氷の花
「テーマは鬼子母神伝説にしようと思う。異論は?」
三班の班長である飯島学がそういった。異論は、なんて白々しくも聞いているが、そんなものなど全く請け合うつもりがないのは明白だった。
他の班員四名―――堀川勇気、大島楓、遠野氷花、そして僕・・・高橋敬一の四人は飯島の話を神妙な顔をして聞いている。たぶん内心ため息をついているのは、僕だけではないだろう。まぁ”信者”の大島だけは例外かもしれないけれど。
(いい中学を受験するのがそんなに偉いかよ)
心中で毒づいていると、ふと氷花と目があった。穏やかな輝きを湛えた彼女の瞳が、僕をいぬいていた。波一つない湖面のような静かな視線のはずなのに、僕はどこか居心地の悪さを感じて視線をそらしてしまう。
その間にも飯島の小学生らしさのかけらもない声が、耳からもう片方の耳へ流れていった。こいつは蘊蓄を語り出したらきりがない。知識をひけらかすのが好きな奴の典型例だった。
だけど四人の中で、いや・・・クラスの中でやつにリーダーシップがあるのは最早いうまでもない。なにより面構えがいいのが、こいつがこういうポジションにのしあがった要因だと思う。理知的であたかも筋道だったように説明するこいつの姿は、なかなか堂に入っている。将来は博士が詐欺師だろう、というのが僕の予想だった。
飯島とは今年になって初めてクラスが一緒になったが、さすがに四月から半年以上たてば人となりがわかるってもんだ。六年二組のみんなはすでに扱い方を心得ていた。話の要所で真剣な顔を作ってうなずく、というのがその最も有効な対策だった。
僕はもう一度周りを見渡した。
勇気はあくびをかみ殺しているのか、目元に涙が浮かんでいた。大島は本当に感激しているようで、神に祈るように両手をくみながら奴の話を聞いている。氷花はどこか妄想の世界に飛んでは、また舞い戻ってくるという離れ業を幾度か繰り返しているようだった。僕はといえば、目の端で氷花を捉えつつ、適当な相ずちを打っている。
「・・・というわけだ。他の班は手間のかかることを嫌うようだが、ボクたちの班は違うぞ。みんなで学校の図書館に通いつめて立派な研究記事にしよう」
やっと終わったのか、飯島が満足げにそう締めくくった。
勇気が我慢していたのびをする。大島がすかさず飯島に駆け寄り黄色い声をとばす。氷花はまだ妄想の世界にいる。僕も僕で彼女の姿を視界にいれつつ、黒板の上に掲げてある時計の秒針を数えている。
五、四、三、二、一、・・・キーンコーンカーンコーン。救世の音だ。まだ教師に成り立ての若槻綾子先生が、穏やかに「総合」の授業が終わったことを告げる。
※※※
そもそも「総合」という科目が科目として存在していることがおかしい。そんなものは体のいい数あわせの時間ではないか。年間の授業日数みたいなもののために無理矢理に設置してるんだろ、どうせ。
そんなもののために、小学六年生の残りわずかな時間を奪わないで欲しい。若槻先生は悪い人ではないが真面目すぎるのだ。「総合」なんてドッジボールとかでお茶を濁していれば生徒に嫌われることはないのだ。
それが「図書館を使って各班テーマを決めて調べ物をしましょう」だって?
