あなぐらの住人
穴の底から見上げる空は、狭くて高くて明るかった。幾人ものフィルルルスが舞い上がったり舞い下りたりしてたわむれ、赤や青や黄色や緑の翼がきらきらと輝いた。
フィルルルス。一対の翼に申し訳程度の手足と胴体と頭をくっつけた、美しい、軽やかな、楽しげな生きもの。おれはあれを眺めると気持ちがもやもやする。この世界にはあんなきれいな生きものもいるというのに、おれはといえば固い岩の地面に穴を掘って一生をその中で過ごす怪物なのだ。みにくい、きたならしい、ぬるぬるした、一目みただけで吐き気をもよおすこと請け合いのしろもの、その名もグベゾブ。それがおれだ。
きのうもきょうもあしたも、おれは体じゅうから強い酸をしみ出させて岩を溶かし、それをすすって生きている。岩が溶けるときには白い煙が立ちのぼり、おれはその煙をすかして空を見る。フィルルルスの舞う空を。
フィルルルスのなかに一人、妙に目をひくのがいた。まずその黒い色が、ほかの華やかな色合いのフィルルルスのなかでは非常に目立った。また、そいつは飛ぶのがへただった。ふらふらしたあぶなっかしい飛びかたで、そのうえ長いあいだ飛んでいることができず、ときどき地面に下りてきてひとやすみする。ほかのフィルルルスはそんなことはしない。ふつうはフィルルルスが飛ぶのをやめるのは死んだときだけだ。
おれの住んでいる穴から少し離れたところに、高い岩がひとつそびえている。例のフィルルルスはこの岩がお気に入りのようで。ちょくちょく岩のてっぺんにすわって翼を休めていく。穴の底からでは見えないので、おれは穴のふちぎりぎりまでよじのぼって、壁にしがみついてその様子を眺めた。空を飛んでいるときには遠くて気がつかなかったが、そいつの黒い羽毛はただの黒ではなく、虹色の輝きを帯びていた。おれが岩を溶かしたときにも、溶けた岩の表面に油が浮いてきて虹色に光ることがあるが、あれによく似ている。このうえなく美しいと感じた。
そいつは岩の上でよく歌をうたった。フィルルルスの歌声というのは、それはもう、高く透きとおったきれいなもので、おれのようなグベゾブの濁ってくぐもった声とはまったく比べることができない。おれは穴のなかでひたすら聞きほれた。歌はいくつもあったが、どれもごく他愛のない恋の歌だった。驚いたことに、フィルルルスがグベゾブに恋をする歌もあって、聞いているおれは切なさのあまり体がばらばらになりそうだった。
歌をうたっていないときには、そいつは一人で延々とおしゃべりをした。だれも話し相手がいないのに、よくもあんなにしゃべれるものだ。話の内容は最近お天気が続いてうれしいとか、だれそれの抜け毛が激しくて心配だとか、そんなどうでもいいことばかりだったが、とにかく楽しそうだった。
その事故は突然起こった。何人ものフィルルルスが空の上で追いかけたり逃げたりして遊んでいて、わざとかうっかりか、そのうちの一人があの黒いフィルルルスにぶつかったのだ。ぶつかったほうは特にけがをした様子もなく、すぐに姿勢を立て直して飛びつづけたが、ぶつかられたほうは当たりどころが悪かったか、まっさかさまに落ちてきた。あの美しい声が悲鳴を上げるのがかすかに耳に届いた。
穴の底から一部始終を見ていたおれは、全身の粘液が凍るかと思うほどの恐怖を感じた。このまま落ちて地面にたたきつけられたら、あの黒いフィルルルスはまちがいなく死んでしまう。
無我夢中でおれは穴から這い出した。グベゾブは地面の上に生まれ落ちるとすぐその場で岩を溶かして穴を掘ってもぐりこみ、よほどのことがなければ穴から出ることなく生涯を終える。そもそも穴から出ようなどという考えは、グベゾブの頭にはまったく浮かんでこないものなのだ。だがこのときは、あのフィルルルスの落ちる場所に駆けつけることで頭がいっぱいだった。落ちてゆくのを穴のなかでじっと見送るなど、とても耐えられなかった。
けれども、穴の外に出てふとまわりを見たおれは、たちまちその場に立ちすくんだ。見渡すかぎりの岩の地面、そこにあいた無数の穴からグベゾブ、グベゾブ、グベゾブ、穴の数と同じだけのグベゾブがぞろぞろと這い出てきたのである。みにくい、おぞましい、きたならしい、粘液まみれの、ぬるぬるした、てらてらした、わが同胞の群れ。何百とも何千ともわからぬそれが、広大な土地をおおいつくしている。悪夢のような眺めだった。
それまでおれは、あの黒いフィルルルスに惹きつけられるのは自分だけだと思っていた。とんでもない勘ちがいだった。およそグベゾブというグベゾブがみな、おれと同じようにあいつに魅了されていたのだ。ただ、グベゾブは総じて引っこみ思案で、穴の中で静かに思いをつのらせるだけだから、ほかのグベゾブの様子がわからなかっただけだ。
遠くのほうで黒い翼がひらひらと地面に落ちるのが見えた。あのフィルルルスが地面にぶつかる寸前にかろうじて翼をひろげ、いくらか速さを殺したのだ。あれなら無傷とまではいかなくとも、死にはしないだろう。
あたりのグベゾブの動きは二つにわかれた。墜落の場所に近かった者はますます急いで近づこうと這いずり、わりあい遠くにいる者は追うのをやめてすごすごと自分の穴に戻ってゆく。
おれも穴に戻るほうの組だった。慣れ親しんだ穴にたどりつき、その底にべちゃりと体を流しこむ。もしも、と考える。もしもおれがあのフィルルルスのもとに真っ先に駆けつけることができたら、そっと抱え上げて自分の穴に連れて帰り、傷が癒えるまでかくまっただろう。狭い穴の中にふたりで身を寄せ合って過ごしただろう。そしてあのフィルルルスの歌う声が穴をすみずみまで満たしただろう。想像するだけでうっとりする。そして悔しさのあまり身もだえする。今まさに一人の最も幸運なグベゾブがそのようにしているのだ。そのことを考えると、体を覆う粘液が全部蒸発してしまいそうなほどの狂おしさに襲われる。行き場のない思いが酸性の体液となって体じゅうから噴き出し、まわりの岩をむやみと激しく溶かした。
そののちしばらくのあいだ、あたりに広がる岩の大地はいつもとは比べものにならないほどのもうもうたる煙に包まれた。