まもり はぐくみ うみ そだて(三十と一夜の短篇第31回)
「おめでとうございます。お腹に、赤ちゃんがいますよ」
「へ、えぇ?」
医師のことばに、思わず間抜けな声が出た。
お腹に、赤ちゃん。
言われたことを想像しようとするけれど、うまくいかない。このごろすこしぽっこりしてきた自分のお腹を見下ろしてなんとなくさすってみるけれど、このなかに赤ちゃん? やっぱり実感がわかない。
「あの、それ、何かの間違いとかじゃないですか? わたし、ちゃんとふつうに、たまごから生まれたんですよ」
戸惑いながら言ってみるけれど、医師は真剣な表情で首を横にふる。
「いえ、こちらを見てもらえばわかるはずです」
示されたのは、医師の横に置かれたモニター付きの機械。さきほどエコー検査を受けたときに使ったものだ。てっきり、卵詰まりしていないかの確認のための検査だと思ったのだけど。
ぱちり、医師がなにかのボタンを押すと、いちど暗くなっていた画面になにかが表示される。
「こちらは、あなたの腹部を調べた画像なのですが」
言いながら医師が画面を示すので、ふんふんとうなずく。白と黒と灰色だけで表現された画像は、正直に言ってよくわからない。白っぽく見える部分がぜんぶ脂肪だなんて言われたら怖いなあ、くらいにしか思えない。
「ここ、この部分を見てください」
ぼんやりと見ていたら、医師が画像の一部を指差した。そこに見えるのは、黒いだ円のなかに白っぽいまるがふたつくっついたような何か。臓器だろうか? 全体的にぼわぼわしていて、なんだかわからない。
「ここ。このふたつのまるい部分が、頭と胴体なんですよ」
「はあ……」
医師がぼやけた画像を指してすこし興奮ぎみに教えてくれるけれど、言われて見てもやっぱりよくわからない。
てきとうに相づちをうったせいだろうか。医師は本棚から数冊の本を引っ張り出して、机の上に広げてくれる。
「ほら、この写真。これはたまごのなかで成長した胎児のエコー写真なんですけどね。形状、そっくりでしょう。こっちが頭で、こっちが胴体で。ああ、こっちの本のほうがもっとわかりやすいかな。これは人類の大部分が胎生だったころの貴重な資料でね。その当時は、ほとんどすべての胎児が、こんなふうにして母親のおなかのなかにいたわけですよ。すごいでしょう!」
早口でまくしたてる医師はやけに生き生きとしているが、言われて見ても本に載っている写真と目の前のエコー画像はどれもあやふやで、似ているかどうか判別がつかない。そしてやっぱり、お腹のなかにちいさいひとがいるという状況が想像できない。
「はあ、そうですか……」
ついつい他人ごとのような返事をすれば、その温度差に気がついたのだろうか。嬉々として話していた医師があわてて表情をとり繕い、声のトーンを下げる。
「ええと、まあ、あなたの場合は先祖返りしておなかのなかに赤ちゃんがいる状態なのだと思われます。ごくまれにそういうかたがいらっしゃるのですが、通常の産卵とはいろいろと違ってきますので、書いていただきたい書類と、目を通していただきたい資料がありまして……」
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書類や冊子が詰め込まれた封筒をはさんで、彼と向き合う。昼間、説明されたことをかいつまんで話せば、ひととおり聞いた彼は神妙な顔でうなずいた。
「で、この紙の束をもらってきたわけだ」
「そう」
「そっか……」
そう言うと、彼は封筒の中身を取り出して、目を通すでもなくいたずらにいじりまわす。
病院からの帰り道、電話で子どもができたと伝えたときの彼の反応は、いたってストレートに喜びを表していた。卵生ではなく、胎生だということも軽く話してはおいたのだが。
帰宅して顔をあわせた彼は、どうにも挙動不審だ。
医師から渡された大量の紙を前に、視線はあちらこちらへ動きまわり、ときおり浮かべる笑顔もぎこちない。帰宅して一番におめでとうと言ってはくれたけれど、貼りついたような笑顔に重なる戸惑いが、手に取るように伝わってくる。
「……それで、あの、ひとつ聞いてもいいかな」
もてあそんでいた紙を手放して、彼が意を決して聞いてくる。
「きみの、うしろに立っているひとたちは……なんなの?」
遠慮がちに部屋のすみを見まわす彼の視線がとらえているのは、五人の見知らぬひとたちだろう。全員がそろって真っ黒なスーツに身を包んでいるうえ、服のうえからでもわかる筋骨隆々とした肉体を誇っている。
