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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
最終章 水木御所成立 天正六年(1578)秋
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宿命 第三話

 同じく旧暦七月九日の夕刻。浪岡にも事態の報告がなされ、大雨の中すぐさま兼平(かねひら)綱則(つなのり)は馬を走らせた。羽州街道(当時は今羽(いまはね)街道)を南西へ、水木(みずき)館を目指す。水木を囲むは乳井(にゅうい)(たて)(きよ)と兵五百。予定では最後通牒が終わり、いつ攻めんしてもおかしくない……何としても止めなくてはならない。それは亡き水谷の懇願だけではない、水木は津軽家の生き残る命綱に化すかもしれないのだ。

 日中の事、(よし)(まち)の一行は石堂の率いる集団に襲われて、あろうことか亡き御所号の御子と母である安東の姫が奪われた。……彼らがいることで津軽家の名分が証明されるし、悪い言い方をすれば安東氏より人質を戴いた格好になっていた。……石堂が南部安東どちらへ向かうかは知れぬが、もし安東へ駆け込まれたら秋田勢と津軽氏の盟約は断たれ、戦争が始まるかもしれない。




“為信はこれほどの非道を浪岡に対して行いました。私はこうして御子と姫君をお救いし、秋田へ参ったのです”




 ……想像がつく。


 ではなぜ、水木が生命線となり得るのか。……多田(ただ)はすでに忘れているかもしれない。あの時は相当追い詰められていた。人間は悪い記憶を都合よく消し去ることができる。……だが多田が兼平に話したことをなかったことにしていても、兼平はそんなにも大事なことを忘れるはずがない。



“水木館主の水谷(みずたに)(とし)(さね)の養子は、実は川原御所の忘れ形見”



 永禄五年(1562)、十六年前。川原御所の北畠(きたばたけ)(とも)(のぶ)は当時の御所号に対し反乱を起こし、一族はことごとく滅せられた。その中で運よく生き残ったは具信の赤子。


“反乱の首謀者の子ではあるが、同じ北畠の血を継ぐ者。育てて浪岡の忠臣とすべし”


 そして水谷の元へ預けられたのだ。


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