振り返れば婚約者がいる!~心配性の婚約者様が、四六時中はりついて離れてくれません!~
久しぶりの短編です!
長編にしようと思っていたものをさらりと読める短編に仕上げてみました。
どうぞよろしくお願いいたします!
――ゴーンと、鈍く大きな柱時計の音が聞こえた気がした。
直後、どこからか甲高い悲鳴が響いて、ゴウッと赤い炎がわたしの周りを取り囲む。
わたしはただ一人炎の中に立っていて、そして――
「きゃあああああああ‼」
わたしは、自分の悲鳴で飛び起きた。
一瞬、夢と現の区別がつかなくなって、きょろきょろと周囲に視線を彷徨わせる。
そこにあるのは薄暗い自分の部屋で、柱時計も、もちろん赤く熱い炎もない。
(……夢…………)
ようやく夢と現の区別がつきはじめたわたしが、ホッと胸をなでおろした――直後。
「クロエ‼」
バーン! と大きな音を立てて、わたしの寝室の扉が開いた。
ギョッとして振り返ると、片手に燭台を持った、背の高い男の姿がある。
燭台のゆらゆらと揺らめくろうそくの炎が照らしだす彼の顔は、キリリと凛々しい。
騎士団の副団長だけあって、背はすらりと高く、肩幅も広い。
社交界のご婦人やご令嬢たちからも大人気の、金髪碧眼の凛々しくも麗しい顔を持つ彼の名は、アーサー・ハワード・ウィリアムズ。
ウィリアムズ侯爵の次男でもある二十七歳のアーサーは、何を隠そう、わたしの婚約者だ。
婚約は十年前、わたしがまだ八歳の時にまとめられた。
いくらわたしが由緒正しいレノックス伯爵家の生まれだからと言っても、八歳の子供に、当時十七歳だった青年をあてがうのは正気の沙汰とは思えないが、どういうわけか、わたしのお父様も、アーサーのお父様も、そしてアーサー本人も乗り気だったという。
さて、そのアーサーであるが、凛々しい顔を焦燥に染めて、わたしが横になっているベッドまで走ってやって来た。
「クロエ、無事かい? すごい悲鳴が聞こえたんだけど、何かあったのかな?」
何を隠そう、わたしの婚約者アーサーは心配症だ。
そして彼の心配症は、普通の心配症とはレベルが違う。
わたしは詰襟の騎士服をきっちりと着こんでいるアーサーに白い目を向けて、言った。
「アーサー様。何度も何度もなんどーも同じことを申し上げたと思いますが……」
わたしはそう言いながらむんず、と後ろ手で枕をつかみ――
「ここは我がレノックス伯爵家の、わたくしの寝室でございます‼ どうしてまだ結婚もしていないただの婚約者であるあなたが、真夜中にこんなところにいるんですか‼」
わたしは力いっぱい、つかんだ枕をアーサーの顔に投げつけた。
悔しいかな、騎士団で鍛え抜かれた素晴らしい動体視力で、アーサーはひょいと枕をかわして、さも当然のように言った。
「俺は君がいつどこにいようとも、いつも見守っているよ」
「…………」
このやりとりも、一体何十回、何百回繰り返されたことだろう。
アーサー・ハワード・ウィリアムズ。
わたしの心配性の婚約者は、心配性がいきすぎて、かなりストーカー気味だった。
☆
「お父様もお父様よ。どうして毎日毎日アーサー様を家に上げるのかしら? っていうか、あの方寝てるの? 何かあればすぐ部屋に飛び込んでくるじゃない!」
チクチクチクチク。
イライラしているからか、いつもの二倍ほどの速度でハンカチに刺繍を刺しながら愚痴れば、お茶の準備をしていた侍女のプラムが苦笑した。
「まあまあ。多少いきすぎではありますが、アーサー様はお嬢様のことをとても大切にしてくださっているではありませんか」
「そう、だけど……」
わたしが一番悔しいのは、あの鬱陶しいくらいに常にそばにいるアーサーのことを、嫌いになれないことだ。
幼いころからとにかく可愛がってくれていたアーサーに淡い恋心を覚えたのは十を少しすぎたあたり。
そのころはまだアーサーの異常さに気づいていなかったわたしは、物語に出てくる騎士のようにわたしを守ってくれるアーサーにときめいていた。
それが、どうも様子がおかしいと気が付いたのが、社交界にデビューするあたりのこと。