そんなひとびとが自分の暮らす部屋でものも言わずにこりともせず立っていたら、それは気にもなるだろう。わたしだったら入室をやめて、警察を呼ぶかもしれない。彼だっていちど後ずさりしていたところをわたしが招きいれたわけだし。
「このひとたちは、ええと、胎生母子保護委員のひとなんだって」
「胎生、保護……?」
首をかしげる彼の気持ちはよくわかる。説明されて一応は受け入れたとはいえ、わたしもまだ気持ちが追いついていないのだから。
「ええとね、わたしみたいにたまごじゃなくて、おなかのなかで赤ちゃんを育てるひとのことを運ぶ女性って呼ぶんだって」
気持ちが追いついていなくても、彼に説明しないわけにはいかない。得たばかりの知識をどうにかつむいでいく。
「それで、運ぶ女性は珍しいから、国際的に保護対象になっているらしくて。それで、生活を助けたりするために派遣されてきたのが、そちらのひとたち。らしいよ」
詳しくはこの冊子に書いてあるみたい、と医師がふせんを貼ってくれた一冊を彼のまえに押し出しておく。
いまいち理解していない顔の彼がおぼつかない返事をすれば、静かに存在感を示していた黒服のひとりがくちを開いた。
「われわれは、母体とお子さまをあらゆるストレスからお守りするためにお手伝いさせていただくためにおります。どうぞ、気軽に使っていただき、不要なおりは壁のしみと思ってお気になさらず、いつもどおりお過ごしください」
そういうことらしい。
ずいぶん大きくて存在感のあるしみだが、病院で引き合わされたときにも同じことを言っていた。必要ない、大丈夫だから帰ってほしいと言っても、気にするなの一点張りだった。
気にするだけ無駄だと目線で彼に伝えれば、彼は疲れたように笑って、あらためて子どもができたことを祝ってくれた。
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いかに大きなしみであっても、そのうち慣れる。
などと思ったら、大間違いだ。
そもそも図体のでかい男をしみと思えるわけがないし、いくら静かにしていても気になるものは気になる。というか、そう広くないわたしたちの住まいに、五人も突っ立っていて邪魔にならないわけがない。
「あの、せめて夜は帰ってもらうわけにいきませんか」
落ち着かない夜を過ごすこと数日。さわやかな朝にもかかわらず部屋を圧迫してくれている黒服たちに言ってみた。明らかに寝不足の顔をした彼がとなりに立ち、無言でうなずいている。
「それはできません。夜間にトラブルが起こる可能性もあります。可能なかぎりすばやく対処するためには、そばで見守ることがいちばんです。母体と胎児、双方を健全に保つために一瞬たりとも油断は禁物なのです」
黒服のうちのひとり、いちばん年かさに見えるひとが、丁寧ながらも有無を言わさぬ口調で告げる。たしかに医師も同じようなことを言っていた。こちらは胎生動物の妊娠、出産に関する知識がないので、医師に言われればそんなものかと思って受け入れてしまったけれど。
やはり無理なものは無理だ。
「でも、家のなかにだれかいると思うと、気になるんです」
だからなにか他のやり方はないですか、と言うまえに、急に黒服のひとたちが慌てはじめた。
「まさか、ストレスですか!?」
「昨夜は眠れなかったのですか!」
「体調を崩してしまわれたのでは!?」
これまでなにごとにも動じず、置物……というには無理があるが、ばかでかい観葉植物くらいにはおとなしく立っていた集団が、にわかに騒がしくなる。
おどろいて見ているうちに、ひとりが体温計を取り出してすぐさま計るようにと差し出してきて、ひとりがブランケットを持ってきて羽織るようにと渡してきて、ひとりが「台所を借ります」とその場を離れた。
のこるふたりは、どこかへ電話をかけはじめている。
ちなみに体温計は、運ぶ女性への支給品として医師から渡されたものだ。ブランケットに見覚えはないが、見るからに新しくまた明らかに女性用のデザインなので、きっとこちらも支給品なのだろう。
言われるままにブランケットに身を包み、落ち着かない気持ちのままいすに座ってぬくぬくしていると、電話をかけていたふたりが携帯電話をふところにしまい、こちらに向き直る。
「医師に連絡しましたところ、午前中は仮眠をとり午後に診察を、ということです」
