顕範の血 第三話
日を送って旧暦七月五日。
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油川の南西の山向こう、最初は黒い靄のようなものが映った。だが季節がら靄が見えるはずはないし、いったいなんだろうと民衆らは訝しんだ。すると次第にそれが煙だと判り、さらには火の手によるものだと判ったのは昼頃になってから。
南部代官で油川城主の奥瀬善九郎は悟った。浪岡は完全に津軽為信によって制圧されたと。これで津軽山辺郡は敵方に落ち、油川を含む外ヶ浜が南部氏の防波堤となる……。
奥瀬はいつも、平和裏に事を進めることを好む。戦をなるべく避け、必要あらば兵も出すが、それはあくまで大きな戦を避けるため。屈強な武者ぞろいの南部氏には珍しく、柔軟な考えの持ち主だったらしい。背景として生まれ育った”油川”という土地が影響しているかもしれない。武士よりも商人が圧倒的に多く、かつ人が激しく入れ替わる。しかも強い門徒宗(=一向宗)の拠点でもある。あの織田信長に激しく抵抗した本願寺である。中央の感覚でいえば、商人の町である堺と宗教都市の石山が同居しているようなものだ。この二つと常時より接しているものだから、正面から対立しても歯が立たぬことを十分理解している。いつしか戦よりも交渉や折衝に重きを置く性質になっていただろう。
このやりかたが果たして為信に通じたかどうかは定かではないが、結果として浪岡制圧から七年も耐えたのだから、南部氏の援けがなかなか及ばなかったことを考えると十分に力はあったはずだ。天正一三年(1585)為信侵攻時には犠牲を出さないように自ら兵を引いたのは、すでに勝敗が明らかだったからだ。何も無駄な戦をする必要はない。だからこそ戦わずして逃げたという汚名はついたが。
奥瀬はこの時、浪岡に兵を出さない決断をした。南部津軽両軍の直接対決を避けたのだ。どちらが勝つか知れぬ以上、兵は出せぬ。