アスロポリカの魔女・・・魔法研究会3
アスロポリカは大きく分けて五つの街に分かれている。王府や学院など、国の中枢機関が集まる城下、高級住宅街である一番街に続き、二番街、三番街、四番街――社会的地位や家柄に応じて、区分けされた街に住民登録がなされている。
スウリが下宿している宿屋『ハウス・レコ』は、最も人口の多い三番街にある。
バスを降り、石畳の上を歩く。夕日が足元をオレンジ色に染め上げている。もうあと何時間もしないうちに店という店は今日の営業を終えて、街は静かな眠りにつくだろう。スウリの生まれ育った国は眠らない街も少なくなかった。二十四時間営業の店すらあったが、アスロポリカにそうしたものは一切ない。初めは不便だったが、慣れてしまえば静かな夜は本を読むのに大変心地のよいものである。便利過ぎるのは却って良くないのかもしれないな、と考えるようになったのは留学の成果になるだろうか。
ふと顔を上げると、甲冑姿の兵士が行き交うのが目に入った。兵士が街を巡回しているのはこれまでも目にした事はある。スウリにとっては甲冑すら真新しく、最初に目にした時は嬉しくなったが、それも見慣れてしまえばただの景色だ。
しかし、これまでとは少し様子が違っていた。今日の彼らはいつも以上に重厚な装備を身につけ、人数も格段に多いような気がする。なるほど、フランカが言っていたのはこれか。先刻の話を心の中で反芻する。魔法研究会で聞いた話はあながち間違いではないのかもしれない。
「君、すまないが少しいいか」
金属が軋む音と共に、突然肩を叩かれる。振り向くと、見慣れない兵士が立っていた。
「何でしょうか」
訝しむスウリに、兵士は一枚の紙切れを突きつける。そこに描かれていたのは、腰まで届く長い黒髪を持つ少女の姿だった。先刻、研究室で見た記事の切り抜きが脳裏にチラつく。
「このような女に見覚えはないか」
「見ていませんけど」
「そうか。もし見掛けたり、噂話の一つでも聞いたら巡視している兵士に知らせなさい。非常に危険なのでね」
「危険?」
スウリの好奇心が、こいつに少し探りを入れてみようか、と囁く。
「俺はここに留学で来ているんですけど。この国は非常に安全だって聞いているんですが、この女の子は凶悪な犯罪でもしたんですか」
兵士は僅かに沈黙し、咳払いしてスウリの肩を軽く叩いた。
「我々が隈無く巡視しているから、心配することはない。さあ、日も沈んだ。引き留めて悪かったな、早く宿に帰りなさい」
兵士は足早に去っていった。呼び止めようと振り向く。兵士を目で追うと、並んで歩く男女にあの紙切れを突きつけているところだった。どうやら、聞き込みのターゲットが変わったらしい。スウリはもやもやとしたものを抱えながらわあいつ答えなかったな、と小さく呟いて、ハウス・レコへ向かった。
ハウス・レコは小さな宿屋だ。他の宿泊客をあまり見たことはない。聞けば、スウリのような長期利用の留学生や、他の宿を押さえられなかったバックパッカーくらいしか利用しないらしい。もっとも、旅行客自体が少ない国ではあるから、宿屋の需要もそれほど高くはないのだが。一階部分はダイニングになっていて、夜はバーとしても営業している。
「おかえり、遅かったね」
酒瓶の並んだカウンターの向こうから穏やかな声がした。ただいま、と答えると、声の主である色黒の青年が顔を覗かせた。この宿の従業員、ムクである。
「ご飯、作ろうか」
ムクは壁に掛けてあったエプロンを身につけ、冷蔵庫の食材を吟味し始めた。スウリはテーブル下の椅子を引っ張り出し、カウンターのそばに座る。
「ご飯ありがとう。今日はとうとうあいつらに捕まったんだ」
フランカとヴィルゼーはこの店の常連だった。休みの日の昼時には、よくランチを食べに揃ってやって来る。スウリが初めてハウス・レコの扉を叩いた時も居た。それがきっかけで顔馴染みになり、しばしば面倒くさく絡まれるようになってしまったが、お陰で心細さをほとんど感じることは無かった。
「ヴィルゼーは気に入った相手にはしつこいから。それで、魔法の話は聞けたの?」
「散々ね。やっぱり俺には理解は出来なかったけど」
スウリの退屈そうな顔にムクは苦笑して、目の前に水を注いだグラスを置いていった。ありがとう、と片手を上げ、冷えた水を呷る。ほんの少し、柑橘のような酸味ががした。
「なあ、ムク。お前、長い黒髪の魔女の噂って聞いた事あるか」
「むしろ、今なら知らない人の方が少ないと思うよ。スウリは本当に魔法のことに関心がないんだねえ」
予想外の返答に、スウリはどきりとした。
「どういうことなの」
「国中ザワついているんだ。特に、三番街や、四番街ではね」
野菜を切る小気味よい音に混じるムクの声は相変わらず穏やかだったが、スウリは何故か胸騒ぎがした。ムクは話を続ける。
「目撃されているんだって。夜中に、三番街や四番街で。人との接触は、あんまりしないみたいなんだけど。貧しい暮らしをしている人たちに、少しだけ優しいっていうのは聞いたことがあるよ」
「ムクは見たことあるのか」
「ないよ。そりゃあ、俺は仕入れの時以外、ここに居るからね。仕入れは朝だから、魔女が居たって会える訳、ないんだよ。今のは、仕入れ先で聞いた話」
「ふうん。少しだけ優しいって、具体的に何をするんだよ」
「例えば、子供が割れたツボをこっそり埋めて隠していたらしいんだけど、朝になったら綺麗にくっついたツボが玄関先に置いてあった、とか」
「何だよ、それ。どうせ、親が接着剤でも使ったんだろ」
「どうかな、俺が見たわけじゃないから分からない。ただ、黒くて長い髪の女の子が見掛けられた場所でちょっと良いことが起きているんだよ。まあ、真夜中に外をうろつく人は少ないから、あんまり信憑性も高いとは思っていないけど」
カウンターの向こうから、香ばしい匂いが漂ってきた。
「でもね、スウリ。こんな市民の噂程度の話でも女王にとっては脅威になるって分かるでしょ」
「らしいな。さっき、兵士に噂の女の事を訊かれた。あと懸賞金が掛けられているとかって」
魔女、と言わなかったのはスウリのささやかな抵抗である。ムクは気づいているのだろうが、訂正はしなかった。
「そうそう。それもあって、躍起になって探している人も少なくない。スウリには信じられないかもしれないけれど、もし魔法に関わる事件が起きたら、何をしでかすか分からないのがこの国の女王様だよ」
ナポリタンの乗った皿を二つ、ムクがカウンターに並べた。いただきます、と、どちらともなく言った。夜はこうしてムクと一緒に食べる事が多い。その後は他愛のない話をひとつふたつして、夕飯を終えた。