子供のころも、振り返ってみたらアーサーは異常なほど我が家にいた気がするが、社交界デビューをしてから輪をかけてわたしに張り付くようになった。
邸から一歩外出しようものならすぐに追いかけてきて、友達とお茶会を楽しんでいるときも、ふと振り返れば木の陰に彼が立っている。
もちろんパーティーには婚約者として彼が同伴し、一瞬たりともわたしをホールドして離さない。
さすがにこれが異常だと気が付いたわたしは、もちろん本人にもそれとなく言ってみたし、お父様にも進言した。けれども、本人はもとより、お父様も「クロエのことを大切にしてくれる素敵な青年じゃないか」と言って聞く耳を持たない。
「アーサー様のことはもちろん好きよ? でも、よく考えてみて。今からこの調子なら、結婚したらどうなるのかしら? わたくし、一生一人になる時間が持てないかもしれないわ」
寝るときはまあいいとしよう。しかし、おトイレやお風呂のときまでくっついてきたらどうしよう。そんなことになればさすがに泣く。
「ご結婚すれば落ち着きますよ」
「そうかしら?」
「ええ。ほら、よく言うではありませんか。男性は釣った魚には餌をあげないと」
「…………それはそれで、どうかと思うわ」
べったり四六時中張り付かれるのも困るが、放置されるのも嫌だ。こんなことを思うわたしは我儘だろうか。
「ふふ、それになんだかんだ言って、お嬢様も姿が見えないと落ち着かないのでしょう?」
「そ、そんなこと……」
「さっきから、糸を変えるたびに視線を彷徨わせていらっしゃいますよ」
わたしはむーっと口をへの字に曲げた。
だいたいいつもそばにいるアーサーにも、外せない用事と言うものは存在する。なぜなら彼は騎士団の副団長なのだ。仕事があるのである。
……といっても、あまり仕事に行ってる感じはしないけどね。
今日は会議があるらしくて城に呼ばれているが、会議でもなければ出かけないのだ。それで仕事になっているのだろうか。謎だ。
「ほらほら、アーサー様がお戻りになる前に仕上げてしまうのでしょう?」
「うん」
わたしは刺繍途中の白いハンカチに視線を落とす。
はじめて刺繍をしたハンカチをアーサーにプレゼントしたのは十二歳のときだった。
そのときアーサーの喜びようが嬉しくて、ついつい暇があれば彼のためにハンカチに刺繍をしている。
「それにしても、昨日の夜はすごい悲鳴でしたね。虫でも出ましたか?」
プラムがわたしの前にティーカップを置きつつ訊ねてきた。
わたしは針を持ったままふと窓外の青い空を見上げる。
「ううん。違うの。よくわからないんだけど、最近、変な夢を見るのよね……」
あの夢はいったい何なのだろうか。
ぼんやりと夢の内容を思い出していたわたしは、プラムが表情を曇らせたことには気が付かなかった。
☆
「例の件だが、ようやく尻尾が掴めそうだ」
城の一角。
軍部のある棟の会議室で、アーサーの直属の上司――第三騎士団長のクライドが言った。
騎士団には五つの団に分かれており、それぞれに役割がある。
第三騎士団は主に国内で起こった犯罪の捜査や摘発を担当しており、構成されている団員の多くは貴族出身だ。犯罪の摘発ともなれば、武術だけではなく法にも詳しくある必要があり、経済環境により教育にばらつきの出やすい平民よりも、学ぶことも義務とされる貴族出身者が集まりやすいためだ。
会議室には一から五までの団長と副団長が揃っていて、難しい顔をしてクライドの話しに耳を傾けている。
「十年か……長かったな」
「ああ。上手く潜伏していたようだが、最近になって動きがあった」
「というと、十年前のあの要求は、たわごとではなかったわけか」
十年前――
アーサーは机の上に視線を落として眉を寄せる。
十年前、当時、十歳だったこの国の第二王子が、何者かに殺害された。
まだ第三騎士団の副団長の立場ではなかった十七歳のアーサーは、あの日、第二王子の護衛として側にいた。
第二王子は、母である第四妃とともに、王都から少し北にある第四妃の実家にいた。