大変要領が悪い。そんなだから飯島が点数稼ぎに張り切って「地元の伝説について調べてみよう」なんていう結果になったのだ。
その若槻先生といえば、今は教壇に立って生徒に訓辞を垂れている。
―――もうすぐ十二月に入りますが、みなさんは防寒対策をきちんとしていますか。来年からは中学生なのですから、身体管理は自分自身でしなければなりません。今年の冬は例年にないくらいの寒波がくるということで、みなさんも気をつけて登校するようにしてください。ああ、寒波といえば私の地元ではダイヤモンドダストといって、冬場の・・・
僕は「早く終われ~」と窓についた結露に指で書き込んだ。冬場に窓側の席でいいことがあるとすれば、すぐに証拠隠滅できる”落書き帳”があるくらいのものだ。すぐに水が垂れてきておどろおどろしい文字になってしまう。文字の間から、どんより曇った空がちらっと見えた。
僕は水滴のついた指を見つめる。冷たい。氷のようだった。十一月も後半に入ってきて、本当に寒くなってきていた。窓から冷気が体に染みてくる感覚は耐えがたいものがあった。空調も窓側まで暖かくしてくれるほどの性能はないようだ。
そんなふうに自分の手を見つめていたそのときだった。控えめに僕の肩を誰かがたたいた。僕の席は窓際の後ろから二番目だ。前に勇気、右手に飯島、飯島の後ろに大島。班は席順で決められるから、僕の後ろにいるのは他でもない氷花だった。
「先生、怒るから。振り向かないで。携帯、持ってきてるよね?」
氷花は僕にだけ聞こえる声でそういった。他の班員にも聞こえていないはずだ。久しぶりに声をかけられたので僕は少し緊張していた。指先の冷えが、さっきより気になる。
僕は窓に”ああ”と書いた。最近は家に連絡するために携帯を持ってくることは認められているのだ。もちろん、学校にいる間は使用禁止だけれど、そんなことを律儀に守っているのは馬鹿馬鹿しいというものだ。
僕は携帯を開いた。上下に開閉するタイプのやつだ。メールが一件入っていた。氷花からだ。
『鬼子母神って、あの雑司ヶ谷の?』
『だろうな。それが?』と僕はすかさず返した。
『今調べてたの。この話、どう思う?』
本文にURLがついていたので、僕もすかさず携帯で調べた。こんなときスマホにすれば良かったと思う。
僕たちの小学校は豊島区のはずれにある、おんぼろ校舎で有名なところだ。”地元”で”鬼子母神”といえば、自然とあの神社が思い浮かぶ。調べたサイトにも、よく見知ったあの赤い鳥居と”鬼”の伝説が記されていた。
昔、鬼がいました。鬼は自分の子には子煩悩でしたが、人間の赤ん坊をしばしば食らってしまうという悪い癖がありました。それを見かねたお釈迦様が、鬼の末っ子を一人隠してしまいました。鬼は三日三晩なき続けて、とても反省しました。お釈迦様は鬼を許してあげることにしました。そして、鬼はいい鬼になったのです。
その伝説が今に伝わって”鬼子母神”には角がとれたといわれています。
ああ、と僕は長年の疑問が氷解したのを感じた。そういえば、鬼子母神神社の”鬼”の漢字には角がなかったっけ。
『こんな話だったんだな。知らなかった。つーかお前、さっきの授業で妙に惚けてるな、と思ったらこんなこと考えてたのか』
『うん。で、どう思う?』
『どう、といわれてもな。いい話だとしか思わないよ』
そこでメールが一瞬途切れた。若槻先生の眠たくなりそうな声だけが聞こえる。
あくびを一発しようとしたところでバイブレーションが響いた。
メールの中身を確認したところで、出かけたあくびがしぼんでいってしまった。
『鬼はそのまま泣き続けて死ねばよかった、と思わない?』
僕は一瞬、そこになんて書いてあるのかよくわからなかった。少なくとも、僕が幼い頃から知っている遠野氷花の言葉ではない、と思った。
氷花と勇気とはいつも一緒で、幼なじみだった。家の方向が一緒ということで集団登校の班でも良く一緒になった。
でもこの二年ほど、氷花の態度がおかしくなったようだった。
それまで一緒だったのに、いきなり四、五年生でクラスが分かれてしまったというのもある。それが今年になって、また一緒のクラスに、しかも同じ班になったのだ。
しかし実感としてはうれしさというより、深海の水のような沈滞した冷たくて重い感覚があっただけだ。気まずさ、という言葉が一番あっている気がする。
