5 マクファース、亡国の王子の逃避行
登場人物
マクファース 元ライクレット王国 王子 14歳
ニーニア マクファース付き侍女 15歳
ナンゾエラール 元ライクレット王国 将軍
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
5 マクファース、亡国の王子の逃避行
ナンゾエラールは先に立って山道を歩いて行く。今はニーニアが馬に乗せられ、疲れた顔で揺られていた。王城を出て10日、国境の砦を迂回し鬱蒼とした木々の茂る斜面に分け入ったのだ。
ホウホウ、キィーなどと遠くから響く鳥だか猿だかの鳴き声が聞こえる中を一行は進んで行く。
用意した食料はとうに尽き、ナンゾエラールが弓で仕留めた小動物から肉を切り取って分け合う。
伊達に下級貴族出でありながら、大将軍などと呼ばれるに至った男ではないことを証明した形だ。食用になる草にも目が利くのは長年戦場を駆け回った証だろう。
それでも足腰の衰えは隠せなかったが、連れが王子とその侍女では比較にもならない。己のペースで山道を休みながら進んでいった。
馬が歩けるような場所を選びながら、枝を払い草を薙いで進んで行くと、見晴らしの良い場所にひょっこりと出た。
辺りを見回したナンゾエラールはここで休憩することにした。馬の背から荷を下ろし、引き綱を緩くして立木に繋ぐと、馬は辺りの草をバリバリと千切って食べはじめた。
荷から水袋を取り出しカップを軽く洗うと王子に差し出す。自らも腰を草の上におろし、ふうと息を吐いた。
「この山を越えればもうライクレットではございません。君臨する者のいない土地であります。縛る者がおらぬ自由はありますが貧しい暮らしをしております。盗賊なども多いと聞きます」
「でもここまで見た村だって、真新しい小さな墓標がたくさん並んでいた」
「左様ですな。ライクレットもここ5年は郊外の村はさぞ住みにくかったでしょうな。ですが昔はそうではありませんでした」
「なんでこんなことになってしまったの?」
「さて……不作がきっかけと言われおりますが、ワシの見るところでは驕りでありましょう……」
その胸に何が去来しているのか、そのあとナンゾエラールはもう何も答えなかった。
マクファースが日当たりの良さに眠くなったのだろう船を漕ぎ始めたところで、ナンゾエラールが静かに弓を引き出した。ニーニアに揺り起こされ目を大きく開いたマクファースが剣を引き抜く。
それを片手で制しナンゾエラールは斜面の上に向け弓を引き絞った。
数羽の鳥がバタバタと飛び去る。
微かなカサカサという葉ずれの音、風があちらで巻いたのかと思う程度だったが、ナンゾラールは引き絞った矢を放った。
ドスッと鈍い音と共に唸り声が上がった。
グルルゥ……
ナンゾエラールは次の矢を引き絞る。葉を押し分ける音が移動する。緊張の糸が張り詰める。その均衡を破ったのは一匹の羽虫だった。
眼前にうるさく舞う羽虫をマクファースが左手で払ったのだ。
一瞬遅れて藪の向こうで大きく動く気配に向けナンゾエラールの矢が飛ぶ。当たったのか躱されたのか、構わず突き進んでくる気配に、ナンゾエラールが弓を捨て剣を引き抜いた。
やや右手低く飛び出す黒い塊に向かってナンゾエラールの剣が突き出される。
それを躱し立ち上がったのは、脇腹に矢を一本突き立て、体長2メル超えた黒一色のクマだった。
「王子、お退がり下さい。万一の場合は逃げて下され」
そこまで言って、ナンゾエラールは踏み込みと同時に剣を軽く突き出す。動きに反応して右前肢を振り回すクマに、一旦引いた剣を肩口目掛け突き込んだ。
クマは仰反るように刺さった剣から逃れ、そのまま上体を戻す勢いで左肢をブンとばかりに振り下ろした。跳び退がるが躱しきれずにナンゾエラールの左脇から血が舞った。
1歩2歩と追い縋るクマにナンゾエラールは足を踏ん張り、引き身の剣を後ろから振り上げる。クマの振り出す左肢と剣が当たり、指を数本切り飛ばす。
弾かれて体勢を崩し、膝を突くナンゾエラール。
痛みに絶叫を上げ、クマが一歩下がり前脚を下ろし4つん這い、その頭に立ち上がったナンゾエラールの兜割りが振り下ろされた。体勢が不十分ではあったが、その一撃はクマの顔面を切り裂き、片目を潰した。
