表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第八章 大釈迦館炎上 天正六年(1578)晩夏 旧暦七月五日
80/102

あろうことか 第四話

 一晩明け、旧暦七月五日朝。森岡(もりおか)信元(のぶもと)ら率いる津軽軍は包囲する大釈迦(だいしゃか)館に対し最後通牒を行った。夜通しふみが行きかう中で、大釈迦が助かる折衝(せっしょう)点はあった。賊など知らぬと館主の奥寺(おくでら)はひたすら突っぱねていたが、ならばといったん門をあけ放ち、逃げ込んだ者をこちらで調べるがよいかと森岡は提案をした。だが奥寺は拒絶する。“為信の兵らは疑わし限り、私は大釈迦館にいる者全てを信じている”





“籠る民草ともども滅ぼす気概があるのなら、堂々と攻め込んで来ればよろし。悪行は何代も先まで語り継がれることだろう“




 森岡や、付き従っている板垣にしても気持ちのいいものではない。かといってこれ以上の時間は待てない。油川からの援軍が現れぬうちに片づけなければならぬ。




 ……大釈迦という拠点が使い物にならぬようになっても構わぬと、内々に沼田(ぬまた)祐光(すけみつ)より話を受けている。それも油川が二度とこちら側に関わることができぬように。……これが他国者のやり方よ。好きではない。かつての大浦家はすでになく、いまや他国者の操る津軽家だ。



   “さあ油川へ、山を越えた先へ。黒き狼煙(のろし)を見せようではないか”




 辰巳(たつみ)の刻(午前九時ほど)、津軽軍は大釈迦館に向けて一斉に火矢を放った。民百姓ともども焼き殺すなど津軽の地において前例がなく、その悪行はさらに誇張され、現在において“浪岡御所を焼いた”として伝わっている。ただし近年の発掘調査によれば御所が焼かれたとは認められなかった。今作においては以上のような顛末(てんまつ)だろうかと想像して書きはしたが、実際のところ不明である。



 ただし山を越えた向こう……油川から見れば、大釈迦と浪岡は同じような場所である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