もちろん、僕たちの意識しないところで、僕たちは変化する。身長や体重が爆発的に増加することもある。思春期になって、男女の差を意識するようになった、というのもあるのかもしれない。
でも、氷花の変化は、それとは違う、もっと根本的な何かが作用しているように思えて仕方なかった。
他の人間からみれば些細な違いにすぎないだろう。表情のちょっとした変化、笑い方。感情の機微。そういった間違い探しにさえならないような、日常の違和感が僕たちの関係を少しずつ変容させていた。
いつの間にか僕たち三人は、僕と勇気・・・そして、氷花と二分されていたのだった。三人で遊ぶことも少なくなっていた。
少しぼんやりしていて人懐っこかったあの少女は、もう僕の記憶の中だけに生きている。今後ろにいるのは、その残滓なのだ。だって、氷花は、あの優しい子は、決してこんなことをいわなかったから。
もう、僕たちをつなげているのはこの古びた携帯だけだ。氷花の本音が聞ける唯一の場所。
氷花と一緒に選びにいった、この携帯。氷花がお母さんにねだって買ってもらったと聞いて、羨んでいたのが懐かしい。
じゃ、敬一君のも選んであげる。また今度お母さんと来たときに買ってもらえばいいよ。
・・・氷花の言葉。そのあとに初めてもらったメール。
それらはすべて、もう、氷の結晶のように儚くて美しい思い出になってしまったのだろうか。
僕はかじかんだ手でメールを返信しようと文字を打ち込む。手のふるえがひどかった。
『なんで、そう思う?』
『だってひどいじゃない。あんなことして許されるはずがないよ。お釈迦様は目の前で殺してしまうべきだったのよ』
『反省したんだから、良かったじゃないか。なにも鬼を殺してしまうことはないだろ。お前、少しおかしいよ。どうしちゃったんだよ。大丈夫なのか?』
氷花が背後で僕のメールの内容を読んでいた。僕はこのとき初めて、言葉にして氷花に伝えたのだ。僕の感じている違和感を。
このときのこのメールさえ送らなければ、僕は被害者の顔をしてただ怖がっていれば良かったのだろう。怖いね。恐ろしいね。大人しい子だと思っていたのに。
言いたい放題言っている同級生の横で難しい顔をして、頷いていればそれでよかったのだ・・・。
でも、もう今となってはなにもかも遅い。僕はジュウヨウサンコウニンで、だから、こんなふうに氷花との思い出を詳細に描写しなければならない。
・・・参考までに。氷花から返ってきた文面は以下のようなものだった。
『おかしいかな? 当たり前だよ。たとえ他人の子でも子供を大切にしない大人なんか死ねばいい。
それにね、敬一君、勘違いしてる。
私がいっているのはね、”鬼の子供を鬼の目の前で殺してしまえばよかった”ってことよ』
※※※
「おらっ、こいつっ、いい加減くたばれ!」
ローキック、左前パンチ、引き寄せて投げ。コンボが決まった!
技ゲージが満タンだ。必殺技、ジャーマンスープレックス。ライフバーがゼロになる。敵はぐったりしたまま動かない。死んだのかも。
you're winner! お前が勝者だ! 怒号ともヤジともとれるような大きな声で、モブキャラたちが叫ぶ。
勝者は次のステージへ。敗者は落ちるだけ。生き残った奴しか、上に行けない。
「うわ、まじかよ~」
向こうに陣どっていた金髪の兄ちゃんが見事なヤンキーキックをゲームのきょう体に食らわせて去っていく。
僕たちがいるのは地元の人間しかこないようなゲーセンだ。
十二月に入って間もないある日の放課後。総合の調べ物は順調に進んでいき、もうすぐ発表できる域に入っていた。しかし、飯島の横暴さはここにきて目に余る物になっていた。あれをやれ、これをやれ、など人に指図するだけだ。
そんな飯島の独裁に飽き飽きしていた僕たちは、ここでストレスを発散しようということになったのだ。
プレイしているのはプロレスの格ゲー。もう型落ちしてるから、プレイヤーの絶対数が少なくて競争率が低い。それがいい。僕のようなにわかでも、すぐに全国順位に入れる。
「さすがは敬一」
誇らしげに勇気が僕の肩をたたいた。お前の戦果じゃないけどな。
「次はオレだぜ」
代われ、と勇気は興奮気味にいって、さっさとゲームを始める。
・・・こいつ、だめだめじゃん。すぐに負けてしまう。しかもお前、それ相手はCPUじゃないの?
