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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第九章 水谷利実凶死 天正六年(1578)晩夏 旧暦七月六日
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顕範の血 第一話

 進んだ時を戻し旧暦七月三日夜、あの浪岡御所が落ちた日。


 敗軍の将である北畠(きたばたけ)(あき)(ただ)はひたすら大豆坂(まめざか)街道を東へ向かっていた。従うのは兵十名ほどで、最初こそ走っていたが、次第に早歩きに、そして疲れはてて道すがらのヒバの林にて足を止めてしまった。……馬など用意できるはずもなく、かえって他の兵らよりも鎧兜が重いのでたいそう疲れはてている。



 ……林の向こうでは、夜中だというのに人が絶えることはない。決まって右から左、いや西から東へと人は歩む。誰もこちらへ気を留めない。……この道を進めば王余魚沢(かれいざわ)の砦へ着くし、さらに山を越えさえすれば同じ浪岡北畠家臣の土岐(とき)氏の高田(たかだ)館へも行ける。浪岡の民百姓にとっても馴染みは多かろうし、近すぎる大釈迦(だいしゃか)に比べれば安全な避難先だろう。いくらか考えの深いものが選ぶ答えだろうか。



 ならば、私もこのまま逃げて王余魚沢にでも入ろうか……。いやいや、入るつもりで逃げてきたではないか。今更何を言う。だが……心底疲れはてた。……いまだ浪岡がどうなったなどわからぬし、賊徒らあくまで賊を(かた)った偽の集団に違いない……そう顕忠は確信していた。強く疑わしいのはもちろん津軽為信であるが、南部側が(はか)った可能性だってある。……真相を知りたいのなら、いま来ているだろう本隊の旗ざしを見れば一目瞭然。……引き返して見に行く気など起きようもないが。




 それに浪岡を守りきれなかった責任は、誰かが取らねばならぬ。私がまさしくその任に適する者である。……と思うと、心残りなのは油川にいるであろう息子の(あき)(うじ)。南部氏からは無碍(むげ)に扱われることはないだろうが、幾度となく南部に盾突いた(あき)(のり)の直系。優遇はされまい。苦しい暮らし向きが目に浮かぶ。


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