退がりながら闇雲に振り回されたクマの右肢が、ナンゾエラールの胴鎧を叩く。
弾かれて一回転し地面に叩きつけられるナンゾエラールを見て、マクファースが足を踏み出す。
「なりませんぞ、王子。手負いとは言えまだ手強い相手」
だがクマは踏み出された足音に向かって飛びかかった。肩と指に大きな傷を負い、顔面を切り裂かれ口も開けられないのが幸いしたと言えるかどうか、マクファースはクマの上体を正面から浴び地面に叩きつけられた上、その体重で押し潰された。
もがくように起き上がって、獲物の抵抗がないことに戸惑ったのか、ゆっくりと辺りをクマが睥睨する。
その間にナンゾエラールが立ち上がり、再び剣を構えた。王子はクマの下で伸びている。
前肢に力の入らないクマが尻を突き出すようにして立ち上がろうとした。その頭が上がりきらないうちに再び、ナンゾエラールの兜割りが打ち落とされた。
脳天にまともに剣を受けたクマはそのまま後ろへ倒れ、ドスンという音を最後に動かなくなった。
しばらくの間そうやって動かない獣を見ていたが、地に剣を突き立てナンゾエラールはガックリと尻を落とした。
ハッとニーニアが王子に駆け寄ってペタペタと顔や首に触れる。息があると知ってホッとした顔で王子を揺すりはじめた。
「マクファースさま。マクファースさま。起きてくださいまし。どうか目を覚ましてくださいまし」
「う、うーん」
ニーニアは残り少ない水をナンゾエラールとマクファースに飲ませ、回復を待った。
倒したクマをどうしたらいいのかニーニアは途方に暮れてたようだ。ナンゾエラールが武の人だとは言っても獣の解体などしたことがない。ニーニアもマクファースも街の住人だ。獣を見るのも初めてだろう。
だが肉が食料になるくらいはわかる。
ニーニアはナイフでクマの足を切り取ろうと毛皮に突き立てた。ザギザギと関節辺りを切り開き切り離そうとするが、骨や固い筋に阻まれなかなか分離できない。
「退きなさい」
回復したナンゾエラールが剣を振り上げ、クタっとしたクマに切りつける。3回づつ剣を叩きつけ息を切らしながら、やっと4肢を外すことに成功した。
ニーニアは尻の肉を狙って皮を切り始めた。足を切り落とした後なので皮を剥ぐのは割と簡単そうだった。
大きな肉の塊を取れるだけ切り取って、近くの大きな葉で包み背嚢に入れようとして、滴る血にニーニアは顔を顰めた。
マクファースとニーニアが落ち枝を集め、火を起こすと夕方までかかって、薄切りにした肉を炙る。焦げかけたものはそのまま夕食として3人の腹に消えた。少なくとも血まみれの背嚢を背負うのだけは避けられそうだった。
切り取った四肢も皮を剥いで火干しにできた。5、6日分の肉は確保できたろう。
翌朝、ナンゾエラールが眠い目を擦りながら出立を告げる。見張りのため一晩中うつらうつらと座ったまま過ごしたらしい。
だいたいの方角は分かったつもりで山道を辿っていくと、馬の横を歩くニーニアが声を上げた。
「マクファースさま、ナンゾエラールさま、ご覧下さい。あの森から突き出る尖ったものは何でございましょう?」
言われて見ると森の木々の間に、何か黒い槍の穂先のように突き出たものが見える。だがまだ相当の距離があるようで、見ているうちに霞んで見えなくなった。
その方角だけ心覚えして獣道のような山道を降っていく。途中水の流れを見つけ、飲めるだけ飲み皮袋に詰めてさらに降って行く。日は間も無く中天に達しようかという所で、少し開けた場所へ出た。
街道からどれほど外れたものやら見当もつかないが、人と会わずに済む方が今はありがたい。
ナンゾエラールが周囲を見て回り、その後をマクファースとニーニアが乾いた落ち枝を拾って歩いた。見通しの良い場所で焚き火を始めた。
生乾きのクマ肉を炙り、皮の匂いがきつい水を啜って昼食だ。
火を囲んで、美味いとはお世辞にも言えない食事をしていると、炎が大きく揺らいだ。直後、火の粉が舞い上がるほどの一陣の風で慌てたが、周囲に火が点くようなことはなかった。
3人が辺りを確かめるように見て周り、ふと眼を上げた先に、霞む古城が姿を見せていた。
先程の風で霞が飛んだのだろうか?
