橘悠介
橘悠介は、平凡を絵に書いたような高校生だ。
中肉中背の体格に、日本人特有の黒髪黒目。
学業の成績も、普通。別段劣っているわけではないが、特別優れているわけでもない。
部活はバトミントン部に所属しているが、それは部活には入らないよりは入ってる方が進学する際に有利になると担任の教師に言われたが為に仕方なく属しているだけのもので、ほとんど顔を出してはいない。
所謂、幽霊部員というやつで、事実上は帰宅部といってもいい。
家族構成も両親健在の一人っ子で、兄弟はいない。創作物でよくあるような不幸な家庭環境などとは程遠く、かといってとりわけ幸福というわけでもない。
仲のいい友達は複数おり、スクールカーストは上でも下でもなく、真ん中辺り。性格も特には捻くれてはいないだろうというのが彼の自評でもあった。
そんな"普通の高校生"たる彼こと橘悠介が、混乱の渦中から抜け出したのがようやく今だった。
(なんだあれ! なんなんだよ!! くそ!)
木々の合間を縫うようにして悠介は走り、全力疾走に務める。
「クソッ! 俺が何したってんだよ、こんちくしょう」
彼は必死に走り、その走る彼を追う一つの影がある。
「グルルルルルルル」
喉を鳴らし、口元からだらりと涎を撒き散らすその追手は、獅子のような姿をしていた。
白い鬣に、白の体毛。二足歩行で大地を踏みしめて、力強く駆け抜けるその様は、吹雪のように美しい。
事が事でなければ、そのあまりの美しさに目を奪われること間違いなしだ。
だが、今はその美麗に酔いしれてる余裕などは当然ない。
当たり前だ。
橘悠介は普通の高校生に過ぎない。
武道の心得があるわけでもなければ(あったとしても人間では素手でライオンには勝てないが)、人類の叡智の結晶ともいえる銃火器等の兵器を振るえるほどの装備も技能もない。
あくまでも普通の高校生で、出来ることといえば今こうして"追い付かれないように"逃げることくらいのもの。
もちろん、脚力では到底あの化け物には及ばないが、そこはこの森の地の利を最大限に使わせてもらっている。
(ぅぐぅ、クソクソクソ! なんで俺がこんな目に)
口には出さないが、心の中で不満を叫ぶ。
(こういうのって大抵チート能力なり何なりと貰えるものじゃないのかよ)
ゲームや漫画では、今陥ってるこのような事象の際には、神様から異能の力を貰ったりするものだ。
彼の読む漫画にもよくそういう設定のものが出てくる。
しかし、
(それなのに何で俺の場合は何も無いんだ! こんなのでどうやってあの化け物を倒すんだよクソが)
現実は非情なり。
彼には何の力もない。
ケツ振って無様に逃げ惑うしかできない。
そのことに彼は、不満に思う。
ただ、それを口に出さないのは、体力の消耗を少しでも抑える為である。
彼は木々の合間を駆け抜け、時に大きく曲がり、また走り出す。
それを繰り返すことで、つまりは機動力で脚力の大きな差を埋めていた。
そうして体力には多少の自信がある彼が、しばらく白獅子との鬼ごっこ(捕まれば死亡確定)を続けていると、ようやく彼の元に声がかかる。
「いつまで追いかけっこをしているのですか? 闘いなさい。それでも貴方は勇者なの?」
無茶を言うな、と叫びたくなる衝動を抑えつつも彼は、視線だけを声の方に向ける。
木の上だ。幾つもに分岐した太枝の一つに少女が一人、冷然と佇んでいた。
「勇者ならば"異能"を、天より賜っているはずでしょう。それを使い、その魔物を殺しなさい。それとも命を奪うことに躊躇いでも持っているのですか?」
可愛らしく小首を傾げる少女の姿に、普段の彼ならば可愛いと思うだろう。だが、このような状況の中では、それよりも殺意の方が上回る。
少女に対して死ねと内心で吐き捨てた。
実際に伝えないのは、体力の問題もあるが、それ以上に女の子に対して罵詈を口にすることに僅かな躊躇を覚えたからだ。
(クソ! 何が勇者だ! 大体、異能って何なんだよ! そんなもん使えるならさっさと使ってるに決まってんだろ。まあ、命を奪うことには多少の抵抗はあると思うけど、自分が生き残る為なら躊躇なく殺すわ! 殺せないから今こうして逃げてんだろうが! 察しろよ! つーか、いい加減助けてくれよ、頼むから!)
「グルルルル、ガァア!」
(うぎゃああああ、きたっ!)
ほぼ反射的に動けたのは、相当運が良かった。
彼は真横に転がり、飛び付いてきた白獅子の爪を間一髪で回避。
後、一瞬でも遅ければ間違いなく致命傷だったろう。
(く、そう! なんで俺なんだよ! こういうのは、もっと特別な人間がやるべきことだろうが)
彼は直ぐに体勢を立て直して、また逃避を始める。
木の上の女の子は、相変わらず冷めた目で、彼の醜態を眺めているが、そんなことは関係ない。
生死の関わる自体に、外聞を保てるほど彼の精神は強くない。
無様でみっともないことだとは思いつつも、彼はとにかく生き残る為に足を動かす。
こんなところで死にたくない。
普通の生存本能だけが彼の足を動かし続ける原動力だった。
ーーそれからどれだけの時間が経ったのだろうか。
長いのかもしれないし、短いのかもしれない。
ただ、体感的には物凄く長い時間を彼は走り続けた。
体力が続いたのは、運が良かった。きっと追い付かれたら死ぬという極限の緊張による脳内麻薬の分泌のおかげなのかもしれない。
だが、そのおかげで彼は生き残った。
勿論、あの白い獅子を倒したわけではない。
気付いた時には、いなくなっていただけだ。
諦めたのか、あるいは消耗した体力を回復する為に一旦引いたのか。それは分からないが、ひとまず生き残ることには成功したのである。
(よっしゃあ、やった。やったぞ)
ぐでーと彼は倒れ込み、乱れた呼吸を整えながらも押し寄せる汗が森の地を濡らす。
(何とか生き延びた。よかった)
疲労のあまり思考がまともに働かず、そのまま静かに目を閉じた。