「え、べつにいいですよ。たしかに熟睡はできなかったですけど、体調を崩すほどじゃないし。それに、今日は仕事に行かなきゃ」
検査のために昨日は休みをもらったので、そのぶんも仕事がたまっているはずだ。
頭のなかで仕事の算段を立てていると、電話をしていたもうひとりが声をかけてきた。
「本日の勤務は、免除となりました。勤務先への連絡は済ませておりますので、安心してお休みください」
いかつい顔をきりりと引き締めて言われて思わずうなずきそうになったところで、はっと我にかえる。
「いやいや、そういうわけにはいきません。ただの寝不足で休むなんて、できませんよ。それに、仕事は続けたければ続けてもいいって、医師も言ってたじゃないですか」
ざっと目を通した冊子にも、母体が望む場合は通常の生活を継続させること、とあったはずだ。
ここで引いてはいけない、と迫力のある男たちに気圧されそうになる気持ちを奮い立たせて反論するも、いかつい顔に変化はない。
「可能なかぎり母体の希望を叶えることになってはいますが、それは母体の心身が健康に保たれている場合に限ります。胎児への悪影響があると考えられる状況下においては、母体の希望が通らないこともあると、ご理解ください」
そう言って頭をさげたきり、黒服たちはどれほどことばを尽くしても、出勤することを許してくれなかった。それどころか、母体の精神を安定させるため、と彼の会社にまで連絡をいれて、ふたりそろって休みにされてしまった。
そして、台所から戻ってきたひとりに手渡された湯気を立てるカップを空にしたあとは、有無を言わさず寝室に戻されて、医師が往診に来るまで出ることができなかった。
ちなみに「ゆっくりお飲みください」と渡されたカップの中身は具沢山スープで、体じゅうに広がったいらだちをいくらか鎮めてくれるくらいには、おいしかった。
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「……あ、動いた」
ころりと向きを変えたたまごを目にして、おもわずこぼれたつぶやきに、あきれたような返事がある。
「そりゃ動くわよ。動かさないと、きちんと育たないんだから」
そんなことも知らないの、という思いを隠しもしないのは、付き合いのながい女ともだち。目の前のガラスの向こうの孵卵器にはいっているたまごの母親でもある。
「しかしまあ、運ぶ女性ねえ。それってたまごとどう違うの?」
「いちばん違うのは、やっぱりおなかのなかに赤ちゃんがいることかな。自分のなかにちがうひとが入ってるわけだから、体の折り合いがつかないときがあってさ。ちょっと前まではずっと気持ち悪かったり、逆にすんごい食欲が湧いたりして、大変だった。つわりっていうらしいんだけど」
「あー、それはなんかすっごい一大事な感じがするわ。いまはもう気持ち悪いとか、ないの?」
なにげない質問に、ちらりと背後を確認する。それから顔を前に向けて、くちの動きが見えないようにさりげなく手でかくしてから、答える。
「いちばんひどいときに比べれば、ずいぶん良いよ。ときどきダメなにおいとかがあって、そういうのに鉢合わせると気持ち悪くもなるけど……」
できるかぎりちいさな声で、うしろを気にしながらひそひそと話していれば、彼女もこちらの意図に気がついたらしい。
「それ、バレたら外出できなくなるわけね? うしろの屈強なお兄さんがたの力で」
にごした先のことばまで読み取ってくれる彼女がありがたくて、うっかり拝みそうになる。実際にそうすれば、嫌な顔をされることが目に見えているので、やらないが。
本人たちがいるのに電話ぐちで悪口めいたことを言うわけにもいかなくて、彼女には異様な黒服たちのことをざっくりとしか説明していないというのに、いろいろとくみ取ってくれるあたり、付き合いのながさは伊達ではない。
できることならばふたりきりになって、積もりに積もった黒服たち、および運ぶ女性保護法に関するもろもろの愚痴をぶちまけたいところである。
けれど、思うままに声を荒げれば「気持ちの乱れは胎教によくない」だの「母体の興奮は胎児の健全な育成に影響を与える可能性が」などと言ってあっという間に連れ帰られてしまうに違いない。
ただでさえ、やれ体調不良だ会社を休め、やれつわりが終わるまで安静にしろと言われて長いこと部屋に閉じこもった末に、ようやく外出ができたのだ。
ひさびさに会った友人とろくに会話もしないまま、帰宅することだけは避けたい。