名目上は避暑としてだったが、本当の理由は別にあった。
十年前、王都では不審な事件が立て続けに起こっていた。
それは貴族――それも高位の貴族の子息ばかりを狙う殺人事件だった。
殺害現場には決まって、一枚のメッセージカードが残されていた。
そこに書かれていた文面はすべて同じ。
――ヴェレリー王家に栄光あれ。
文面から、国王以下重鎮たちは、前王朝ヴェレリー王家の復権を望む過激派一派の仕業だと推測した。
ヴェレリー王家は百年ほど前に滅んだ王家で、最後の王は悪政の末に現在の王家フェレメント家に滅ぼされた。
そのときに国内にいた直系王族はすべて処刑されたはずだが、ただ一人、国外に嫁いでいた第二王女は無事だった。その第二王女の子孫を、再びこの国の王に担ぎ上げようとする一派がいることも、当時の時点でつかんでいた。
殺害された貴族の子息たちも、フェレメント王家にゆかりのある家の子らばかりで、王はそのうちに王子や王女たちにその矛先が向くことを恐れ、事件が落ち着くまで王都から遠ざけることにしたのである。
当時、事件は王都でしか起こっていなかった。だからだろう、王都から出れば安全だと、そういう先入観が働いていた。
そして、事件は起こった。
結果的に、それが最後の事件だった。
母方の実家で過ごしていた第二王子が、何者かに誘拐されたのだ。
慌てて捜索し、見つけたときには、王子はすでに殺害された後だった。
王子が発見された場所は、打ち捨てられた古い貴族の館で、駆けつけたときには邸に火が放たれていた。
現場には王子のほかにもう一人、王子の婚約者だった少女がいた。
少女は生きていて、燃え広がる炎の中から助けることができたけれど、王子の遺体を邸の中から運び出すことはできず、火が鎮火されたのち、焼け焦げて炭化した、顔の判別もつかない子供の遺体だけが出てきた。
状況から見てそれが第二王子であることは疑いようのない事実だった。
一緒にいた婚約者の少女は煙を吸って気を失っていたけれど、一枚のメッセージカードを握りしめていた。
そこに書かれていたのは、これまでとは違う言葉だった。
――十年後、王位をいただく。
その後、貴族の子息を狙った殺人事件はぱたりとやみ、犯人であろう過激派の尻尾もつかめないまま十年の月日が経過した。
「俺たちは十年前、みすみす犯行を許してしまった。あのような失敗は、もう二度と犯すことはできない」
ダン! と机の上を殴って、クライドが言った。
「今度こそ犯人を捕まえ、この国の平和と、そして失墜した我らの信用を取り戻すのだ‼」
クライドの号令に、各団の団長と副団長が「おう‼」と声を張り上げる。
アーサーは、ほかの団長と副団長とともに「おう‼」と叫びながら、そっと、目を伏せた。
☆
「クロエ、実は来週から、少し忙しくなりそうなんだ……」
当り前の顔をして我がレノックス伯爵家で夕食を食べながら、アーサーが言った。
わたしはポークソテーを一口大に切りながら、「そうですか」と生返事をする。
アーサーが忙しいと言って本当に忙しくなったためしはないのだ。今までの経験上、せいぜい、昼間にわたしの側に張り付けなくなる程度のことなのである。その程度のことを、世間一般には忙しいと言わないと思う。
「でも君がどこかへ出かけたいときには絶対に予定をあけるから、何かあったら必ず言うんだよ? 一人で家を出てはいけないからね。庭もダメだよ」
つくづく思うが、わたしは三歳の子供だろうか。
一人で家を出るどころか庭にも出てはいけないなんて、どれだけ心配性なのだろう。
わたしは助けを求めるようにお父様を見たけれど、アーサーに負けず劣らず心配性のお父様は、至極真面目な顔で大きく頷いた。
「クロエ、アーサー君の言うことをよく聞いて、彼がいないときは部屋の中でおとなしくしておくんだよ」
これである。
わたしは今度はお母様を見たけれど、お母様も愁いを帯びた顔で「この子の部屋に鍵をかけておこうかしら」と言い出した。
最後にすがるようにお兄様を見ると、こちらもこちらで「窓に板を打ち付けた方がいいかもしれないな」と言っている。