1本の尖塔を中心に据え、裾を大きく広げた城は城壁に取り付いた低木でその輪郭も朧げだったが、相当に大きい。
おお、と見ている間にまた靄がかかったようで、また見えなくなった。その方角に夕暮れまで歩いたが、思いの外歩きにくい地形に城には辿り着けなかった。その晩は木に登り落ち着かない夜を過ごすこととなった。
・ ・ ・
マクファースは木の間から差し込む朝日に眼を射られ、眩しさに起こされた。下を見回すと苔むした根のゴツゴツが広がる地面が見えている。あの滑りやすい苔と広く波打つように張った根のお陰で、昨日はろくに進めなかったのだ。馬も無事だった。
マクファースが一つ首を振り周囲を見回しアッと声を上げた。そう遠くないところに黒々とした城壁があったのだ。
「ナンゾエラール、ニーニア!城壁だ。すぐそばにあるぞ!」
「なんですと?」「本当ですか?まあ!」
「入り口は何処だろう?」
ここから見えるところにはそれらしいものはない。木から降りて城壁を見回す。
壁の手前には枯れ木やゴミが溜まっているが、元々は大きな溝があったようで、窪みらしいものが続いていた。左手の奥に少し高い場所が見えるようなので、そちらから調べて見ることになった。滑りやすい足元を確かめながら馬を引いて進んで行く。
右手の所々に隙間や穴の見える窪みと、その向こうの黒い壁を見ながら、歩き易い場所を選び回って行く。
遠目に1段高く見えたのは城門へ続く道だった。城壁に少し突き出た門は高さが5メルはありそうな黒い扉が嵌っていた。
せっかく見つけた入り口というのに、無情にも閉まっている大扉をナンゾエラールとマクファースが恨めしげに見上げていると、ニーニアが声をかけた。
「マクファースさま。こちらをご覧ください。通れるかもしれません」
見ると扉前の石橋が左の壁際だけ少し広い。突き出た門の向こうに通用口が見えた。行って見ると朽ちた、人ひとりがやっとと言う小扉が半ば崩れてそこにあった。
ナンゾエラールが剣で枠の中の木材を抉り出す。いくらも経たず通れるようになった。城壁は厚く6、7メルもある穴を通り抜け、やはり崩れかけた小扉をナンゾエラールが蹴り開けた。
城壁の中は枯葉が少し積もっている程度で、余程大きな石が敷き詰められているのか、蹴り退けてみても継ぎ目が見つけられない。思っていたよりもずっときれいだった。
中から見る外の大扉はひと抱えもある大木の閂が2本も掛かり、内扉は大きく手前に開いていた。こちらは風雨にさらされ上の方が崩れていたがまだ形はしっかり残っている。
門の正面には大通りが中心に向かって伸びていて、通りの左右は黒い石造りの建物。
左右を見ると、同じような石造りの建物と外壁の間にぐるっと10メルほどの通路がある。門の左に城壁に登るためと思われる石の階段があった。
通りに面した石造りは窓を見ると3階建てらしい。
戻ってどうやっても通せない馬の背から荷を降ろし馬具も外すと、持てるだけの食料、水を持って通用口を潜る。
「この廃墟へ踏み込む前に、腹ごしらえをした方がよさそうですな」
言われたマクファースが起き抜けから動き回っていたことに気が付いたようだ。
ニーニアのお腹が可愛い音を鳴らすのが聞こえたような気がした。