「なにをするにも危ないから任せろ、体のことをいちばんに考えろ、ひとりの体じゃないんだぞ、みたいなこと言われてさ。たぶん、大事にされてるのはきっとありがたいことなんだし、仕事しなくても補助金とかもらえて、会社も無条件で休んでられるんだから、文句なんて言ったらぜいたくな悩みだって怒られるんだろうけど……」
くるり、ふたたび機械のなかで、たまごが向きを変える。
ずらりと並んだ孵卵器には、それぞれ母親の名前を記したプレートがさがっている。自動で温度調整が行われ、健全な育成のために定期的に転がされるたまごたちは、専門スタッフがつきっきりで、孵化まで世話をしてくれるらしい。
ガラスを隔てたこちら側には、友人のほかにも女性の姿がちらほら見える。スーツを着ていたり、どこかの制服を着ているひとがほとんどで、どのひともみなぺたりとした腹で軽快にやってきては、しばらくたまごを見つめて颯爽と去っていく。
そんな姿を見るともなしに見ていると「座ろう」と友人が促してきた。
こちらの返事を待たずにさっさと歩きだす彼女について行き、ロビーの椅子に腰をおろす。視界のすみには、黒い服の集団がちらちら映る。
それを気にしてよそ見をしていると、コツコツとテーブルを叩く音が聞こえて、友人のほうに意識を引き戻された。
「言いたいことがわんさかあって、なにから言えばいいかわからないんだけど……」
言いながら、彼女はまたコツコツとテーブルを鳴らす。
手近なものを指で叩くのは、イライラしているときの彼女のくせだ。けれどその細められた目が向けられるさきにいるのは自分ではないので、あまり身構えずにつづきを待つ。
コツコツとテーブルを叩く間隔がどんどん短くなり、ついにはゴンっとこぶしを叩きつけて彼女が吠える。
「あんたら、保護法があるからって干渉しすぎ! 赤ちゃん腹に抱えてるのはおなじ人間なんだから、自由がすくなすぎればストレスになるなんて、考えなくてもわかるでしょう!」
突然、大声を出した彼女に驚きながらもはっとして振り返れば、こちらに突進してくる黒服たちが見えた。
彼らを睨みつけている彼女にもその姿は見えているはずなのに、その顔には怯えもためらいもない。
「あんたもあんたよ。相手はことばが通じない生き物じゃないんだから。善意でやってるとしても、遠慮すんな! いやならいやって言う! 一から十までだれかの世話にならなきゃいけないってわけでもないんでしょう? だけど余計な手出しかどうかなんて、当人じゃなきゃわからないんだから、黙って耐えてないで言いなさい! それでもダメなら、その保護法考えたやつのところにあたしが殴り込んでやるから!」
途中からは屈強な男ふたりに抱えられるようにして引き離されながらも、彼女はひるまず最後まで言いきった。
そばに残った黒服のひとりが「……あのかたとは、しばらく会わないほうがよろしいでしょう。興奮するとよくありませんから」と行きに乗ってきた車に戻るよう、うながしてくる。
けれど、動けなかった。
壁のように立ったふたりの黒服のあいだから、見えてしまったから。こちらを心配するように視線をそらさない、彼女の顔が。
その目が、丸まってしまいそうな背中を叩いてくれた。
ごくり、とつばをのみ込んで、こぶしをにぎる。
この目も、彼女とおなじように強い光を宿せただろうか。こちらを見る彼女の口が、にやりと楽しげにゆがめられたからきっと大丈夫。
あれは激励だ。ことばはキツいし言いかたは烈しいけれど、あれは彼女なりの心配と思いやりのこもった激励だ。
うながされても動かないでいると、黒服のひとたちが怪訝そうな顔でこちらを見てきた。いかつい顔がしかめられると、怖さも十割ましになる。
これまではその迫力ある見た目に逆らえず、言われるままにしてきたけれど、もうやめよう。
言いたいことはたくさんある。
ためこんだことばを胸いっぱいにかきあつめて、うまくまとめようなんて考えはかなぐり捨てた。伝わるかなんてわからないけれど、とにかくぜんぶぶつけるために、声をあげよう。タイミングをのがして言えなかった感謝の気持ちも、この機会に伝えてしまおう。
あなたが見せてくれた勇気に応えるために。
思いをことばにするために、わたしはおおきく息を吸いこんだ。
気遣うことばをかけるのをためらうひとがいて、気遣われることに申し訳なさを感じるひとがいて、どうしたらいいのかなあ、と考えながら書いてみました。