わたしは口をへの字に曲げて、大きめのポークソテーを頬張った。
どいつもこいつも、わたしを幼児か何かだと勘違いしているのではなかろうか。わたしはもう十八。いつ結婚してもおかしくない年齢なのだ。
……そう言えば、わたしが社交デビューをして三年もたつのに、まだ結婚式の話しも出てないわ。
周囲の友人たちは、次々に結婚している。
それなのにアーサーと来たら、結婚の「け」の字も言わない。
これは本気でわたしのことを、危なっかしい幼児だと思っているのかもしれなかった。
わたしはもごもごとポークソテーを咀嚼しながら、何気なく自分の体を見下ろした。特別胸が大きいわけでもないけれど、それなりに大人の女性の体つきのはずだ。
婚約したのがわたしが八歳の時のことだから、アーサーはわたしのことを女だと思っていないのかもしれないけれど、そこはお父様やお母様が口添えしてくれてもいいはずなのに、二人ともわたしの結婚について何も言わない。
「クロエ、夜には戻ってくるから、それまでいい子にしてるんだよ?」
っていうか、結婚しているわけでもないのに、アーサーは何故当たり前のような顔をしてこの家に帰ってくるのだろうか。
アーサーが毎日のようにこの家に帰ってくるから、これまた当たり前のようにアーサーの部屋が用意されているが、同居しているわけではない(はずである)。
第一、アーサーと結婚しても、アーサーが我が家に入るわけではない。
アーサーのウィリアムズ侯爵家は彼のお兄様が継ぐけれど、アーサーはアーサーで、ウィリアムズ侯爵家に付随しているハワード子爵の名をもらってすでにその名を名乗っている。だから、アーサーと結婚したら、わたしはハワード子爵夫人になるのだ。
「わたくしだって、一人でお出かけくらいできますわ。小さな子供ではないんですもの」
「だめだよ!」
「そうだぞ、クロエ。アーサー君の言うことを聞きなさい」
この家には、誰一人としてわたしの味方はいないらしい。
わたしはぷうっと頬を膨らませたが、わたしの小さな不満など、誰も理解してくれなかった。
☆
婚約者に子ども扱いされる鬱憤を刺繍にぶつけていると、執事が来客を告げにやって来た。
友人が訪ねてきたのかと思えば、来客は何と、第四妃らしい。
「お妃様が……わたくしに?」
「はい……現在、奥様がお相手しておりますが、どうしてもお嬢様にお会いしたいと……」
「そうなの?」
腑に落ちないものを感じながら、わたしはプラムに手伝ってもらって着替えることにした。
それにしても第四妃が、急にどうしたのだろう。
第四妃は、十年前に息子を亡くしたことでひどく憔悴し、城から離れ実家でずっと療養中だったはずだ。
わたしとも、我がレノックス伯爵家とも特に接点があるわけでもなく、もちろんふらりと訪ねてくるような親しい関係などあろうはずもない。
「でも、王都に来られたってことは、少しはご体調もよくなったのかしらね?」
ドレスのうしろのボタンを留めてくれているプラムに訊ねると、プラムがいつになく固い声で、「そうかもしれませんね」と短く答える。
「どうしたの、プラム」
「……いえ。ただ……お嬢様がわざわざお会いにならなくても、よろしいのではありませんか?」
「まあ、何を言うの? お妃様に呼ばれて無視するわけにもいかないでしょう?」
「そうですが……」
プラムの様子がどうにもおかしい。
だが、いつまでも第四妃を待たせるわけにもいかないので、プラムの様子について考えるのはあとにして、急いで支度を整えると階下へ急いだ。
第四妃とお母様は一階の南のサロンにいるらしい。
わたしがサロンに入ると、お母様が弾かれたように振り返り、ものすごく心配そうな表情になった。
一方第四妃は、まるで古い友人の顔を見たとでも言うように懐かし気に双眸を細めると、カーテシーで挨拶をするわたしに優しく微笑みかけてくれる。
「まあ、大きくなったわね。ずいぶんと綺麗になって……」
感慨深げに言われて、わたしは違和感を覚えた。
……わたし、第四妃様と面識あったかしら?
