あせり 第一話
……油川の者は自分たちの住む土地を“大浜”と呼ぶが、“俺たちの港が日本一だ”という自負があるからである。平成の世では大浜でこそなくなったが、海へ行くことを“浜に行く”と言うのはその名残である。
その大浜では浪岡が落ちても大釈迦が焼かれても、活気ある掛け声が絶えることない。敦賀、輪島、砺波、酒田……様々な湊の者が出入りし、北は現在のロシア沿海州や樺太のアイヌまでもが取引に混ざる。北の者なので真っ白の肌をしているかと思いきや、海運の民は黒い肌が多い。知らぬうちに海洋にて日焼けをしてしまう。商店の数は津軽家の鯵ヶ沢をしのぎ、連なる千軒ほどの小さい家屋が街道沿いに建てられ、行きかう人が途絶えることない。これは大きな陸奥湾(青森湾)で船が大きく荒らされることがないし、街道筋も三叉交わる物流の要なので物が売れるは売れる。
……だがさすがにそのような場所でも、落ち武者のような格好の者が現れたら、誰もが驚く。麻の着物がズタボロになって、泣く子供を連れてやってきたら、何があったのかと尋ねずにいられない。
大釈迦が燃やされた同日、旧暦七月五日の夕刻より油川にも避難民が着き始める。奥瀬はすでにこうなるだろうと予期していた。かねて浄満寺・円明寺(=明行寺)・法源寺の三寺に話をつけていた通り、伽藍庫裏の開放と食料の提供がすぐに始まった。……荷車にて重い家財道具を引っ張ってきた男、痛い痛いと泣く子供、垢まみれで肌が汚いのだがそれさえも気づかずに杖を突きながら歩いてきた老婆。
その中に、自害した北畠顕忠の兵もいた。白い布で覆われた箱。中身の箱の素材まではわからないが、訊くと途中の王余魚沢で整えられたらしい。……油川城の一の郭に設けられた北畠仮殿に兵が参上した。顕忠の最後と浪岡の知る限りの話を顕氏と水谷に伝える。