勇気は悔しげな顔をして財布から硬貨を何枚か取り出した。
「くそ、しかしオレはあきらめないぞ! ”逆境というのは自らを磨くダイヤモンドダスト”なのだぁっ!」
「・・・なに言ってるんだ。お前」
僕は突然そう叫んだ勇気にあきれた。こいつはこういうお調子者なところがある。訳の分からないことをいうのも、もう慣れてしまっていた。
「とます・かーらいる? とかいう外国のおっさんがいった言葉だってよ。前に若槻先生がホームルームで天候の話してたことあったじゃん。そのとき、飯島が言ってた」
僕は携帯を取り出して、検索にかけてみた。
ふむ。トマス・カーライルというのはスコットランドの高名な歴史家らしく、かのゲーテとも友人だという。
正式には、
『逆境とは、天が宝石を磨くときにこぼれ落ちてくるダイヤモンドダストのようなものだ』
・・・という言葉だそうだ。ふーん。
「つーか、飯島に対してたまった鬱憤を晴らしにきたのに、なんであいつの言葉を引用するんだよ、意味わかんねぇよ!」
「うるさいよ。お前もさ、まだガラケーなわけ? いい加減変えろよな! それこそ意味わかんねぇし」
「物を大切にする男なんだよ、僕は!」
僕は勇気の肩を軽く小突いてやった。いつもならここでじゃれあってゲームではなくリアルプロレスごっこに発展するのだが、勇気は黙ったまま向こうのきょう体に目を向けている。
「どうした、勇気」
「おい、あれ・・・ひょう、じゃなくて遠野じゃないか?」
そういって勇気が指さしたのは、ゲーセンの入り口のほうだった。小さな影。なで肩。艶やかで光沢のある黒髪。なによりも、ここまで遠くからみてもインパクトのある大きな瞳。
深窓の令嬢のような容姿で、暇を持て余したように店内を歩いている。今はちょうど十数メートル離れたUFOゲームをプレイするのでもなく見つめている。
「ああ、本当だ・・・間違いない、と思う」
「あいつ、今日の学校で着てた服のまんまだぜ、敬一」
「家に帰ってないんだ」
「変わっちまったよな。本当に遠野はさ、自分ちが好きで、おばさんも優しくてさ。おじさんは会ったことないけど、いい人なんだろうよ。そういえば、妹ちゃんもちょうど生まれるころだったっけ。
ああ、昔はよく家に招待してくれたよなぁ」
勇気が珍しく絞りとったような悲しげな声調でつぶやいた。
氷花の話は僕たちの中ではいつの間にかタブーになっていった。不文律ってやつだ。しんみりした話より、ばかげた話で盛り上がったほうがいいに決まってる。
でも、それはただ変化というむなしさから目をそらしていただけなのかもしれない。
「氷花は、やっぱり変わったと思うか?」
僕は探り探り、といった感じで聞いた。勇気の方がみれなかった。
僕はゲーム機の影に隠れながら、氷花の様子をうかがっていた。氷花は動かなかった。でも、こっちに気づいている、と何となく思った。僕を待っているのだ、と。
「あいつは、もう”遠野さん”なんだよ。オレたちの知ってる”氷花”じゃない」
勇気は平坦な声で言った。その抑揚のなさが、あまりにもわかりきった事実を伝えているニュースキャスターみたいだった。今まで聞いたどの台詞よりも、その言葉は熱を失った冷ややかなものだった。
悲しさとか、感傷さえなかった。さっきまでの悲しげな調子はどこかに吹き飛んでいた。
僕は理解した。こいつは、もうとっくの昔に割り切ってたんだ、って。
「そんなこと、ねぇよ」
僕は低くうなるようにいった。
勇気の言葉が事実だと言うことは、僕自身がよっぽど実感していた。そうだよな、残念だなぁ、と安易に調子を合わせることはできたのだ。
でもできなかった。
目の前にいる氷花が、助けを求めているように見えたからだった。困り果てて、行く先を失った子供そのものに見えたからだった。
僕は携帯を握りしめた。
「僕、行くわ」
そう言い捨てて勇気の肩から手を離した。
「お、おい!」
勇気は焦ったように僕の腕を後ろからつかんだ。意外に強くつかまれたのに、少なからず僕は動揺した。
「仕方ないんだよ。もう、そういうもんだって」
