アスロポリカの魔女・・・魔法研究会1
スウリは目の前の黒いモジャモジャ頭が前後にゆらゆら揺れるのを、退屈しのぎに眺めていた。黒板に並ぶ文字の羅列にはなんの興味も湧かない。
シキ・スウリ、十七歳。半年前、大陸の西の果てにあるアスロポリカという国に留学生としてやって来た。
留学しようと思ったのは、全く異なる文化圏で見識を深めてほしいという両親の願いがあっての事だ。スウリ自身は、わざわざ留学してまで生活水準の異なる国に滞在することは考えた事など無かったのだが。
国の留学プログラムに挙げられていた中で目に留まったのがアスロポリカだった。最近までほとんど移民や旅行者を受け入れておらず、メディアに取り沙汰されることも無かった国だ。いくら探しても、大した情報は得られなかった。他の国とは違ってかなり難易度の高い試験をクリアしないと留学の許可が下りないという。旅行者にも同等の試験が課せられるというから、なかなか気軽に行ける国ではない。
謎に包まれた国――スウリの密やかな好奇心を刺激した。幸い、勉強は苦手では無かったのでそれなりに優秀な成績を収めている。試験は余裕を持ってパスすることが出来た。
スウリの留学直前に、大陸横断高速鉄道が開通したのもタイミングが良かった。空港や港が整備されていないのか、アスロポリカに向かうには陸路しか無く、鉄道以外では最寄りの国から徒歩で行くしか選択肢が無かった。その鉄道すら、途中で何度か乗り換えなければならないが、それしか術が無いのだから仕方がない。最低限の荷物だけを持って、丸一日かけて何とか辿り着いた。読書好きが功を奏して、好きな作家の推理小説を読んでいただけのあっという間の旅だった。
アスロポリカの駅に降り立って、息を呑んだ。スウリの眼前に、映画にでも出てきそうな美しい街並みが広がっていた。ところどころに甲冑を着た兵士が立っている。恐る恐る近づいて下宿先への道を尋ねた。意外にも気さくに対応してもらえた。大陸共通言語がアスロポリカでも公用語として使われていたことに胸を撫で下ろした。気が緩んだついでに記念写真もお願いしたら、快く写ってくれた。
街を行けば、まるでスウリの生きてきた世界の時間の流れから切り離されたような気になってくる。持ってきた携帯電話を確認すると、大陸共通電波は入っているらしかった。だが、見たところ携帯電話を使っているような人の姿は見られない。多用するのは少し風情が無いな――と、鞄のポケットにしまい込んだ。それきり、そのままにしてある。
下宿先である宿屋ハウス・レコに着いて、その扉を開いた時、そいつらの碧い瞳と目が合った。大きな毛玉のような頭をした少年と、対照的に艶やかなサラリとした金髪を首元で揺らす少女――この国に来て最初に出会った同級生だった。
その毛玉男の方はクラスまで一緒だった。小綺麗な身なりをしているだけに、頭髪の不精さが際立つ。
このサニールディナ学院でおそらく最も頭の良い彼は、ヴィルゼー=ネイロニースという。学院では、全学年共通の試験が定期的に行われるが、ヴィルゼーは二年生ながらこの試験で常に一位を取っており、満点以外の結果をほとんど見たことがない。秀才であることは間違いないが、顔を合わせる度に厄介な話を持ちかけてくるのがいただけない。ただ、この国の生活に不慣れなスウリのサポートを買って出てくれるのは有り難いので、なかなか突っぱねることも出来ずにいる。
授業の後、ヴィルゼーは満面の笑みを浮かべてこちらを振り向いた。どうにも嫌な予感が過ぎる。
「スウリ、今日こそ来てもらうぞ」
またか――スウリは溜息をついた。
「その話なら、昨日も、一昨日も断っただろう。何で俺に拘るんだ」
「なんとなく、好きそうだと思って」
なんとなくって――、悪態をつく前にヴィルゼーに肩をがっちり掴まれる。振り払おうにも存外力が強い。
「魔法、だなんて非科学的なもの、あってたまるか。信じられるわけないだろ。俺は研究なんてしない」
「あるわよ、魔法は」
涼し気な声がすぐ近くで聞こえた。いつの間に現れたのだろう。ヴィルゼーより面倒くさい奴に捕まったことにうんざりする。その小柄な女子学生は短く切り揃えた金色の髪を揺らしながら、ヴィルゼーとスウリの間をすり抜けた。フランカ=メルロー――彼女は口がよく回り、悪知恵の働く悪戯好きな女子である。スウリはいつも丸め込まれてカモにされるので、正直なところ面倒くさい。何よりも面倒くさいのは、彼女が「魔法研究会」の副会長であるということだ。
「スウリ、今日こそ研究会に入るのよ。まだ何のクラブにも所属していないのでしょう、いいじゃない」
「少なくとも、魔法研究会なんて怪しいところには所属するつもりはない」
いつも通りの断り文句で突っぱねると、フランカはわざとらしく頬を膨らませた。ヴィルゼーもやれやれ、と肩を竦める。
「フランカ、スウリは魔法がお嫌いなようだよ」
「なぜなのかしら。この国の文化を学びに来ているのに、魔法を知ろうとしないなんてね。何を勉強しに来たのかしらね」
二人は大袈裟に悲しむ素振りを見せた。
この通り、ヴィルゼーとフランカはハウス・レコで最初に顔を合わせた時から、何かにつけて魔法研究会の勧誘をしてくる。スウリの育った環境において魔法というものは実在しないフィクションの産物でしかない。それでいて、この国の文化、などと言われたところで、少なくとも彼ら以外の人間から魔法の話など聞いた事は無いのだ――もっとも、この国でスウリから積極的に会話を持ちかけるような相手は、この二人を除けば宿屋の店主と従業員だけだが。
「お前ら、いい加減にしろよ」
いつもならこの辺で引き下がってくれるが、今日はそうはいかなかった。ヴィルゼーが無理矢理肩を組んできて、逃がしはしないぞ、という顔でこちらを覗き込んだ。
「まあ、まあ。とりあえず、有意義な放課後を過ごすにはもってこいの環境だ。来いよ」
「環境?」
「由緒ある研究会は学院から部屋を貰えるのさ。日の当たる部屋で、フカフカのソファで昼寝するも良し、お菓子を食べるのも良し」
反対の肩をフランカに掴まれる。
「本棚の本は読み放題。図書館に無いものばっかりよ。読書好きには堪らない環境よね」
両側から挟まれて、スウリは逃げられないことを悟る。今日だけだぞ、と念を押す。
はしゃぐ二人に引きずられるように連れて行かれた場所は、校舎とは別に建てられた研究棟の隅に佇む重厚な木の扉の前だった。扉の上に、煤けた看板が掛けてある。見知らぬ文字で何か書いてあるが、スウリには読むことが出来なかった。
「ここよ、スウリ」
重たそうに扉をぐうっと押し開けて、フランカが中へ滑り込んでいった。スウリが逃亡しないように背後を固めているヴィルゼーを振り返る。
「この看板、何の文字なの」
ああ、と毛玉男は行儀悪く顎で指し示す。
「ロポリカステルさ、この国の古い文字だよ。魔法研究会って書いてある。さ、入りなよ」
促されるまま、スウリはその扉の中へ足を踏み入れた。