もしかしたら記憶にも残っていないほど幼いころにお会いしたことがあるのかもしれない。
でも、王の妃である第四妃が、昔ちらっと顔を見ただけの伯爵令嬢を覚えているものだろうか。
それに、彼女の微笑みからは、社交辞令と言うには親しすぎるものを感じた。
わたしがお母様の隣に腰を下ろすと、お母様がわたしの手をきゅっと握る。その手が微かに震えているようで、わたしはますます違和感を覚えてしまった。
「ねえ、わたくしが持って来たチョコレートを出してくださる? クロエに食べさせたくて、わざわざ取り寄せたものなのよ」
第四妃に言われれば、断ることはできない。
お母様が使用人に命じて、第四妃が持参してきたというチョコレートと、それから新しい紅茶を用意するよう命じた。
紅茶とチョコレートが運ばれてくると、第四妃が笑顔でチョコレートを薦めてくる。
「さあ、召しあがれ。レノックス伯爵夫人も」
「ありがとうございます」
わたしがチョコレートに手を伸ばすと、お母様も躊躇いながらも同じようにチョコレートを手に取った。
甘さの中にも独特の苦みのあるチョコレートだった。
普段食べるチョコレートとは若干味が違う気がするが、これはこれで美味しい。
お母様が紅茶でのどを潤してから、強張った顔で第四妃に向きなおった。
「妃殿下、本日は娘にどのようなご用件でございましょう?」
お母様が訊ねると、第四妃はきょとんとした顔をした。
「用件? そんなの決まっているじゃない。迎えに来たのよ?」
「迎え……ですか? それはいったい……」
お母様が戸惑った声を出したが、戸惑ったのはわたしも同じだった。
迎えに来たとはどういうことだろうか。第四妃と何か約束をした覚えはない。
わたしはお母様と顔を見合わせたが、第四妃はその反応が気に入らなかったようだ。
「まあ、ひどいわ。約束したじゃない」
「お約束、ですか……」
いつそんな約束をしただろうか。
まったく思い出せずにいると、第四妃は焦れたように続ける。
「十年後、迎えに来るって言ったでしょ? どうして覚えていないの? あなたはわたくしをあんなに慕ってくれていたのに……ねえ、わたくしの可愛い娘……」
「妃殿下‼」
お母様が突然声を張り上げた。
驚いたのはわたしだけではなく、第四妃もだった。
目を丸くした第四妃を厳しい目で睨みつけて、お母様がわたしの肩を抱く。
「この子はもう、他の方と結婚の約束をしております」
「まあ! わたくしの可愛い子を裏切るの? ひどいわ、クロエ!」
「裏切る……?」
何を言っているのだろう。戸惑いと――それとは別に、何かもやもやしたものが頭の片隅をよぎった。
何だろう。何か、重要なことを忘れているような――
「この子はわたくしの息子の婚約者よ。迎えに来ると約束したわ。ねえ、クロエ?」
「息子……」
第四妃が産んだ子は第二王子だけ。
そして第二王子は――
「――――っ」
急な頭痛に襲われて、わたしは両手で頭を抱えるとぎゅっと眉を寄せる。
「クロエ!」
お母様が真っ青な顔でわたしの名前を呼んだけれど、頭が痛すぎて、その声もはっきりとは聞こえなかった。
……お母様が何か言ってる。
何を言っているのだろう。何か悲鳴のような――そう、悲鳴。
「ねえ、約束したでしょう?」
第四妃の、チョコレートのように甘い声。
……約束。
…………約束?