勇気は諭すように僕に言った。普段は絶対に出さないような声色だった。諦めきった、疲れた声。大人の出すそれに似ていた。
僕はなにも言わずに勇気の腕を振り払った。”諦め”が彼の腕を伝って僕に感染しそうな気がした。
勇気は抵抗しなかった。代わりに言葉を紡ぎだした。でもその言葉は尻すぼみになって、たばこで煙たくなっているゲーセンの空気にとけ込んでいってしまう。
「お前が、その携帯をずっと使ってるのってさ・・・遠野と・・・」
僕は振り返らずに氷花の元へ歩いていく。彼女が驚いた様子も見せず、僕を見つめ返している。
※※※
「ひさしぶりだよね、こんなかんじで話すのって」
氷花が缶のココアで手を暖めながら言った。場所は鬼子母神の境内だった。空もどんよりした曇りで、気分まで重くなりそうだった。そのせいか、ここはいつもにぎやかだが、今日に限ってはほとんど人はいない。寒さのせいもあるだろう。
「話したかったんだろ。話しかけてくればよかったのに」
白い息をはきながら、言った。もう暗くなりかけた空。お互いに表情はよく見えない。
「敬一君がいるかな、って思って行ったんだ。でも、勇気・・・堀川君がいたからね」
「そういうことじゃなくてさ・・・それに、勇気だって別にお前を嫌ってるわけじゃ」
「嫌ってるよ。彼は、嫌ってる」
氷花はきっぱり言った。僕は口をつぐんだ。氷花の言葉は、事実かもしれない、と思ってしまったからだった。
寒い。風が頬を切るようだった。最近はいつもこうだ。昔は冬が好きだったのだが。雪なんて降ったら最高だ。
でも、僕は小学六年生で、もうすぐ中学生だった。だんだんと冬の持つ灰色の気配を、正確につかみはじめていた。
冬は死の季節だ。生命だけじゃない。寒さは人の心も殺していく。だんだんと壊死させていく。
氷花は、生きているのだろうか。ふと僕は疑問に思った。
「プロレスやってたね」
寒空を見上げてそう感じていたとき、唐突に氷花が言った。僕は多少うろたえた。かすれた声で「ああ」、とだけ答えた。
「ずっと強くなりたいって思ってた。誰にでも、ううん、何にでも勝てるように」
「・・・・・・」
「でも、最近私思ったの。敗者にも大切な役割があるんだって」
僕は缶ココアをすすって、氷花の言葉を待った。ココアはもう冷たくなってしまっていた。
「自分の肉体を曝すこと。こうはなるなよ、っていう反面教師」
「なにがいいたいんだ」
「敬一君のおかげだってことよ。ずっと強いものを倒すことしか考えていなかった私に、もう一つ方法を教えてくれたから」
「もしかして、鬼子母神の話?」
氷花は頷いたようだった。暗い影の動きだけで、そうわかった。
「鬼子母神を反省させるには、もう一ついい方法があったんだね。敬一君があのとき”おかしいよ”って言ってくれなければわからなかったけど」
僕は氷花が言いたがっていることを賢明に考えてみた。自分の死体を曝すこと。そして、鬼子母神を反省させること。
「まさか、その方法ってさ・・・」
「鬼の子供が、鬼の目の前で自殺すればいいのよ。親である鬼がした行為のひとつひとつを呪いながらね」
僕は氷花の発想に戦慄を覚えた。やっぱり、氷花はおかしくなってる、と思った。
「お、おかしいって言ったのはそういう意味じゃないよ。それに、お前・・・それは極論すぎるだろ」
「そう? そう思う?」
「なんで生き死にが関わるんだよ」
「元々のお話だって、結局末っ子はいなくなったままよ。たぶんあの子、死んでる。それだとしたら、お釈迦様は恨まれても仕方ない。鬼も反省どころか逆上してもっと悪行をしたかもしれない。お話では鬼子母神は反省したわけだけど、それは結果論だよ。
でも、かといって鬼を殺してしまう訳にもいかない。なぜなら、鬼には千人単位の子供がいるから。鬼が死んでしまったらその子らは生きていけなくなる。
だから、鬼を逆上させずに最も効果的に反省させる方法は、これだけなの。被害者も最小限。その子供一人だけ」
閉口してしまう。
もし最善の方法というものが、被害者が最低限で抑えられる方法だというのなら、氷花の言う方法は最も効果的だろう。
でも、本当にそれでいいのか?
