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津軽藩起始 浪岡編 (1577-1578)  作者: かんから
第八章 大釈迦館炎上 天正六年(1578)晩夏 旧暦七月五日
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名分の元に 第五話


 夜が明けた。悲惨な一日は過ぎ、新たなる一日が始まる。かといって気を取り直して……とも行くはずはなく、あるべき形に戻ることは決してありえない。



 さっそく為信は旧浪岡北畠の残留組に命じて、塚森山つかもりやまなど浪岡を囲む山々へ民百姓の連れ戻しをさせた。見知っている者らが姿を現したので民百姓は安心したようで、次第に浪岡の町屋にも人が戻ってくる。ただしその中にかつての御所号である北畠(きたばたけ)(あき)(むら)の姿があるはずなく、淡い期待を抱く者は打ちひしがれただろう。



 為信としても顕村の亡骸(なきがら)を探させたが、結局のところよくわからなかった。身分不相応の格好をしていることもあるが、死んだということは野郎どもの証言で確かなので、そこまで熱を入れて探さなかったのもある。




 ……御所の一角である検校館(けんぎょうかん)を打ち壊して、大きな穴を掘る。そこへ格の低そうな身恰好の死体を放り込む。浪岡八幡宮の敷地にも穴を掘り、そこへは御所の兵など格の高そうな者らを埋葬した。急ぎ近くより曹洞宗の僧を呼び、略式ではあるが葬儀を執り行った。……喪主は津軽為信である。これは新たなる支配者誕生を宣言したのと同じ。




 同日、浪岡御所より北方5㎞。大釈迦(だいしゃか)館という旧浪岡北畠の砦があるのだが、そこへも浪岡より逃げ去った兵や民百姓が数多く避難していた。歩きでも一時間ほどで着く近さであるし、なんといっても南部氏の油川城へいく途中経路である。浪岡に何かあれば油川の奥瀬(おくせ)氏が動く約束であったので、大釈迦へ逃げ込むのは至極当然の判断であったともいえる。


 逆に言うならば、そんなにも近距離に南部氏に利用されかねない拠点が存在している。だまっていれば油川勢がつるがさかの峠を越えて軍勢を入れてくるだろう。


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