――遠くの方から、絹を裂いたような、甲高い悲鳴が聞こえた気がした。
目を見開くわたしの視界で、誰かが微笑んでいる。
床には息絶えた一人の少年が横たわっていて、その奥に、もう一人、目を見開いたまま倒れている女性。
「クロエ――――」
誰かが、わたしの名前を呼んだ。
ごうっと音を立てて、目の前に炎が広がる。
赤くて熱い炎。
ふっと意識を失う瞬間、誰かがわたしを抱え上げた気がした。
そして、意識が闇に沈んでいくわたしの耳に、そっとささやく。
「クロエ……十年後、迎えに行くよ……」
あの声は――
「クロエ‼」
パンッと頬が叩かれて、わたしはハッと我に返った。
顔をあげると、必死の形相をしたお母様の顔がある。
炎も、死体も、どこにもない。
わたしが茫然と第四妃を振り返ったとき、お母様の体がぐらりと傾いだ。
「……お母様?」
ぱたりとわたしに覆いかぶさるように倒れこんだお母様に愕然として、わたしはお母様の肩を揺さぶった。
「お母様⁉ お母さ――」
突如として、くらり、と視界が揺れた。
目の前がチカチカして、急激な眠気に襲われる。
「お眠りなさい」
甘い声に振り返れば、第四妃が艶然と微笑んでいた。
「大丈夫、ただの眠り薬よ」
まるで子守歌のようにささやく第四妃の声にかぶさるように、どたどたと無粋な足音が響いた。
使用人たちの悲鳴が上がって、見知らぬ男たちがサロンの中に押し入ってくる。
「あなたが本来いる場所に、いなければならない場所に、連れて帰ってあげるわ」
わたしはきゅっと唇をかむと、テーブルの上に置かれていたフォークをつかんだ。
そのフォークを、自分の太ももに勢いよく突き立てる。
眠り薬で朦朧としていたため、力いっぱい突き立てたつもりでも、ほとんど力は入っていなかったようだが、太ももに走った痛みは、強烈な睡魔を弾き飛ばすには充分だった。
「わたくしは――」
わたしが口を開いた次の瞬間、邸の中に、野太い悲鳴が上がった。
今度は何が起こったのだろうかと不安を覚えたわたしの耳に、よく知った声が聞こえてきた。
「クロエ‼」
……ああ。アーサーだ。
毎日毎日聞いてきた声だ。姿が見えなくてもすぐにわかる。
アーサーと、彼とともになだれ込んできた騎士たちに、第四妃が悲鳴を上げた。
「拘束しろ‼」
アーサーの怒号に、騎士たちが第四妃と、そして部屋の中にいた見知らぬ男たちを次々に拘束した。
「クロエ!」
アーサーがわたしに駆け寄り、ドレスのスカートににじむ血を見つけて瞠目する。
「怪我を……!」
「アーサー様‼」
わたしは、アーサーの言葉を途中で遮って、彼の腕をつかんだ。
そして、叫ぶ。
「急いでくださいませ! 第二王子殿下が、陛下や王太子殿下の命を狙っております‼」
☆
第四妃とその実家の伯爵家、そして、十年前に死んだと思われていた第二王子が捕縛されたという報告を、わたしはベッドの上で聞いていた。
自分で刺した太ももの傷はさほど深くはなかったが、心配性のアーサーをはじめ、家族全員に安静を命じられて、ベッドの上に拘束されてしまったのだ。
わたしの部屋には、アーサーと、そして彼の上官であるクライドが、事情聴取に訪れていた。
「つまり、十年前に発見された遺体は、第二王子殿下ではなく彼の乳兄弟のものだった、と?」
クライドの確認に、わたしは大きく頷いた。
第四妃の出現で、わたしはずっと忘れていた記憶を取り戻した。
十年前――
わたしは、第二王子の婚約者だった。
第二王子に誘われて第四妃の実家に遊びに行っていたわたしは、ある晩、第二王子の乳兄弟と、その乳母とともに誘拐された。
甲高い悲鳴を聞いて目を覚ますと、わたしは知らない館にいた。
目の前には第二王子と、そして知らない男たちがいて、彼らの足元には第二王子の乳兄弟が事切れて横たわっていた。
そして、目の前で乳母が切り殺されて、ショックで気を失いかけたわたしに、第二王子が言った。――十年後、迎えに行く、と。
「十年前のあの日、どうしてか君だけが館の玄関に倒れていたんだ。俺は君が炎から逃れて玄関まで逃げてきたのかと思っていたんだが、君は、彼らに玄関まで運ばれたということか」
「そうだと思います」
炎に焼かれた館からは、焼死体が出た。死体は炭化していて、かろうじてそれが人であったと判別できるような、ひどいものだったらしい。
第二王子がどこにもいないことから、子供の死体は第二王子のものとして、大人の死体は身元不明者として扱われた。
乳母とその息子の姿が見えないことから、その二人は重要参考人として指名手配されることになったが、本当は逆だったのだ。
「第四妃の実家については、最近、怪しい動きがあると報告が上がっていたんだ。だが、第二王子は過激派に殺害されたと思われていたから、まさかそこが過激派の中心だとは思わなかった」