みんながそれで幸せになるのか?
「逆境というのはね、美談では乗り切れないのよ。有無を言わせない方法でなくちゃ」
いつになくはっきりとした意志を感じさせる声音だった。僕は言い返すべき言葉が見あたらなくて、缶をもてあそんでいた。ポケットの中にある携帯がごつごつして気になった。肌になじんでいるはずなのに。
「私の話はこれで、おしまい。いいたかったのはこれだけよ」
「そう、か」
「これ、ありがとう。じゃ、私帰るね。もう暗いし」
氷花は缶を軽く振った。よく見えなかったけど、たぶん笑っていた。ゴミ箱に放ってそのまま僕に背を向ける。
僕はそのまま彼女を見つめているしかなかった。
振り返らせたかった。なんてね、嘘だよ~、なんて言ってくれれば冗談としては最高だ。
その願いが叶ったのか、氷花は一度だけ振り返ってくれた。でも、残念ながら望んでいた言葉はでてこなかった。
「ばいばい、敬一君」
これが僕の聞いた氷花の、最後の言葉だった。
※※※
十二月二十四日、クリスマスイブ。
昨日から雪が降っていて、空気が冷たく張りつめている。都会の塵を含んだ汚れた白色の雪が、その空気の中をさまよっているように漂う。積もっていた分は、車に蹂躙され黒く濁り、少し凝り固まっていた。
僕の足取りは重たく、慎重なものになっていた。しかし、他の生徒たちからすれば、それは神様の贈り物以外の何ものでもないようだった。
みんなからすれば、二十四日の学校なんてのは”あってないようなもの”なのだろう。僕たちの小学校では「総合」の授業で時間割を組むことになっていたのだ。二学期最後の授業は、お楽しみ会で締めくくろうというわけだ。
・・・普通なら、の話だけど。
当然僕らのクラスではそんな一筋縄では行かない。なにせ、あの堅物、若槻綾子先生が担任のクラスだからだ。
要するに。この日、「総合」の調べ物の発表会が行われることになっていたのだ。みんなイスに座って地域文化の発展がとう、とか、地元産の野菜がどう、とかいう話を眠らないようにして聞いていた。
僕らの三班は昼休みを挟んだ後に発表をすることになっていたから、午前中は安心して聞いていられる。飯島も、大島も、勇気も、みんないつも通りだ。蘊蓄を垂れ、黄色い声をとばし、あくびをかみ殺している。
僕ら二人をのぞいて、みんないつも通りだった。
そもそも氷花は学校に来ていなかった。その前から少しずつ休みがちになっていたことは確かだった。けれど、ここまで大胆に無断欠席することは今までないことだった。氷花が言う台詞もちゃんとあるのに、来ていないのだ。
氷花が責任放棄するようなやつじゃないのは、勇気でさえも認めるところだった。なのに、どうして。
いやな予感しかなかった。
僕はいらだっていた。
午前の部が終わり、休み時間に入った。みんな班ごとに給食を食べ始める。誰一人として氷花がいないことに関心がないようだった。飯島も多少は文句を言っていたが、すぐに氷花の台詞を僕と勇気に割あてて、それで満足してしまったようだった。
氷花の居場所は、もうなかった。誰も氷花を待っていなかった。
僕は気持ちが悪くなって、一人で教室から抜け出した。トイレに行こうと思ったけど、他の生徒とはち合わせるのが嫌だった。
