閉じ、その身を海へと投げた。
ジゼルはどんどん暗い海に沈んでいく。それを追いかけるように、ルイスもまた海へと身を投げた。
ルイスはジゼルの腕を掴み、その身を抱きかかえて水面に浮上する。大きく咳き込んで息を吹き返したジゼルは、その瞳に蛸の人魚を映した。
「……あの時と同じね。貴方が助けてくれたから、私はこうして生きている。ありがとう、ルイス」
「僕は、君に感謝される資格なんてない」
ルイスは、ジゼルを突き放すようにそう言った。
「ずっと君を騙してた。君を人魚だと信じ込ませて、本当はもっと早く人間に戻すことだってできたのに、僕はそれをしなかった。君の気持ちを考えずに、僕は君を長い間、暗く寂しい海の底に閉じ込めてしまった」
ルイスは俯いたまま、絞り出した声でジゼルの願いを払い除ける。
「……ジゼル、君は陽の当たる人間の世界に帰るべきだ」
彼が優しさからそう言っているのだと、ジゼルには分かりきっていた。けれど彼は、大きな勘違いをしている。ジゼルには、ルイスに伝えなければいけないことが沢山あった。
ジゼルはルイスをぎゅっと抱きしめ、彼女の胸の内を告げた。
「ルイス、私ね。あんなに暗くて冷たい海の中でも、さみしいと感じたことは一度もなかったよ。それは、貴方がいたから。貴方が私にまた、帰る場所をくれたから」
ジゼルの故郷は、もうどこにもない。全て全て、海の底のガラクタになってしまった。けれどその悲しいガラクタの海は、ジゼルにとって、ルイスとの宝物のような思い出が詰まった特別な場所になっていた。
「私は、もうひとつの故郷で生きていきたい。ルイスのいる、楽しくて温かい海の世界で」
ルイスの瞳が大きく揺れる。ジゼルは、陸の世界の素晴らしさを理解しているはずだ。それにジゼルなら陸の世界でも、新しい居場所なんてまたいくらでも作っていける。彼女が海に戻っていいことなんて何も無いはずなのに。彼女は全てを捨てて、帰ってくることを選ぼうとしている。
その選択を拒むべきなのに、ジゼルの言葉に絆されてしまいそうになる。
「……人魚になったら……今度は君をもう、元の世界には戻してあげないよ。僕は君にずっと嘘をついて騙してた。こんな奴のところに戻っても、君は……」
「貴方のつく嘘は、優しい嘘。私、知ってるんだから。何年、貴方と一緒にいたと思ってるの?」
「でも、僕は……」
煮え切らないルイスに、痺れを切らしたジゼルは思い切り頭突きをして頬を膨らませた。
その様子を岬の上から見ていたジャンは、はははと声を上げて大きく笑う。
「ジゼルはお前を選んだんだよ、ルイス。誇りを持て!契約に対価が必要なら、代わりに俺が払おう!俺が差し出すのは――この街の人々の人魚の記憶全てだ。それで足りるか?」
ジャンの大胆な提案に、ルイスは怪訝な顔をした。
「この街の人魚の伝説ごと消えるぞ?」
「そんなもの、なくなった方がいい」
そう言って切ない笑みを浮かべながら、ジャンはジゼルに最後の別れの言葉を告げる。
「ジゼル、また会えてよかった。君が生きていてよかった。どうか、元気で」
「ジャン……ありがとう」
朝日が街を照らし、ジゼルとルイスの姿は光を背に影となった。
二人は互いを見つめ合い、口付けを交わす。
契約は成立した。
ジゼルの身体はみるみると変化し、人間の少女は美しい人魚の姿となった。
「……おかえり」
「ただいま」
二人の人魚は手を取り合いながら、光の届かない暗い海の底へ、どこまでもどこまでも沈んでいった。