第四妃の伯爵家は、隣国に嫁いだヴェレリー王家最後の生き残りの王女の血を引いているそうだ。
もともとヴェレリー王家に仕えていた伯爵家は、秘密裏に、王女の産んだ子の一人を伯爵家の養子として迎え入れた。
そして、フェレメント王家に復讐するため、着々と準備を進めていたそうだ。
第四妃がフェレメント王家に嫁いだのは、彼らを油断させるためだったという。
幼少期からフェレメント王家への怨嗟を叩きこまれた第二王子は、自分の父や兄を、家族と認識してはいなかった。
わたしの叫びを聞いて、アーサーがすぐに城へ駆け戻ったとき、城に忍び込んだ第二王子は王太子に斬りかかる寸前だったという。
「どうもありがとう」
事情聴取を終えてクライドが退出すると、アーサーがベッドの縁に腰かけて、心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「……十年前、君が過激派の犯人の顔を見たのではないかとは思っていたんだ」
わたしは事件のショックで当時の記憶を失っていたが、過激派の人間にはそんなことはわからない。
口封じのためにわたしが狙われるのではないかと、アーサーも、家族も、この十年間、気が気ではなかったそうだ。
アーサーや家族のいきすぎた心配性は、そのせいだったらしい。
アーサーがわたしの婚約者になったのは、身近に騎士を置いた方が安全だろうという配慮からだったという。
……つまり、アーサーは、巻き込まれちゃったのね。
アーサーは十年前、第二王子を守れなかったと自責の念を感じていた。
その代わりに、婚約者としてわたしを守ろうと必死になってくれていたのだろう。
これまでわたしに張り付いていたアーサーの行動の理由がわかって、すっきりしたはずなのに、なんだろう、胸の中がもやもやする。
つまるところアーサーは、わたしが好きで張り付いていたのではなくて、ただの任務だったのよね。
……なんか、胸の中が、寒い。
過激派が捕まって、これからアーサーはどうするのだろう。
もうわたしの婚約者でいる必要はないわけだから――この婚約は、解消されてしまうのだろうか。
いつアーサーの口から「さようなら」という一言が飛び出すかとびくびくしていると、アーサーがわたしの手をそっと握りしめた。
「クロエ。君のおかげで王太子殿下や陛下は無事だった。でも、もう二度と自分で自分自身を傷つけるのはやめてくれ」
小さく顔をあげると、今までにないくらいアーサーは心配そうな顔をしていた。
「過激派が捕まって、もう君を自由にしてあげられるのに、君がそんなだと、心配で心配で、やっぱり目が離せないよ」
「……じゃあ、今までのように、ずっとわたしに張り付くの?」
「今までよりも、もっと張り付くことになるかもしれない」
否定されると思っていたのに、「もっと」と言われて、わたしは目を丸くした。
「どういうこと?」
「…………だから……もうすぐ新居ができるんだ」
「新居?」
「……義父上には、過激派の一件が片づいて、君の安全が保障されたら、結婚を許可すると言われていた」
「え……?」
わたしはぱちぱちと目をしばたたいた。
アーサーは目元を赤く染めて、わたしの視線から逃げるように俯く。
「先走って新居の準備をはじめてしまっていたんだけど……でも、これで晴れて君と結婚できるはずだから……」
「まって」
わたしは慌ててアーサーの言葉を遮る。
「わたしたち、結婚するの?」
「え、したくないのか⁉」
「え、ええっと、そうじゃなくて……」
てっきり婚約は解消されると思ったから、結婚の話になって驚いただけだ。
アーサーは一度立ち上がると、わたしの片手を握ったまま、ベッドのすぐ横に片膝をついた。
「クロエ。俺はやっぱり君のことが心配で心配で、この先もずっと、それこそ一日中君にべったりと張り付いてしまうかもしれないけど……こんな俺でよかったら、結婚してくれませんか?」
堂々と四六時中張り付きます宣言をされてあきれたけれど、心の中に嬉しいと思う自分もいて、わたしはそんな自分自身がおかしくなる。
……ずっと張り付かれて、困っていたはずなのに、それ以上にアーサー様がいないといやなんだわ。
わたしもアーサーにつられて顔を赤く染めると、きゅっと彼の手を握り返して言った。
「張り付くのは、ほどほどにしてくださいね……?」
お読みいただきありがとうございます!
よかったらお気に入り登録や、下記の☆☆☆☆☆にて評価をいただけると嬉しいです!
どうぞよろしくお願いいたします!
~~~~~~
こちらもどうぞよろしくお願いいたします。
「憧れの冷徹公爵に溺愛されています」
https://ncode.syosetu.com/n8922hw/