僕は非常階段にでた。まだ雪は振っているが、そろそろ晴れ始めていた。雪の結晶がきらきらと陽光にきらめいている。久しぶりにみた太陽だった。穏やかだ、と思った。これがダイヤモンドダストってやつなのかなぁ、なんて思う。若槻先生も、たまにはいいことを言う。
そういえば、とふと先生が理科の授業で見せてくれた雪の結晶を思い出す。
きれいに均整のとれた彫刻。光を照り返す花弁。自然が生み出したアートだ。美しくて、儚い。氷花のようだった。考えてみれば、彼女の名前の由来はここから取ったのかもしれない。新しい発見だ。少しうれしくなった。氷花自身は、自分の名前の由来を知っているのだろうか。もし知らないなら、僕が伝えよう。そう決めたら、胸がドキドキした。
周りは静かで、僕の他には誰もいない。見晴らしはよく、向こうに走っている都電荒川線の音がゴトゴトと聞こえた。
ここなら一人になれる、と思った。そして携帯を取り出して、なんとはなしに開いた。
メール一件、着信があった。
氷花からだった。
僕は心臓が飛び跳ねたようになった。その文字をみただけなのに、おかしな話だ。
僕は焦る気持ちを抑えて必死に文面を追おうとしたけれど、無理な話だった。
全く文字が書かれていない。空メールだろうか。
でもすぐにあれ、と思った。まだ下にスクロールできるぞ。ずっとスクロールしていく。下へ、下へ。
やがて、一番下にたどり着くと、そこに書かれていた言葉はたった一文だけだった。
『鬼が、いい鬼になりますように』
僕が真意をはかりかねて首を傾げているそのとき、ぎぃ、と扉の蝶番が響いた。若槻先生と男の人の声がした。通常時の非常階段への立ち入りは禁止されているから、僕はとっさに物影に隠れた。ちょうど若槻先生の影に隠れてしまうので、男の方の様子はよくわからない。
でもよくよく考えるとおかしな話だ。当然、先生たちの立ち入りも厳禁なはずだったから。
「最近は寒くてかなわないわね」
若槻先生が、普段とは違う・・・艶やかな甘さを持った声音でそういった。男の方は笑って若槻先生の肩に腕を回した。
「まぁ、少しはこれで暖かいだろ?」
あ、と僕は声を漏らしそうになって必死に口をふさぐ。この声は、隣の6ー1組の担任の斉藤先生の声だとわかった。
「よしてよ、学校の中なんだから。せっかく真面目な先生してるのに、台無しじゃない」
「どうせ誰も来ないよ」
それもそうね、と若槻先生が言う。くすぐったくなるような笑い。
「しかし茶番だよな。こんな時間割なら休みにしてほしいよ」
「休んじゃった子、いるけどね」
「まじかよ。誰?」
「遠野氷花ちゃんよ。斉藤クンが四、五年生の時に担任してたでしょ?」
「ああ、あの子ね・・・」
斉藤先生気まずそうに言う。
「なによ。なんかあったの?」
「あの子とはなんにもないよ。でも、あの子のお母さんと、ちょっとね」
「ちょっとって?」
斉藤先生は若槻先生の肩から手を離して、懐からたばこを取り出した。もちろん、校内は禁煙で、しかも非常階段は火気厳禁だった。けれど彼は悪びれもせずに平然とたばこに火をつけた。
「遠野さんはさ、寂しがり屋だったんだ。氷花ちゃんも、その妹さんもいるのにさ。
俺がちょうど氷花ちゃんの担任になったときに、長いこと看病してた旦那さんが亡くなってさ、シングルマザーだろ?
だから、優しくされたかったんだ。それだけさ」
「・・・関係があったってこと?」
若槻先生が生徒をしかるときとは違う、本当に怒りを含んだ声で問いつめた。
「いや、もうなんともないよ。少ししつこくしてきたから強めにフっておいた。一年くらい前の話」
僕は混乱する頭を必死に巡らせて、彼の話の理解につとめようとした。
「だからなんだわ」
若槻先生がため息をついてつぶやく。
「なにが?」
「氷花ちゃん、様子がおかしかったの。友達と遊ばなくなったのは四年生くらいからだったんだけれど・・・口数も減って閉鎖的になったのは六年生から。
表情も暗くなって・・・。お母さんは定職に就かれていないそうで、生活保護申請もしていたらしいから・・・生活はかなり逼迫していたのね。
それに氷花ちゃん、たぶんお母さんから虐待受けてるのよ。一年くらい前から」
「体に傷でもあったのかよ?」
「体にじゃなくても、つく傷はあるのよ。言葉一つ一つで人はすぐに傷つくわ。もしかしたら、物理的な暴力以上に。じゃなければ、人はあんなに変わらないわ」
若槻先生がいうように、氷花がおかしくなったのが二年ほど前だった。ちょうどその時期に担任だったのが、この男だった。
こいつは氷花のお母さんと関係があったけど、かなり強く破局した。一年ほど前の話だ。そして時を同じくしてちょうど一年位前、六年生になるのと前後して、氷花はさらにおかしくなった。
「氷花ちゃん、思い詰めてる。家庭環境のこともあるだろうから、しばらく見守っていようと思ったけど」
「俺のせいだってのか?」
斉藤先生はいらだった険のある声で言い返した。
「いいえ。私たちのせいよ。私はなにもしなかった。斉藤クンはやりすぎた」
「なんだよ、いきなり真面目くさりやがって。お前はそんなんじゃないだろ?」
「確かに人間として私は不真面目でどうしようもないわ。
でも、私は教師だから。アンタと違うのは、そこよ。私は本気で教師になりたかったの。
だからね、このことは上に伝えさせてもらうわ」
「ふざけんなよ…お前も同罪じゃねぇか! 教師のくせに密会なんかして、ただで済むと思うなよ!」
「アンタの人間性をはかり間違えてたのは、確かに罪だったわね」
「くそ! くたばりやがれ! どいつもこいつも・・・」
若槻先生はそういって、斉藤先生から去っていく。影に隠れていた彼の表情が、そこからやっと見えた。
血走った瞳。食いしばった歯には、たばこでついたヤニが少しだけ黄ばんでみる。彼の肩に少しついた雪と見比べれば、とんでもなく汚れているように見える。
鬼の形相とは、このことをいうのだろう、と僕は思った。
斉藤先生の指からこぼれたたばこが、階段に少し積もっていた雪の上に落ちる。雪が灰で汚され、少しずつ溶けていく。
氷花が、汚されていく。
・・・携帯に書かれていた文面を思い出す。
『鬼が、いい鬼になりますように』
氷花の言う鬼は、たぶんお母さんのことだったのだ、と僕は思った。鬼はここにもいるけれど、彼女にとっての鬼はもっと身近にいたのだろう。きっと氷花はお母さんからたくさんひどい言葉を浴びせられていたのだ。幼い妹とともに。
若槻先生は、物理的な暴力を想定していなかったようだけれど、もしかしたら手をあげられた日もあったかもしれない。それでも必死に耐えていたのだ。
何年も。たった一人で。
じゃあ、あの言葉は・・・
『鬼の子供が、鬼の目の前で自殺すればいいのよ。親である鬼がした行為のひとつひとつを呪いながらね』
兄弟たちが安全で、かつ犠牲が少ないもっとも効果的な方法。これ以上、鬼が悪行を繰り返さず、逆上もしない唯一の方法。
氷花が、
お母さんの目の前で、
死ぬこと。
僕は力が抜けてその場にへたりこんだ。
着信があってからもう十数分。
ここから氷花の家まで数十分。お母さんは前に家に行ったときには専業主婦だったはずだ。それに今は生活保護を受けて暮らしている。つまり、仕事に出かけずに家にいる。
完全な手遅れだった。
僕はそのまま寒ささえ感じなくなるまで外にいた。
飯島の言葉を、トマス・カーライルの言葉を、心の中で反芻する。
『逆境とは、天が宝石を磨くときにこぼれ落ちてくるダイヤモンドダストのようなものだ』
違う。
そう叫びたかった。
ダイヤモンドダストは、宝石じゃない。
ダイヤモンドダストは、雪だ。
だから、ダイヤモンドみたいに固くないし、すぐになくなってしまう。溶けてしまう。後にはなにも残らない。
氷花は、逆境の中にいた。
僕は、なにもできなかった。みているだけだった。
だから氷花は、溶けてしまった。
雪の結晶みたいに。
生まれて初めて完結させた短編小説が出てきたので。今よりも情動のままに書いている気がします。
最近はほとんどアーカイブのように使ってしまっていますが、近いうちに新作もアップさせていただきます。